45話 出発の朝
残り三日になった朝、エリナは夜明け前に目が覚めた。
眠れなかったわけではない。ちゃんと眠った。でも、空が明るくなる前に、自然に目が開いた。
台所に行って、湯を沸かした。
薬草茶を作りながら、窓の外を見た。
ルシェムの夜明け前の空は、深い藍色だった。
今日、出発する。
ゴードンと二人で、王都へ向かう。フィオナと同じ宿に泊まる。明日、最終確認をする。明後日、謁見の間に立つ。
順番が、頭の中に整然と並んでいた。
でも今朝は、順番を確認するより先に、別のことを考えていた。
ここから出発する。
ルシェムから。
あの日、母と一緒に屋敷を出た。小さな荷物一つ持って。生後十一ヶ月の自分が、母の腕の中から遠ざかっていく屋敷を見ていた。
それがすべての始まりだった。
その場所から、今日、王都へ出発する。
セレーナが台所に来たのは、空が少し白くなった頃だった。
「起きてたの?」
「目が覚めた」
「緊張している?」
「少し」
セレーナが隣に座った。エリナが作った薬草茶を、一口飲んだ。
「お父さんの話をしてもいい?」
セレーナが少しだけ目を動かした。
「もちろん」
「父が王宮に仕えていた頃、出発の朝はどういう感じでしたか?」
セレーナがしばらく考えた。
「いつも早起きしてたわ。あなたと同じ」
「そうですか」
「宮廷に行く前の朝は、特に静かな人だった。でも、目だけが違った。いつもより、遠くを見てる目をしてた」
「遠くを見ている目、とは」
「次のことを、もう見ている目。まだここにいるのに、すでに次の場所にいるような」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
「今の私は、そういう目をしていますか?」
「似てる」
セレーナが穏やかに言った。
「でも、少し違う」
「どう違いますか?」
「お父さんの目は、遠くを見ていた。でも、あなたの目は、遠くを見ながら、ここも見ている」
エリナは窓の外を見た。
空が、少しずつ明るくなっていた。
「ここも見ている、というのは?」
「ルシェムを。私を。ここで待っている人たちを。お父さんは、あまりそういう目をしなかった。次のことが大きすぎて、足元が見えにくかった人だから」
「それが、弱点でしたか?」
「弱点というより、そういう人だった。でも——」
セレーナが少し笑った。
「あなたは、ちゃんと両方見ている」
朝食を食べた後、マリオが来た。
いつもより少し早い時間だった。
「見送りに来た」
「ありがとうございます」
「大したことはできないけど、見送りくらいはしたい」
エリナは荷物を確認した。
報告書の最終版。確認書。データの書類。着替え。薬草茶の葉。それとルナが持たせてくれた小さな布袋。中に、手作りの解熱薬と風邪薬が入っていた。
「念のため」
「念のためは大事です」
とエリナが答えると、ルナが珍しく小さく頷いた。
荷物を確認し終えて、エリナはルナに言った。
「留守の間、作業場とルシェムの現場を頼みます」
「わかった」
「猫も」
「猫も。ちゃんとやる」
「信頼しています」
「知ってる」
ルナが、珍しくエリナの方を少し長く見た。
「エリナ」
「何?」
「頑張って」
ルナが「頑張って」と言ったのは、初めてだった。
エリナは少しだけ止まった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
グレンが、長屋の前に来ていた。
「見送りか、と思って来た」
「来てくださったんですか」
「遠くないから」
グレンが、大きな手でエリナの頭を一度だけ、ぽんと叩いた。
「行ってこい」
「行ってきます」
「ちゃんとやれ」
「やります」
それだけだった。
グレンは、それ以上は何も言わなかった。でも、それだけで十分だった。
ハンスも来ていた。
マリオの父親だ。作業場の壁を直してくれた人。最初に木の容器を作ってくれた人。
「ハンスさん」
「行くのか」
「はい」
「何か、足りないものはないか?」
「全部、揃っています。ハンスさんのおかげで」
ハンスが少しだけ、目を細めた。
「うちの倅が、世話になっている」
「マリオにこそ、世話になっています」
「あいつはお前がいると、いきいきしてる。それで十分だ」
エリナは、その言葉を受け取った。
ゴードンが馬車の前で待っていた。
荷物はすでに積んであった。手際が良い。
「準備はいいですか?」
「はい」
「では、参りましょう」
馬車に乗ろうとした時、マリオが言った。
「エリナ」
「何?」
「一つだけ言っていいか?」
「どうぞ」
「俺は、ずっとここにいる。帰ってくる場所がある」
エリナは少しだけ止まった。
「わかっています」
「でも、言いたかった」
「……ありがとう」
「それだけだ。行ってこい」
マリオが少し笑った。目が、少し赤かった気がした。
エリナは馬車に乗った。
馬車が動き出した。
窓から外を見ると、長屋の前に人が集まっていた。
マリオ。ルナ。グレン。ハンス。
それぞれが、それぞれの立ち方で立っていた。
マリオが手を振った。
ルナが少しだけ手を上げた。
グレンは腕を組んで立っていた。
ハンスは静かに頷いた。
馬車が進んで、長屋が遠くなった。
エリナは窓から、遠ざかっていく長屋を見ていた。
没落して、この長屋に来た日のことを、少しだけ思い出した。
母と二人で、小さな荷物を持って来た日。
あの時、この長屋が自分の場所になるとは思っていなかった。
でも、なった。
今、この場所から出発する。
帰ってくる場所がある、とマリオが言った。
そうだ、と思った。
ゴードンが、少し間を置いてから言った。
「いつもより、多くの人が見送りに来ていましたね」
「そうですね」
「みんな、何も言わないが、待っているということです」
「知っています」
「知っていても、言葉にすることが大事な時があります。私も、言っておきたいことがある」
「どうぞ」
「エリナさん」
ゴードンが少し間を置いた。
「私が商人ギルドで告発して、居場所を失った時、正しいことをしても報われないものだと思っていた」
「そうだったんですか」
「そうでした。でも、この一年で、少し考え方が変わった。正しいことをしても、すぐには報われないかもしれない。でも、正しいことの記録は残る。誰かが、いつかそれを見る」
「父の記録が、学院に残っていた」
「そうです。アッシュフォード侯爵の案は、消えなかった。あなたが、今日それを持って王宮に行く」
エリナは窓の外を見た。
街道が続いている。
「ゴードンさんの告発の記録も、どこかに残っていますか?」
「どこかにあるはずです。ギルドが消したかもしれませんが、あの時私から話を聞いた人間が、何人かいる。記録は、文書だけではない」
「そうですね」
「あなたが今日持っていく数字も、同じだと思います。報告の場が終わっても、その数字は消えない」
宿場町で一泊して、翌日の昼に王都に着いた。
フィオナが、宿の前で待っていた。
今回も、直接会う場面だった。
エリナが馬車から降りると、フィオナが一歩近づいた。
「来た」
「来た」
また、二文字だった。
でも、今回のその二文字には、前回より多くのものが入っている気がした。
「準備は?」
「整っている」
「報告書は?」
「持ってきた」
「確認書は?」
「持ってきた」
「全部ある?」
「全部ある」
フィオナが少しだけ息を吐いた。
「よし」
それだけ言って、宿の中に案内してくれた。
その夜、三人で夕食を食べた。
ゴードンとフィオナとエリナ。
料理は、宿のものだった。質素だが、温かかった。
食べながら、フィオナが言った。
「明日、謁見の前に十分確保してある。殿下が確認してくれた」
「ありがとう」
「当日の流れを、今夜確認しておく?」
「お願いします」
フィオナが手帳を開いた。
「午前十時、謁見の間。まず陛下が入場。次に高官と貴族たち。クロヴェル侯爵は右側の列に入る。学院の師匠とレインは、左側の壁際に立つ形になる。あなたとゴードンさんは、中央の少し前に立つ」
「レインが、同じ部屋にいる」
「いる。でも、発言できる立場ではない。師匠の記録担当として同席する形だから、発言は師匠だけ」
「わかりました」
「あなたの発言は、報告書を読み上げる形ではない。要点を話す形になる。長くて三十分、短ければ二十分くらいを想定している」
「報告書は、事前に配布されますか?」
「陛下と高官には、前日に届けてある。アルバ殿下が手配してくれた」
「では、当日は補足と質疑応答が中心になる可能性がある」
「そうなると思う。クロヴェル侯爵が、途中で発言することもあるかもしれない」
「想定しています」
「その時、どうする?」
「事実を言う。感情では返さない。数字で返す」
「それが、あなたらしい」
フィオナが少し笑った。
「でも、一つだけ追加で言いたいことがある」
「何ですか?」
「感情で返さなくていい。でも、感情がないふりもしなくていい」
エリナは少しだけ止まった。
「どういう意味ですか?」
「謁見の間には、いろんな人がいる。数字で動く人もいれば、感情で動く人もいる。あなたは数字で語るのが得意。でも、その数字の後ろに、あなたがいることを見せてもいい」
「私が、いることを?」
「おばあさんの孫の話から始まる報告書を書いた人間が、そこにいる。それが伝われば、三つ目の人たちが動くかもしれない」
エリナは、フィオナの言葉を少しだけ考えた。
「数字の奥に人がいることを、忘れないようにしたい」
「え?」
「レインが言っていた言葉です」
「……そういうことを言うのね、あの人は」
フィオナが少し目を細めた。
「あなたにしか言わないと思うけど」
「そうかもしれません」
「じゃあ、明日はそれを持って行きなさい。数字と、その奥にいる人たちのことを」
夜、エリナは部屋の机に向かった。
レインへの短い手紙を書いた。
レインへ
王都に着いた。フィオナと夕食を食べた。明日、最終確認をして、明後日謁見の間に立つ。
あなたが同じ部屋にいることを、フィオナから確認した。
『あなたがいてくれれば、少し落ち着けると思う』と書いた。今も、そう思っている。
明後日、そこにいてほしい。
――エリナ――
書いて、封をした。
明後日、届ける。
今日出しても、郵便では間に合わない。
だから、明後日、直接渡す。
エリナはその封筒を、荷物の中の一番取り出しやすい場所に入れた。
ランプを吹き消した。
王都の夜は、ルシェムより少し明るかった。
街の灯りが、窓の外に滲んでいた。
明後日。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、出発した場所から、ここまで来た。
明後日、父が夢見た場所に立つ。
一人ではない。
それだけは確かだ。
読んでいただきありがとうございます。
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