41話 王都、再び
王都への道は、二度目だった。
一度目は、一年前の春だった。馬車の窓から城壁を見て、圧倒された。
今回は、ゴードンと二人で馬車に乗りながら、エリナは窓の外ではなく、膝の上の書類を見ていた。
最終報告の骨格の最新版。学院の確認書の写し。王都のデータをまとめたアルバ殿下の側近からの資料。ベルダンの記録書。
全部を、頭の中でもう一度確認した。
「緊張していますか?」
「少し」
「一度目と比べて、どうですか?」
「一度目は、もっと怖かった。でも、もっとシンプルだった」
「今は?」
「怖さは減った。でも、複雑になった」
「複雑、というのは?」
「考えることが多い。一度目は、陛下に会うことだけを考えていた。今回は、フィオナとアルバ殿下に会って、最終報告の場の段取りを確認して、宮廷の空気を自分で感じてくることが必要だ」
「それが複雑さの原因ですか」
「一つではない、ということが複雑なのかもしれません」
王都に着いたのは、昼過ぎだった。
城門を通る時、一度目を思い出した。書記官が「アッシュフォード」という名前に反応した。兵士たちがざわめいた。
今回は、書類を見せると、すぐに通してもらえた。
「以前より早いですね」
「顔が売れた、ということかもしれません」
「それは、良いことです」
良いことかどうか、エリナにはまだわからなかった。でも、悪くはないと思った。
フィオナと会ったのは、王都の中心部から少し外れた、小さな茶店だった。
フィオナが先に来ていた。
エリナが入ると、フィオナが立ち上がった。
久しぶりに、直接会った。
手紙では何ヶ月もやり取りしていたが、顔を見るのは、王都に来た時に別れて以来だった。
フィオナは、少し痩せていた。
でも、目の鋭さは変わっていなかった。
「来た」
「来た」
短い挨拶。
でも、その二文字に、何ヶ月分かが入っていた気がした。
席に座って、フィオナが言った。
「まず確認したいことがある。最終報告の場は、いつになるかは陛下が決める。でも、残り四週間の間にあることは確かだ。アルバ殿下がそう言った」
「四週間以内」
「そう。具体的な日は、来週の頭に知らされる予定だと言っていた」
「わかりました。それまでに、骨格の最終確認を終える」
「骨格は仕上がっている?」
「ほぼ。今日、あなたにも確認してもらいたい」
「後で読む。次に、宮廷の空気について」
フィオナが、手帳を取り出した。
細かい字で、何ページも書いてある。
「クロヴェルの上奏から、宮廷の反応は大きく三つに分かれている。一つ目、クロヴェルの上奏を支持する立場。主に魔法省と結びついた大貴族。二つ目、慎重な審議を求める立場。学院との繋がりが強い実務派の官僚と、アルバ殿下の周辺。三つ目、どちらにも属さずに陛下の判断を待っている立場。これが一番多い」
「三つ目の人たちが、どちらに動くかで決まる、ということですか?」
「そうだと思っている。その人たちに対して、最終報告がどう届くかが、鍵になる」
「三つ目の人たちは、どういう人たちですか?」
「自分の利益を守ることを最優先にしている。どちらが勝つかを見極めてから動く人たちだ。感情ではなく、損得で動く」
「ならば、最終報告の場で、損得を見せる必要がある」
「そうなる。『アッシュフォード商会を支持することが、自分の利益になる』という構図を見せられれば、三つ目の人たちが動く」
「具体的には?」
「王都のデータが、一番効く。王都の平民街でも同じ効果が出ている。王都の人間が実際に恩恵を受けている。その事実は、三つ目の人たちにも身近な話として届く」
「アルバ殿下のデータを、最終報告の中でどう使うか、殿下に確認する必要があります」
「今日の午後、殿下との面会がある。一緒に来てほしい」
アルバ殿下との面会は、王宮の中の小さな応接室だった。
一度目の謁見とは違う場所だった。玉座の間ではなく、もっと小さい、普通の部屋だった。
アルバ殿下が入ってきた。
前回会った時と変わらない、柔らかい雰囲気。でも、今日の目は少し真剣だった。
「来てくれた。助かります、エリナ殿」
「お呼びいただきありがとうございます」
「座ってください。時間は限られているので、直接話しましょう」
アルバが席に着いた。
「王都のデータのことを聞きたいと思っています。最終報告の場で使うために、確認させてください」
「もちろんです」
アルバが手元の書類を出した。
「三週間のデータですが、傾向は明確です。平民街の一区画で、石鹸と薬草薬を配布してから、薬屋への来客が二割減った。病欠の申告が三割近く減った」
「この数字を、最終報告で使わせていただけますか?」
「そのために用意しました。ただし、一つお願いがあります」
「聞かせてください」
「データを使う際、殿下が主導したということは、前面に出さないでほしい。あくまで、アッシュフォード商会の商品を試験的に使用した結果として提示してほしい」
「なぜですか?」
「宮廷では、私の動きを面白く思っていない人間がいます」アルバが静かに言った。「私の名前が前に出ると、政治的な判断をされる可能性がある。でも、商会の実績として提示すれば、純粋に数字として評価してもらえる」
エリナは、その判断を一度考えた。
「わかりました。商会の商品の試験結果として提示します。データの出所については、必要があれば確認できる形で記録に残します」
「それで十分です」
アルバが少しだけ表情を和らげた。
「エリナ殿、一年前に玉座の間で話した時のことを、覚えていますか」
「覚えています」
「あの時、私は『大丈夫だと思っています』と言いました。一年経って、大丈夫でしたか?」
「大丈夫でした。大変でしたが、大丈夫でした」
「その区別が、大事だと思います」
アルバが笑った。
「大変だが、大丈夫。それがこの一年の形だったのかもしれない」
「そうかもしれません」
「父上は、最終報告の場を楽しみにしています」アルバが続けた。「あなたが来ることを、楽しみにしている。それだけは伝えておきたかった」
面会を終えて、フィオナと二人で茶店に戻った。
「殿下、思っていたより正直な人だね」
「そう思いました」
「名前を前に出すなと言うのも、自分の利益じゃなくて、データを純粋に評価してもらうためだから」
「そうです」
「あなたの周りには、そういう人が集まるのね。計算ではなく、誠実さで動く人間が」
「そうでしょうか?」
「そうよ。私も、その一人だと思ってるけど。まあ、私は計算もするけど」
「フィオナは、計算と誠実さを両方使える人です」
「そういう言い方をするんだね」
「本当のことだから」
フィオナがしばらくエリナを見た。
「エリナ」
「何?」
「一年前より、少し変わったわね」
「変わりましたか?」
「変わった。何が変わったかを一言で言うのは難しいけど」フィオナが少し考えた。「前は、言葉が全部、情報か分析だった。今は、たまに違うものが混じる」
「違うものとは?」
「感情、かな。言葉の中に、あなた自身が見える時がある」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
「それは、よいことですか?」
「いいことよ、絶対に」
夕方、ゴードンが殿下からのデータを整理する作業を進めていた。
エリナはフィオナと、最終報告の骨格を確認した。
フィオナが、全部読み終えて、少しだけ黙った。
「どうですか?」
「よくできてる。一点だけ、気になるところがある」
「どこですか?」
「第一部の書き出し。課題の提示から始まっているけど、もう少し具体的な場面から入った方がいい」
「具体的な場面、とは?」
「例えば、おばあさんの孫の話。手紙で読んだ。その話から入れば、聞く人間が最初から引き込まれる。数字の前に、人の話がある。そっちの方が、特に三つ目の人たちに届く」
「報告書の書き出しに、個人の話を入れることは、一般的ではないかもしれません」
「一般的でないからこそ、印象に残る。クロヴェルは、数字と論理で攻めてくる。あなたは、数字と論理の前に、人の話を置く。それが、土俵を変えることになる」
レインが言っていた言葉と、重なった。
論理の土俵を変える。
「わかりました。書き出しを修正します」
「明日の朝までに見せてくれれば、最終確認ができる」
夜、フィオナの父親の家に泊めてもらった。
小さな部屋を一つ、借りた。
ゴードンは別室にいた。
エリナは机に向かって、第一部の書き出しを書き直した。
おばあさんの孫の話から始める。
市場でマリオが聞いた話。孫が病気で寝込む日が減った、というおばあさんの言葉。
でも、その話を報告書に入れるためには、おばあさんの言葉を正確に再現する必要がある。
エリナはマリオが話してくれた内容を、できるだけ正確に思い出した。
『石鹸を使うようになってから、孫が病気で寝込む日が減った。そんな小さい子が、うちの孫のために考えてくれてたのか』
その言葉を、書き出しに置いた。
一人の女性の言葉から始まる報告書。
数字が来るのは、その後だ。
書き終えて、少しだけ読み返した。
前とは、違う書き出しになった。
これが正しいかどうかは、まだわからない。でも、フィオナが言った「人の話がある」という方向は、間違っていない気がした。
翌朝、フィオナに修正した第一部を見せた。
フィオナが読んで、一言言った。
「これよ」
「よかったですか?」
「よかった。これで行きなさい」
昼前に、エリナとゴードンはルシェムへ帰る馬車に乗った。
フィオナが見送りに来た。
馬車が動き出す前に、フィオナが窓に近づいた。
「エリナ」
「何?」
「残り四週間よ。絶対に越えましょう」
「越えます」
「一緒に越えましょう。私もそこにいる」
「フィオナがいることを、知っている」
馬車が動き出した。
フィオナの姿が、少しずつ遠くなった。
エリナは窓の外を見ていた。
一年前、この城壁を見て圧倒された。
今は、その城壁の内側に、知っている人間がいる。
城壁が、壁ではなくなっていた。
ルシェムへの帰り道、馬車の中でゴードンが言った。
「フィオナさんは、よくやってくれています」
「そうですね」
「手紙だけでは伝わらない部分を、今日直接会って確認できた」
「書き出しの修正も、フィオナがいなければ思いつかなかった」
「あの修正は、大きいと思います。数字の前に人の話を置く。それは、私が気づかなかった部分でした」
「みんなが、違うところを見ている」
「そうですね。それが、この一年の強さだと思います」
夜、ルシェムに戻ってから、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
王都から戻った。フィオナとアルバ殿下に会った。
第一部の書き出しを修正した。おばあさんの孫の話から始めることにした。フィオナの案だ。数字の前に、人の話を置く。
あなたが言っていた『数字の奥に人がいることを忘れないように』という言葉が、ここに繋がった気がした。
殿下が『父上は最終報告の場を楽しみにしている』と言った。陛下が、楽しみにしてくれている。
残り四週間。
一つだけ聞いていいですか? あなたは今、どういう状態ですか?
――エリナ――
書いて、封をした。
『今どういう状態ですか?』と、最初にレインが自分に聞いてくれた。
今日は、こちらから聞いた。
返事を、待ちたいと思った。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
王都から戻った。
城壁が、壁ではなくなっていた。
残り四週間。
一緒に越える人たちが、いる。
読んでいただきありがとうございます。
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