47話 謁見の間、再び
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。
眠れると思っていなかったが、眠れた。
目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。
起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。
ルナが持たせてくれた葉を使った。
温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。
王都の夜明け前。
ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。
今日、謁見の間に立つ。
もう一度、確認した。
怖い。でも、届けたい。
それだけでいい。
朝食を三人で食べた。
フィオナが、珍しく静かだった。
いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。
エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。
「緊張してる」
「フィオナが?」
「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」
「なぜですか?」
「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。
「フィオナ」
「何?」
「今日、謁見の間に入れますか?」
「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」
「そうでしたか」
「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」
「どんな顔をしていると思いますか?」
「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」
謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。
フィオナ、ゴードン、エリナの三人。
廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。
エリナは上着の内ポケットに手を当てた。
手紙が、ある。
フィオナが言った。
「今日の目標を、一つだけ確認する」
「届けること」
「届ければ、十分?」
「十分です。届けた後のことは、陛下が決める。私が決めることではない」
「それが、あなたらしい答え。だもう一つだけ言う」
「どうぞ」
「緊張してもいい。でも、あなたがそこにいることを、忘れないで」
「私がいること?」
「数字だけが報告するのではなく、あなたが報告する。数字の後ろに、あなたがいる。それを、忘れないで」
「わかりました」
ゴードンが少し間を置いて言った。
「準備ができています。行きましょう」
謁見の間の扉が、ゆっくりと開いた。
一年前にも、この扉が開いた。
あの時と同じ扉。でも、今日は違う人間が中に入る。
エリナは一歩踏み出した。
謁見の間は、一年前と同じだった。
高い天井。赤い絨毯。両側の柱に掛かるタペストリー。高窓から差し込む冬の光。
でも、見える景色は少し違った。
一年前は、すべてが大きく見えた。
今日は、大きいがそれだけだった。大きい部屋に、自分が立っている。それだけだ。
高官たちが、両側に並んでいた。
右側の列に、クロヴェル侯爵がいた。
整った顔。完璧な姿勢。こちらを見ていた。
エリナは視線を受け取って、逸らさなかった。
左側の壁際に、師匠とレインがいた。
師匠は白髪の老人で、一度も会ったことがなかった。でも、手紙を通じて知っている人だった。
レインは、その隣に立っていた。
エリナがレインを見た。
レインがエリナを見た。
一秒、目が合った。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
落ち着ける、と思った。
陛下が玉座に着いた。
ラオネル・ヴァルデリア三世。
一年前に会った時と、同じ目をしていた。疲れを帯びた穏やかさ。でも、穏やかさが弱さではない。
「エリナ・アッシュフォード、よく来た。一年ぶりだ」
「お招きいただきありがとうございます」
「一年前、私はそなたに任を与えた。今日、その結果を聞こう」
「はい」
エリナは、おばあさんの孫の話から始めた。
紙を持たなかった。
自分の言葉で、話した。
「一年前、ルシェムという小さな町で、石鹸を作り始めました。最初は、一人でした。台所の窓から市場が見える、小さな長屋でした」
静かな声で話した。
「その石鹸を使うようになってから、ある方の孫が病気で寝込む日が減ったと聞きました。その方は、まだ小さい子がうちの孫のために考えてくれていたのか、と言って、泣いていたそうです」
謁見の間が、静かだった。
「私は、その孫のために作ったわけではありませんでした。でも、届いていた。狙っていなかったものが、届いていた」
一秒間を置いた。
「その話から始めたいと思います。数字の前に、まず、その話を」
第一部が終わった後、第二部に移った。
学院の感染率のデータを、口頭で提示した。
「学院の医療棟では、消毒液の採用後、術後感染率が採用前の三割八分まで下がっています。これは、一年間の継続的な記録から得られた数字です。学院の師匠、ヴォルフ・グラーセン先生の確認書に、詳細が記されています」
魔法師団長が、手元の書類を見た。前日に届けられたものだ。
「第三部では、この効果が一地方に限らないことをお示しします」
第三部で、各町のデータを提示した。
薬屋の販売記録が四つの町で同じ傾向を示していること。ベルダンの民間の記録書が、商業的な観点から効果を裏付けていること。そして、王都の平民街での試験結果。
「王都でも、同じ効果が確認されています。三週間の試験期間で、病欠の申告が三割近く減りました」
右側の列で、わずかにざわめきが起きた。
王都のデータは、一地方の話では済まない。
第四部に入る前に、クロヴェル侯爵が発言を求めた。
「陛下、発言をお許しください」
「クロヴェル侯爵」
「このデータは、興味深い。しかし、これらは石鹸と薬草薬の効果ではなく、使用した人間の衛生意識の向上によるものではないか。石鹸が媒介ではなく、意識の変化が主因であれば、特定の商会の功績とは言えない」
静かな声だった。穏やかだった。
エリナは、その言葉を受け取った。
想定していた反論だ。
「ご指摘ありがとうございます」
エリナが答えた。
「二点お答えします。一点目。薬屋の販売記録は、石鹸が配布される前と後で、明確に変化しています。同じ時期に衛生意識だけが変わった理由が別にあるとすれば、それをご指摘いただければ、検討いたします。今のところ、石鹸の配布時期と変化の時期が一致しています」
「二点目」
エリナは続けた。
「意識の変化と石鹸の普及は、矛盾しません。石鹸を使うことで手洗いの習慣が生まれた。習慣が意識を作る。どちらが先かではなく、両方が同時に起きている。その結果として、病気が減った。原因を一つに絞ることより、結果として何が変わったかが重要だと考えます」
クロヴェル侯爵が、少しだけ目を細めた。
否定はしなかった。
第四部の提言に入った。
「魔法は、この国の礎です。それは変わらない。でも、魔法が届かない場所があります。魔法師が足りない村、魔法師に頼れない平民、重症患者が来るまでの時間。その隙間を、知識で埋めることができます」
エリナは、一度だけ左側の壁際を見た。
師匠と、レインがいた。
「学院の師匠が、この一年間、学院での成果を記録し続けてくれました。消毒液を使うことで、治癒魔法師が軽症の処置に追われる時間が減った。重症の患者に、より多くの力を使えるようになった。これは魔法師の仕事を奪うのではなく、魔法師が本当に必要な場面に集中できるようにすることです」
エリナが話し終えると、師匠が発言を求めた。
陛下が頷いた。
師匠が前に出た。
白髪の老人が、三分間、話した。
冒頭は、おばあさんの孫の話から始めた。
エリナが報告書で使った話と、同じ話から始めた。
謁見の間が、また静かになった。
師匠は、数字を一つ一つ丁寧に話した。感情を込めることなく、でも確かな重さを持って。
「以上が、学院医療棟での一年間の記録です。数字は、嘘をつきません」
師匠が下がった。
陛下が少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「一年前、私はそなたに任を与えた。その任が、今日、果たされた」
謁見の間が静かだった。
「クロヴェルの上奏について、慎重に検討すると言った。その答えを、今日出す」
右側の列が、わずかに緊張した。
「この一年の成果は、数字として明らかだ。王都を含む複数の地域で、同じ効果が確認されている。学院がそれを証明している。規制を設けることは、今の段階では適切ではない」
静かな一言だった。
でも、その一言が、謁見の間の空気を変えた。
クロヴェルの顔が、わずかに動いた。
「アッシュフォード商会の活動は、引き続き認める。さらに、今後の展開について、王宮として正式に支援を検討する」
エリナは、陛下の言葉を受け取った。
認める。
引き続き、認める。
さらに支援を検討する。
一年前の約束が、果たされた。
謁見が終わった。
廊下に出ると、フィオナが待っていた。
エリナの顔を見て、何も言わなかった。
でも、目が少し潤んでいた。
「フィオナ」
「うん」
「届きました」
「知ってる。廊下まで、聞こえてた」
二人で、少しだけ黙った。
ゴードンが隣に来た。
「よく話されました」
「ありがとうございます」
「数字は、届きました」
しばらくして、謁見の間の扉が開いた。
師匠が出てきた。
エリナは初めて、師匠の顔を見た。
白髪で、背が高く、目が鋭い。でも、今日の目は鋭さの中に、穏やかな何かがあった。
「エリナ殿」
「先生」
「よくやった。おばあさんの孫の話から始めたことは、正しかった」
「先生も、同じ話から始めてくださいました」
「当然だ。それが一番大事な話だから」
師匠が少しだけ、口の端を動かした。
「レインが、廊下で待っている」
エリナは廊下の奥に向かった。
レインが、石の柱の近くに立っていた。
いつもの旅装束ではなく、学院の正式な服装だった。でも、目は同じだった。
エリナが近づいた。
上着の内ポケットから、手紙を取り出した。
「これ」
レインが受け取った。
「何だ?」
「昨夜書いた。王都に来てから書いた手紙です。届けたかったから、直接」
レインが封筒を見た。
「開けていいか?」
「どうぞ」
レインが封を開けた。一枚の紙を、その場で読んだ。
エリナは、レインが読むのを待った。
読み終えて、レインが顔を上げた。
「『あなたがいてくれれば、少し落ち着けると思う。明後日、そこにいてほしい』」
「そう書きました」
「いた」
「はい」
「落ち着けたか?」
「落ち着けました」
レインが少しだけ、目を細めた。
「今夜、話せるか」
エリナは少しだけ止まった。
一年後の約束。その夜に、ゆっくり話がしたい。
「話せます」
「数字と結果ではなく」
「数字と結果ではなく」
レインが頷いた。
「今夜」
「今夜」
廊下の奥から、フィオナが来た。
エリナとレインが並んで立っているのを見て、少しだけ足を止めた。
それから、何も言わずに笑った。
声は出なかった。でも、笑った。
エリナは、フィオナのその顔を見て、少しだけ自分も口の端が動いた。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、謁見の間に立った。
届けた。
一年後の約束が、今夜果たされる。
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