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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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47/120

47話 謁見の間、再び

 謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。

 眠れると思っていなかったが、眠れた。

 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。

 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。

 ルナが持たせてくれた葉を使った。

 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。

 王都の夜明け前。

 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。

 今日、謁見の間に立つ。

 もう一度、確認した。

 怖い。でも、届けたい。

 それだけでいい。


 朝食を三人で食べた。

 フィオナが、珍しく静かだった。

 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。

 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。

 

「緊張してる」

「フィオナが?」

「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」

「なぜですか?」

「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。

 

「フィオナ」

「何?」

「今日、謁見の間に入れますか?」

「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」

「そうでしたか」

「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」

「どんな顔をしていると思いますか?」

「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」


 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。

 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。

 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。

 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。

 手紙が、ある。

 フィオナが言った。

 

「今日の目標を、一つだけ確認する」

「届けること」

「届ければ、十分?」

「十分です。届けた後のことは、陛下が決める。私が決めることではない」

「それが、あなたらしい答え。だもう一つだけ言う」

「どうぞ」

「緊張してもいい。でも、あなたがそこにいることを、忘れないで」

「私がいること?」

「数字だけが報告するのではなく、あなたが報告する。数字の後ろに、あなたがいる。それを、忘れないで」

「わかりました」

 

 ゴードンが少し間を置いて言った。

 

「準備ができています。行きましょう」


 謁見の間の扉が、ゆっくりと開いた。

 一年前にも、この扉が開いた。

 あの時と同じ扉。でも、今日は違う人間が中に入る。

 エリナは一歩踏み出した。


 謁見の間は、一年前と同じだった。

 高い天井。赤い絨毯。両側の柱に掛かるタペストリー。高窓から差し込む冬の光。

 でも、見える景色は少し違った。

 一年前は、すべてが大きく見えた。

 今日は、大きいがそれだけだった。大きい部屋に、自分が立っている。それだけだ。

 高官たちが、両側に並んでいた。

 右側の列に、クロヴェル侯爵がいた。

 整った顔。完璧な姿勢。こちらを見ていた。

 エリナは視線を受け取って、逸らさなかった。

 左側の壁際に、師匠とレインがいた。

 師匠は白髪の老人で、一度も会ったことがなかった。でも、手紙を通じて知っている人だった。

 レインは、その隣に立っていた。

 エリナがレインを見た。

 レインがエリナを見た。

 一秒、目が合った。

 それだけだった。

 でも、それで十分だった。

 落ち着ける、と思った。


 陛下が玉座に着いた。

 ラオネル・ヴァルデリア三世。

 一年前に会った時と、同じ目をしていた。疲れを帯びた穏やかさ。でも、穏やかさが弱さではない。

 

「エリナ・アッシュフォード、よく来た。一年ぶりだ」

「お招きいただきありがとうございます」

「一年前、私はそなたに任を与えた。今日、その結果を聞こう」

「はい」


 エリナは、おばあさんの孫の話から始めた。

 紙を持たなかった。

 自分の言葉で、話した。

 

「一年前、ルシェムという小さな町で、石鹸を作り始めました。最初は、一人でした。台所の窓から市場が見える、小さな長屋でした」

 

 静かな声で話した。

 

「その石鹸を使うようになってから、ある方の孫が病気で寝込む日が減ったと聞きました。その方は、まだ小さい子がうちの孫のために考えてくれていたのか、と言って、泣いていたそうです」

 

 謁見の間が、静かだった。

 

「私は、その孫のために作ったわけではありませんでした。でも、届いていた。狙っていなかったものが、届いていた」

 

 一秒間を置いた。

 

「その話から始めたいと思います。数字の前に、まず、その話を」


 第一部が終わった後、第二部に移った。

 学院の感染率のデータを、口頭で提示した。

 

「学院の医療棟では、消毒液の採用後、術後感染率が採用前の三割八分まで下がっています。これは、一年間の継続的な記録から得られた数字です。学院の師匠、ヴォルフ・グラーセン先生の確認書に、詳細が記されています」

 

 魔法師団長が、手元の書類を見た。前日に届けられたものだ。

 

「第三部では、この効果が一地方に限らないことをお示しします」


 第三部で、各町のデータを提示した。

 薬屋の販売記録が四つの町で同じ傾向を示していること。ベルダンの民間の記録書が、商業的な観点から効果を裏付けていること。そして、王都の平民街での試験結果。

 

「王都でも、同じ効果が確認されています。三週間の試験期間で、病欠の申告が三割近く減りました」

 

 右側の列で、わずかにざわめきが起きた。

 王都のデータは、一地方の話では済まない。


 第四部に入る前に、クロヴェル侯爵が発言を求めた。

 

「陛下、発言をお許しください」

「クロヴェル侯爵」

「このデータは、興味深い。しかし、これらは石鹸と薬草薬の効果ではなく、使用した人間の衛生意識の向上によるものではないか。石鹸が媒介ではなく、意識の変化が主因であれば、特定の商会の功績とは言えない」

 

 静かな声だった。穏やかだった。

 エリナは、その言葉を受け取った。

 想定していた反論だ。

 

「ご指摘ありがとうございます」


 エリナが答えた。


 「二点お答えします。一点目。薬屋の販売記録は、石鹸が配布される前と後で、明確に変化しています。同じ時期に衛生意識だけが変わった理由が別にあるとすれば、それをご指摘いただければ、検討いたします。今のところ、石鹸の配布時期と変化の時期が一致しています」

「二点目」


 エリナは続けた。


「意識の変化と石鹸の普及は、矛盾しません。石鹸を使うことで手洗いの習慣が生まれた。習慣が意識を作る。どちらが先かではなく、両方が同時に起きている。その結果として、病気が減った。原因を一つに絞ることより、結果として何が変わったかが重要だと考えます」

 

 クロヴェル侯爵が、少しだけ目を細めた。

 否定はしなかった。


 第四部の提言に入った。

 

「魔法は、この国の礎です。それは変わらない。でも、魔法が届かない場所があります。魔法師が足りない村、魔法師に頼れない平民、重症患者が来るまでの時間。その隙間を、知識で埋めることができます」

 

 エリナは、一度だけ左側の壁際を見た。

 師匠と、レインがいた。

 

「学院の師匠が、この一年間、学院での成果を記録し続けてくれました。消毒液を使うことで、治癒魔法師が軽症の処置に追われる時間が減った。重症の患者に、より多くの力を使えるようになった。これは魔法師の仕事を奪うのではなく、魔法師が本当に必要な場面に集中できるようにすることです」


 エリナが話し終えると、師匠が発言を求めた。

 陛下が頷いた。

 師匠が前に出た。

 白髪の老人が、三分間、話した。

 冒頭は、おばあさんの孫の話から始めた。

 エリナが報告書で使った話と、同じ話から始めた。

 謁見の間が、また静かになった。

 師匠は、数字を一つ一つ丁寧に話した。感情を込めることなく、でも確かな重さを持って。

 

「以上が、学院医療棟での一年間の記録です。数字は、嘘をつきません」

 

 師匠が下がった。


 陛下が少しだけ間を置いてから、口を開いた。

 

「一年前、私はそなたに任を与えた。その任が、今日、果たされた」

 

 謁見の間が静かだった。

 

「クロヴェルの上奏について、慎重に検討すると言った。その答えを、今日出す」

 

 右側の列が、わずかに緊張した。

 

「この一年の成果は、数字として明らかだ。王都を含む複数の地域で、同じ効果が確認されている。学院がそれを証明している。規制を設けることは、今の段階では適切ではない」

 

 静かな一言だった。

 でも、その一言が、謁見の間の空気を変えた。

 クロヴェルの顔が、わずかに動いた。

 

「アッシュフォード商会の活動は、引き続き認める。さらに、今後の展開について、王宮として正式に支援を検討する」


 エリナは、陛下の言葉を受け取った。

 認める。

 引き続き、認める。

 さらに支援を検討する。

 一年前の約束が、果たされた。


 謁見が終わった。

 廊下に出ると、フィオナが待っていた。

 エリナの顔を見て、何も言わなかった。

 でも、目が少し潤んでいた。

 

「フィオナ」

「うん」

「届きました」

「知ってる。廊下まで、聞こえてた」

 

 二人で、少しだけ黙った。

 ゴードンが隣に来た。

 

「よく話されました」

「ありがとうございます」

「数字は、届きました」


 しばらくして、謁見の間の扉が開いた。

 師匠が出てきた。

 エリナは初めて、師匠の顔を見た。

 白髪で、背が高く、目が鋭い。でも、今日の目は鋭さの中に、穏やかな何かがあった。

 

「エリナ殿」

「先生」

「よくやった。おばあさんの孫の話から始めたことは、正しかった」

「先生も、同じ話から始めてくださいました」

「当然だ。それが一番大事な話だから」

 

 師匠が少しだけ、口の端を動かした。

 

「レインが、廊下で待っている」


 エリナは廊下の奥に向かった。

 レインが、石の柱の近くに立っていた。

 いつもの旅装束ではなく、学院の正式な服装だった。でも、目は同じだった。

 エリナが近づいた。

 上着の内ポケットから、手紙を取り出した。

 

「これ」

 

 レインが受け取った。

 

「何だ?」

「昨夜書いた。王都に来てから書いた手紙です。届けたかったから、直接」

 

 レインが封筒を見た。

 

「開けていいか?」

「どうぞ」

 

 レインが封を開けた。一枚の紙を、その場で読んだ。

 エリナは、レインが読むのを待った。

 読み終えて、レインが顔を上げた。

 

「『あなたがいてくれれば、少し落ち着けると思う。明後日、そこにいてほしい』」

「そう書きました」

「いた」

「はい」

「落ち着けたか?」

「落ち着けました」

 

 レインが少しだけ、目を細めた。

 

「今夜、話せるか」

 

 エリナは少しだけ止まった。

 一年後の約束。その夜に、ゆっくり話がしたい。

 

「話せます」

「数字と結果ではなく」

「数字と結果ではなく」

 

 レインが頷いた。

 

「今夜」

「今夜」


 廊下の奥から、フィオナが来た。

 エリナとレインが並んで立っているのを見て、少しだけ足を止めた。

 それから、何も言わずに笑った。

 声は出なかった。でも、笑った。

 エリナは、フィオナのその顔を見て、少しだけ自分も口の端が動いた。


 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今日、謁見の間に立った。

 届けた。

 一年後の約束が、今夜果たされる。

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