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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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40/44

40話 嵐の中の、それぞれの場所

 残り五週間になった。

 

 最後の山は、一気に来るのではなく、じわじわと来た。

 毎日、少しずつ、何かが動いた。

 フィオナからの報告が、一日おきに届くようになった。


 宮廷の空気が、二極化している。クロヴェルの上奏を支持する立場と、慎重な審議を求める立場に分かれている。どちらが多いかは、まだはっきりしない。


 アルバ殿下が動いた。殿下は、陛下との面会を申し込んだ。何を話したかは、まだ聞けていない。でも、面会後の陛下の表情が少し変わったと、側近から聞いた。


 ダリウスが、宮廷内の若手の貴族数人と個別に話しているようだ。何を話しているかはわからない。でも、若手の貴族の中に「慎重な審議を」という声が増えている。ダリウスの動きと関係があると思う。


 エリナはフィオナの報告を毎日読んで、ゴードンと共有して、次の手を考えた。

 今、自分たちにできることは何か。

 王都の政治の動きは、エリナが直接動かせるものではない。

 でも、手元でできることがある。

 最終報告の骨格を、毎日少しずつ磨いた。

 学院の確認書が、師匠の署名入りで届いた。魔法師団長の副署は、三日後に追加で届いた。

 両方揃った確認書を、ゴードンが丁寧に保管した。

 

「これで、品質の問題を持ち出されても対応できます」

「他に弱点はありますか?」

「一つ、気になっていることがある」

「何ですか?」

「数字の範囲です。五つの町と学院。王宮の場で、これで十分かどうか」

「レインの構成案では、学院のデータを中心に据えることで、一地方の話ではなくなる、という論理を作っています」

「それは正しい。でも、もう一本、王都に近い場所での実績があれば、さらに強くなります」

「王都に近い場所、とは?」

「ベルナが一番近い。でも、ベルナはすでに使っています」ゴードンが少し考えた。「王都の外側に、何か繋がりがないか。アルバ殿下が動いてくださっているなら、殿下の周辺で何かできないか」

「フィオナに確認してみます」


 フィオナへの手紙に、その件を追加した。

 アルバ殿下の周辺で、石鹸と薬草薬の使用実績が作れないか。王都に近い場所での事例があれば、最終報告がさらに強くなる。

 翌日、フィオナから返事が来た。


 それ、すでに動いている。

 アルバ殿下が、王都の平民街の一部で、商会の石鹸と薬草薬を試験的に配布することを、三週間前から始めていた。殿下が自分で動いていたんだけど、私に言っていなかった。昨日、確認したら教えてくれた。

 配布を始めてから三週間のデータが、殿下の側近がまとめてくれている。平民街の一区画での、病欠の変化、薬屋への来客の変化。まだ期間が短いが、同じ傾向が出ている。

 王都でのデータがある。

 

                                      ――フィオナ――


 エリナはその手紙を読んで、少しだけ目を細めた。

 アルバ殿下が、三週間前から動いていた。

 エリナが知らないところで、殿下が動いていた。

 一人で進めているつもりはなかったが、知らないところで動いてくれている人がいた。

 ゴードンに見せると、「これで、王都のデータが加わります」と言った。

「最終報告の構成に、王都の事例を追加する」エリナが言った。

「第三部に入れましょう。一地方の話ではなく、王都でも同じ効果が出ている、という流れになります」

「レインに連絡します。構成の更新を共有する必要がある」


 その日の夜、レインへの手紙を書いた。

 

 レインへ

 

 王都のデータが加わった。アルバ殿下が三週間前から王都の平民街で試験配布を始めていた。エリナたちが知らないところで動いていた。

 最終報告の第三部に、王都の事例を加える。構成を更新して、明日送る。

 残り五週間になった。

 学院の確認書、両方揃った。ゴードンさんが大事に保管している。

 一つだけ。今週、毎日フィオナから報告が来て、毎日何かが動いている。宮廷が動いている。でも、ルシェムは静かだ。

 その対比が、少し不思議な感じがする。向こうでは嵐が続いているのに、ここでは台所で薬草茶を飲んでいる。猫がいる。ルナが棚を整理している。マリオが市場から戻ってくる。

 静かなことが、今は少しありがたい。

 

                                      ――エリナ――

 

 書いて、封をした。


 翌朝、レインから返事が来た。

 いつもより少し早かった。


 エリナへ

 

 王都のデータの件、受け取った。構成の更新を待っている。

『ルシェムは静かだ』という話。こちらも、少し似た感覚がある。

 宮廷の話はフィオナから届いて、師匠から届いて、毎日何かを考えている。でも、学院は静かだ。朝、霜の石畳を歩いて図書室に行く。その道が、今は少し落ち着く場所になっている。

 静かな場所が、嵐の中では大事だと思う。

 一つ、報告がある。

 師匠が、最終報告の場での発言内容を、今週中に文章にまとめると言った。発言は三分以内にする、という制約があるらしい。三分で、学院での一年間の成果を伝える。師匠は「難しいが、やれる」と言った。

 三分の発言のために、師匠は今週ずっと考えている。その姿を見て、俺も何かを考えた。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 残り五週間。

 

                                      ――レイン――


 エリナは『うまく言葉にできないが、あることは確かだ』という言葉を読んで、少し笑った。

 この言葉を、最初にレインが使ったのはいつだったか。

 もう、何度も往復した言葉だった。

 でも、今日のこの言葉は、師匠の姿を見て生まれたものだ。

 師匠が三分のために一週間考えている。それを見て、レインが何かを感じた。

 その『何か』を、エリナは想像した。

 整理できなかったが、悪くない感じがした。


 その日の午後、マリオが市場から戻ってきた。

 

「なあ、エリナ」

「何?」

「市場で、変な人に声をかけられた」

「変な人?」

「商人風の男。王都から来たって言ってた。俺に、商会のことをいろいろ聞いてきた」

「また調査員ですか?」

「いや、今回は少し違う。質問の仕方が違った。前の調査員は、こちらを探るような聞き方だった。でも今日の男は、なんか、確認するような聞き方だった」

「確認、とは?」

「『石鹸は本当に効くのか』とか、『薬草薬を使ってどうだったか』とか、悪口じゃなくて、本当に知りたそうに聞いてた」

 

 エリナは少し考えた。

 

「その男、アルバ殿下の側近だった可能性がある」

「え、なんで?」

「殿下が王都の平民街でデータを集めていた。その延長で、ルシェムにも確認に来たかもしれない」

「なんか、いろんな人が動いてるんだな。俺が知らないところで」

「そうです。でも、マリオが市場で話してくれたから、わかった」

「俺の仕事だからな。市場で顔を作っておく、って言っただろ」

「覚えています」

「で、そいつに何か伝えておくことはあったか?」

「もし再会したら、一つだけ。石鹸を使い始めてから、市場の人たちの様子がどう変わったか、マリオの言葉で話してあげてください」

「俺の言葉で?」

「あなたが見てきたことを、あなたの言葉で」

 

 マリオが少しだけ、真剣な顔になった。

 

「……わかった。ちゃんと話す」


 夕方、エリナはセレーナと二人で夕食を作った。

 最近、一緒に台所に立つことが少なかった。

 久しぶりに、並んで鍋をかき混ぜた。

 

「来週、王都に行かないといけないかもしれない」

「フィオナちゃんのところに?」

「フィオナと、アルバ殿下と、状況の確認をするために」

「そう」


 セレーナが鍋を混ぜながら言った。


「いつ戻れる?」

「二日で戻るつもりです」

「わかった」

「一人で大丈夫ですか?」

「一人じゃないわよ」


 セレーナが少し笑った。


「ルナちゃんがいる。マリオもいる。ゴードンさんもいる」

「そうですね」

「心配しないで行っていらっしゃい」

 

 エリナは鍋を見た。

 豆のスープだった。

 最初にルシェムで作ったもの。

 

 一番最初の、最初の一手。

 

 あの頃、この台所には自分と母だけだった。

 今は、マリオがいて、ルナがいて、ゴードンがいて、フィオナが王都にいて、レインが学院にいて、ベルダンがベルナにいて、マグダがヴァロウにいて、シェナがトレネにいて、ジルカがキーシュにいて、アルバ殿下が王都で動いていて、ダリウスが宮廷で動いていて、師匠が三分の言葉を考えている。

 

 一人ではない。

 

 その実感が、豆のスープの匂いと一緒に、台所に漂っていた。

 

「お母さん」

「うん?」

「最初にここで豆のペーストを作ったの、覚えていますか?」

「覚えてるわよ。あなたが一人で早起きして、台所で何かやってると思ったら、酵母から作ってたのよね」

「そうです」

「あの頃は、びっくりした」

「今も、びっくりすることがありますか?」

「毎日。あなたのことを、毎日びっくりしながら見てる」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 豆のスープが、煮えてきた。


 夜、エリナは机に向かった。

 明日、王都に行く準備をしながら、レインへの短い手紙を書いた。

 

 レインへ

 

 来週、王都に行く。フィオナとアルバ殿下と状況の確認をするために。二日で戻る予定。

 今夜、母と豆のスープを作った。一番最初にルシェムで作ったものと、同じスープだ。

 あの頃から、ここまで来た。

 師匠が三分のために一週間考えている話を読んで、少し考えた。三分というのは、短いようで長い。長いようで短い。でも、その三分の中に、一年分が入る。

 残り五週間を切った。

 

                                       ――エリナ――

 

 書いて、封をした。

 

 ランプを吹き消した。

 明日、王都に行く。

 残り五週間で、最後の山を越える。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今夜、母と豆のスープを作った。

 最初の一手を、思い出した。

 それで今夜は、十分だ。

読んでいただきありがとうございます。

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