46話 前夜
謁見の前日。
朝から、フィオナと報告書の最終確認をした。
二人で机に向かって、一行ずつ確認した。数字に間違いがないか。論理の流れが途切れていないか。言葉が難しすぎないか。
午前中に、第一部から第三部まで確認した。
「第四部」
フィオナが言った。
「魔法師の負担軽減の部分、ここが一番反発を受けやすい」
「そう思います」
「でも、ここが一番大事でもある」
「そうです」
「クロヴェルが何か言ってきたら、どう返しますか?」
「学院のデータを使います。消毒液を採用してから、治癒魔法師の一人あたりの対応件数がどう変わったか。そのデータが、師匠の確認書に入っています」
「魔法師の負担が実際に減った、という数字ですね」
「そうです。主張ではなく、事実で返す」
フィオナが頷いた。
「想定問答を、もう一度やっておく?」
「お願いします」
フィオナがクロヴェルの役になった。
「アッシュフォード商会の活動は、魔法師の職域を侵している。石鹸と薬草薬が広まれば、治癒魔法師の仕事が減る。それは、王国の魔法体制を弱体化させることになる」
エリナが答えた。
「学院の医療棟のデータをご確認ください。消毒液の採用後、治癒魔法師の一人あたりの対応件数は、重篤な症例に集中するようになっています。軽症の処置に追われる時間が減り、本来魔法師が対応すべき場面に力を使えるようになっています。これは弱体化ではなく、強化です」
「エリナ」
「はい」
「それは詭弁だ。魔法師が不要になれば、魔法の権威そのものが失われる」
「魔法師が不要になるとは考えていません。今まで魔法師が届けていたものを、魔法師が届けられない場所でも届けられるようにするだけです。魔法師にしかできないことは、今後も魔法師が担います。その役割は変わりません」
フィオナが声を戻した。
「良い。落ち着いている」
「少し練習しました」
「わかる。でも、当日は紙を見ながらではない。今のように、自分の言葉で話せれば十分だ」
「ありがとう」
昼過ぎ、アルバ殿下から使いが来た。
明日の段取りの最終確認の書状だった。
エリナとゴードンが、謁見の間に入る時刻。立つ場所。発言を求められる順番。
読んで、ゴードンに確認した。
「問題ありません。一点だけ確認します。報告書を手で持ちますか。それとも、事前に読んでいただいた前提で話しますか?」
「前日に陛下と高官に届けてある。だから、事前に読んでいただいた前提で話します。手には持たない」
「そうすると、発言中に数字を引用する時に、確認できなくなります」
「全部、頭に入っています」
「確かに、そうでしょうね」
「数字は、入っています。でも、最初の話は、紙を見ないで話したい。おばあさんの孫の話から、自分の言葉で入りたい」
「わかりました。それが良いと思います」
夕方、フィオナが「少し歩かないか」と言った。
王都の街を、二人で少しだけ歩いた。
ゴードンは宿で書類の最終整理をしていた。
冬の王都は、空気が冷たかった。石畳に霜が残っていた。
ルシェムより人が多い。でも、今日の街は少し静かに見えた。自分が静かなのかもしれない、とエリナは思った。
「明日、緊張しますか」
フィオナが歩きながら言った。
「する」
「いつもより?」
「いつもとは違う種類の緊張です」
「どう違う?」
「いつもの緊張は、失敗しないように、という緊張だった」エリナが言った。「でも明日のは、それだけではない」
「何が加わった?」
「届けたい、という緊張かもしれない」
フィオナが少しだけ歩調を緩めた。
「届けたい?」
「父が残したものを、届けたい。ルシェムのおばあさんの言葉を、届けたい。一年間、みんなが積み上げてきたものを、届けたい」
「それが、今日の緊張の種類?」
「そう思います」
フィオナが少しだけ黙って歩いた。
「私はずっと、あなたが怖いものを知らない人間だと思っていた。最初に会った時から」
「怖いものだらけです」
「でも、怖がっているように見えなかった」
「怖がっている時間が、もったいないから。怖いなら、動く方が早い」
「それが、あなたらしい。でも、今日のあなたは少し違う。緊張しているのが、見える」
「見えますか?」
「見える。でも、悪い緊張じゃない。届けたい、という緊張だから」
二人で、しばらく石畳を歩いた。
「フィオナ」
「何?」
「王都に一人でいて、この一年、どうでしたか?」
「聞くのね」
「聞きたかった」
フィオナが少し考えた。
「正直に言う。最初の二ヶ月は、孤独だった。知っている人間がいなくて、一から信頼を作らないといけなくて、疲れた」
「そうでしたか」
「でも、その後は変わった」
「何が変わりましたか?」
「あなたたちの手紙が来るたびに、ルシェムが動いているのがわかった。私が王都で集めた情報が、ルシェムで使われているのがわかった。私がここにいる意味が、見えた」
「意味が見えると、変わりますか?」
「変わる。自分がやっていることが、何かに繋がっていると思えれば、孤独でも続けられる」
「それは——」
エリナが少し考えた。
「私も、同じことを感じていたかもしれません」
「どういうこと?」
「ルシェムで石鹸を作っていた時も、一人だった。でも、マリオが来て、ルナが来て、ゴードンが来た。繋がっていくことで、動けた」
「孤独から始まって、繋がっていく。それが、二人とも同じだったんだね」フィオナが言った。
「そうかもしれません」
宿に戻ると、ゴードンが書類の整理を終えていた。
「明日の持ち物は、全部確認しました。確認書、データ、ベルダンの記録書、王都のデータ。全部、揃っています」
「ありがとうございます」
「エリナさん、明日、私はゴードンとして立ちます。アッシュフォード商会の代表として」
「はい」
「でも、その名前を使うのは、今日が最後かもしれません」
エリナは少しだけ止まった。
「どういう意味ですか?」
「明日、報告が終われば、商会の代表は正式にエリナさん自身に移すことができます。年齢の制限が残るかもしれませんが、陛下が認めてくれれば、可能です」
「考えていませんでした」
「考える必要があります。今日のうちに」
エリナは少し考えた。
アッシュフォード商会の代表を、自分の名前で持つ。
ゴードンに頼んで始めた商会だ。でも、ずっとそうするつもりではなかった。
「明日の報告の中で、陛下に確認してもらうことはできますか?」
「できると思います。アルバ殿下に事前に伝えておけば、その話を場に出すことができます」
「今夜、殿下に連絡を」
「手配します」
夜、エリナは机に向かった。
明日のことを、もう一度頭の中で確認した。
謁見の間に入る。おばあさんの孫の話から始める。学院のデータを中心に据える。各町のデータを補助に使う。第四部の提言で締める。師匠が発言する。
やることは見えている。
落ち着いている。
少し、緊張している。
でも、届けたい、という気持ちが、一番大きい。
エリナは荷物の中から、昨夜書いた手紙を取り出した。
レインへの手紙。
明日、謁見の間で渡す。
封筒を手の中に持って、少しだけ考えた。
明日、レインがそこにいる。
同じ部屋にいる。
エリナは封筒をそっと、上着の内ポケットに入れた。
明日、渡す。
寝る前に、セレーナへの短い手紙を書いた。
お母さんへ
今夜、王都にいます。明日、謁見の間に立ちます。
出発の朝、お母さんが言った言葉を、今日ずっと持っていました。
『遠くを見ながら、ここも見ている』という言葉。
ここも見ています。ルシェムを。お母さんを。
必ず帰ります。
――エリナ――
書いて、封をした。
これは、帰ってから渡す。
でも、書いておきたかった。
ランプを吹き消した。
王都の夜は、窓の外が少し明るかった。
街の灯りが滲んでいた。
明日の朝、謁見の間に向かう。
父が何度も歩いた道を、今度は自分が歩く。
怖い。
でも、届けたい、という気持ちの方が大きい。
同じ部屋に、レインがいる。
謁見の前に、フィオナと十分話せる。
ゴードンが隣にいる。
一人ではない。
エリナは目を閉じた。
眠れるかどうかわからなかった。
でも、眠れなくてもいい。
静かに、明日を待つ。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
明日、父が夢見た場所に立つ。
それが今夜、一番確かなことだった。
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