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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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39/43

39話 最後の山

 残り六週間になった。

 

 フィオナが予告していた「最後の山」が来たのは、その週だった。

 朝、速達の手紙が届いた。封蝋が、いつもより深く押されていた。


 エリナへ

 

 来た。

 クロヴェル侯爵が、国王陛下に直接上奏した。内容は「アッシュフォード商会の活動が、魔法師の権威を損ない、王国の秩序を乱している。一年の任を終了させ、以後の活動を制限すべきだ」というもの。

 上奏は公式な手続きだ。陛下は受け取らないわけにはいかない。

 陛下の反応は、今のところ「慎重に検討する」という返答のみ。これは賛成でも反対でもない。でも、時間を稼いでいると思っていい。

 問題は、この上奏が公式になったことで、宮廷内の空気が変わりつつあること。「やはりクロヴェルが動いたか」という空気と、「陛下はどう判断するのか」という緊張が、同時に流れている。

 アルバ殿下は「動く」と言った。何をするかは、まだ教えてもらっていない。

 こちらでできることを、全部やる。

 一つだけ聞く。エリナ、今どういう状態ですか?

 

                                     ――フィオナ――


 エリナは手紙を読み終えて、机の前に座ったまま、少しだけ目を閉じた。

 来た。

 想定はしていた。

 上奏、というのは、クロヴェルにとって最後に近い手だ。これより強い手は、陛下への直接的な脅しになる。それは、さすがにできない。

 だから、これが最後の山だ。

 目を開けた。

 今どういう状態ですか、とフィオナが聞いた。

 エリナは、正直に考えた。

 怖い。

 でも、一人で怖いのとは違う。

 それは、前に同じことを思った。でも、今はさらにもう一つある。

 怖いが、やることは見えている。

 その違いが、大きかった。


 ゴードンを呼んだ。

 マリオも呼んだ。

 ルナは自分から来た。

 四人で、事務室に集まった。

 

「状況を共有します」

 

 エリナはフィオナの手紙を読み上げた。

 マリオが少し顎を引いた。

 

「公式に上奏したのか」

「そうです」

「それって、かなり本気ってこと?」

「本気です。でも、逆に言えば、本気にならなければならない状況になったということでもある」

「どういう意味だ?」

「クロヴェルが最後の手に近いものを使ってきたということは、それまでの手が効かなかったということです。流通を止めても、商品規制を試みても、品質基準で締めようとしても、全部に対処できた。だから、上奏という手段に移行した」

「そう考えると、俺たちが追い詰めてるんだな」


 マリオが少し笑った。

 

「追い詰められているのは、どちらかはまだわかりません。でも、こちらが動けていることは確かです」

「で、今から何をする?」


 ゴードンが静かに聞いた。

 

「四つあります。一つ目、最終報告の骨格を今週中に完成させる。二つ目、学院の確認書を急いでもらう。三つ目、フィオナに宮廷の空気を細かく拾い続けてもらう。四つ目——」

 

 エリナは少し間を置いた。

 

「四つ目は、ダリウスに連絡を取る」


 ゴードンとマリオが動き出した後、エリナはフィオナへの返事を書いた。

 

 フィオナへ

 

『今どういう状態ですか?』という問いに答える。

 怖い。でも、やることは見えている。それが今の状態です。

 四つの動きを始める。最終報告の骨格の完成、学院の確認書の催促、宮廷の空気の観察の継続、そしてダリウスへの連絡。

 ダリウスに連絡することについて。直接何かをお願いするわけではない。ただ、今の状況を知らせる。それだけでいい。彼が何をするかは、彼が決める。

 フィオナ、一つだけ聞いていいですか?

 王都に一人でいて、大変ではないですか?

 

                                      ――エリナ――

 

 書いてから、最後の問いを少しだけ見た。

 これまで、フィオナに「大変ではないか?」と聞いたことはなかった。

 フィオナが「孤独を感じることもある」と手紙に書いたことがある。あの時、エリナはその言葉を受け取ったが、問い返すことはしなかった。

 今日、聞こうと思った。


 ダリウスへの手紙は、短く書いた。

 

 ダリウス・クロヴェル様

 クロヴェル侯爵が、国王陛下に正式に上奏されたと聞きました。

 あなたに何かをお願いするわけではありません。ただ、状況をお知らせしたかった。

 あなたが今、どういう立場におられるか、想像しています。難しい場所にいると思います。

 それでも、以前あなたが動いてくれたことを、私は忘れていません。

 

                              ――エリナ・アッシュフォード――

 

 書いて、封をした。

 返事が来るかどうかは、わからない。

 でも、知らせることだけはした。


 その日の夕方、レインへの手紙も書いた。

 

 レインへ

 

 来た。クロヴェル侯爵が、陛下に正式に上奏した。

 学院の確認書を、急いでほしい。魔法師団長の副署がまだなら、師匠の署名だけでも先に送ってほしい。

 最終報告の骨格を今週中に完成させる。そちらから骨格への追加や修正があれば、今すぐほしい。

 それから。『覚えている』という手紙を受け取ってから、六日が経った。あの手紙のことを、毎日少し考えている。残り六週間になった。

 今は、最後の山を越えることに集中する。でも、越えた後のことを、少しだけ考えている。

 

                                       ――エリナ――


 翌朝、三通の返事が同じ日に届いた。

 フィオナから。レインから。そして、ダリウスから。

 フィオナから先に開けた。


 エリナへ

 

『大変ではないですか?』と聞いてくれた。

 正直に言う、大変です。

 孤独もある。宮廷は、こちらをよく知らない人間ばかりで、毎回ゼロから信頼を作る必要がある。疲れる。

 でも、あなたの手紙が来るたびに、それが少し消える。

 だから、大変だけど、大丈夫です。

 ダリウスが動いた。何をしたかは、まだ言えない。でも、動いた。それだけ言える。

 アルバ殿下も、今夜動くと言っている。

 エリナ、最後の山だ。越えましょう。

 

                                      ――フィオナ――


 レインの手紙を開けた。


 エリナへ

 

 師匠の署名入りの確認書を、今日送った。別便で届く。魔法師団長の副署は、明日中に取れる見込みだ。取れたら、すぐに送る。

 骨格への追加は一点だけ。第四部の提言に、「魔法師の負担軽減」という視点を加えたい。魔法に頼りきることで、魔法師自身も疲弊している。知識を使う仕組みが整えば、魔法師が本当に必要な場面に集中できる。これは、魔法師側にとってもメリットだという論理だ。

 クロヴェル派の『魔法師の職域を守れ』という主張に対して、『魔法師の負担を減らす』という提案で返す。反論の構造を変える。

 残り六週間。俺も、今は動くことに集中している。でも、越えた後のことを、少しだけ考えている。お前と同じだと思う。

 

                                       ――レイン――


 ダリウスの手紙を最後に開けた。

 封蝋は、クロヴェルの家紋だが、今回は少し薄かった。力が入っていないのか、急いでいたのか。


 エリナ・アッシュフォード殿へ

 

 手紙を受け取った。

 父が上奏したことは、知っていた。止められなかった。今回も。

 一つだけ言う。

 私は、王宮内で、上奏に対して「慎重な審議が必要だ」という声が複数の立場から上がるよう、動いた。具体的な内容は言えない。でも、動いた。

 父の上奏が、すんなり通らないようにすることだけを、今回は目標にした。

 それだけのことだ。礼は不要だ。

 ただ、一つだけ聞く。

 あなたは、今、怖いですか?

 

                                ――ダリウス・クロヴェル――


 エリナは、ダリウスの最後の一行を読んで、少しだけ止まった。

 

 『あなたは、今、怖いですか?』

 

 ダリウスが、そう聞いた。

 なぜ聞いたのか、すぐにはわからなかった。

 でも、少し考えて、わかった気がした。

 彼も、怖いのかもしれない。

 父が動いたことで、自分の立場がさらに難しくなっている。でも、動いた。「慎重な審議が必要だ」という声を作った。

 その状態で、エリナに聞いた。

 怖いですか? と。

 エリナはすぐに返事を書いた。

 

 ダリウス様

 

 動いてくださり、ありがとうございます。礼は不要とのことですが、届けます。

『今、怖いですか?』という問いに答えます。

 怖いです。でも、やることは見えています。見えているから、動けます。

 あなたも、怖いのではないかと思いました。それでも動いてくださっている。それを、知っています。

 

                              ――エリナ・アッシュフォード――


 夕方、エリナは最終報告の骨格の作業を再開した。

 レインの『魔法師の負担軽減』という追加案を、第四部に組み込んだ。

 読んでみると、構造が締まった。

 魔法を否定するのではなく、魔法師を守るための提案として読める。

 クロヴェル派が「魔法師の職域を守れ」と言うなら、「魔法師の負担を減らす方法がある」と返す。

 論理の土俵を変える。

 これはレインが考えた手だった。

 ゴードンに見せると、「見事です」と言った。

 

「なぜですか?」

「相手の論理の内側から、反論しているからです。外から反論すれば、正面衝突になる。でも、『魔法師のため』という論理の中に入って、違う結論を出している。これは、クロヴェル派が否定しにくい」

「レインが考えました」

「レインさんは、場の設計だけでなく、論理の設計もできる人ですね」

「そうだと思います」


 夜、エリナは机に向かった。

 やることが、まだある。

 最終報告の骨格の確認。フィオナへの状況共有。学院の確認書が届いた時のゴードンへの指示。ベルダンへの進捗報告。

 でも、今夜はまずレインへの返事を書いた。

 

 レインへ

 

『魔法師の負担軽減』という追加案、受け取った。第四部に組み込んだ。ゴードンさんが『クロヴェル派が否定しにくい論理だ』と言った。あなたの手だ。

 三通の手紙が同じ日に届いた。フィオナから、あなたから、ダリウスから。

 ダリウスが動いてくれた。上奏に対して、慎重な審議を求める声を複数の立場から上げるよう動いたと言っていた。そして、『あなたは今、怖いですか?』と聞いてきた。

 彼も、怖いのだと思った。それでも動いている。

 私は「怖いが、やることは見えている」と答えた。

 あなたには、同じことを言う必要がないと思っている。あなたは、すでに知っているから。

 残り六週間。最後の山を、越える。

 

                                       ――エリナ――

 

 書いて、封をした。

 

 『あなたはすでに知っているから』


 という一行を、書く前に少し迷った。

 でも、本当のことだから書いた。


 ランプを吹き消す前に、エリナは今日届いた三通の手紙を引き出しに入れた。

 

 フィオナが『大変だけど、大丈夫です』と書いた。

 レインが『越えた後のことを、少しだけ考えている』と書いた。

 ダリウスが『あなたは今、怖いですか』と聞いた。

 

 三人が、三つの方向から、同じ嵐の中にいる。

 ランプを吹き消した。

 暗くなった部屋で、エリナは少しだけ目を開けていた。

 最後の山が来た。

 でも、一人で登るのではない。

 それが、今夜一番確かなことだった。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 残り六週間。

 最後の山を、越える。

読んでいただきありがとうございます。

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