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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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38/40

38話 覚えている

 レインからの返事が届いたのは、五日後だった。

 今回は、いつもより短かった。

 一枚だけ。


 エリナへ

 

 覚えている。

 一年後の約束の日の夜に、ゆっくり話がしたい。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。

 俺が言った約束だ。忘れるはずがない。

 それから、一つだけ言う。

『覚えていますか』と聞いてくれた。聞いてくれて、よかった。

 俺も、聞きたかったことがある。でも、どう聞けばいいかわからなかった。

 お前が聞いてくれたから、俺も聞く。

 一年後の約束の日、その夜に話したいことの中に、お前のことが入っている。報告でも情報でもない、お前自身のことが。

 それを話せる場を、一年後に作りたい。

 今はそれだけ言う。

 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。

 

                                       ――レイン――


 エリナは手紙を読み終えた。

 すぐには、何もしなかった。

 手紙を机の上に置いて、少しだけ窓の外を見た。

 冬のルシェムの空は、今日は曇っていた。

 お前自身のことが、入っている。

 それを話せる場を、一年後に作りたい。

 エリナは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。

 整理しようとした。

 できなかった。

 前世でも今世でも、エリナは情報を受け取ると整理する。構造を見つける。言語化する。それが習慣だった。

 でも、今日は整理できなかった。

 整理できないことに、最近は慣れてきていた。

 でも、今日は少し違う種類の「整理できなさ」だった。

 心臓が、少しだけ早く動いていた。

 気づかないふりをしようとして、できなかった。


 マリオが昼前に事務室に顔を出した。

 

「何かあったのか?」

「何も」

「嘘だ。顔が違う」

「どう違いますか?」

「いつもより、少し……なんだろうな。赤いってわけじゃないけど、なんか違う」

「気のせいです」

「気のせいじゃない。ゴードンさんも、今日のエリナは少し様子が違うって言ってた」

「ゴードンさんまで」

「で、何があった?」

 

 エリナは少しだけ考えた。

 言うかどうか。

 マリオは、こういう話を黙っていられる人間ではない。でも、責めているわけではない。

 

「レインから手紙が来た」

「ふうん」

「一年後の約束を覚えているか? と聞いたら、覚えていると返事が来た」

「それだけか?」

「それだけじゃない、かもしれない」

 

 マリオがしばらくエリナを見た。

 何かを言いかけて、止まった。

 それから、ただ頷いた。

 

「そうか」

「うん」

「まあ、それだけわかれば十分だろ」

「何が十分なんですか」

「お前が、ちゃんとそういうことを感じてるってこと。前のお前なら、全部整理して、情報として処理して、終わりにしてたと思う」

「今も整理しようとしました」

「でも、できなかっただろ」

「……できなかった」

「それが、十分だと思う」

 

 マリオがそれ以上は何も言わずに、事務室を出た。


 午後、エリナはゴードンとの作業を進めながら、頭の半分で別のことを考えていた。

 レインが言った。

 

 『お前自身のことが、入っている』

 

 お前自身のこと、とは何か。

 エリナは、自分が「お前自身」として何者なのかを、整理しようとした。

 エリナ・アッシュフォード。八歳。

 前世では篠原あかり。二十八歳で亡くなった。エンジニア。料理が好きだった。

 この世界では、没落した侯爵家の娘。魔法の適性がない。石鹸を作った。薬草薬を広めた。商会を立てた。

 でも、レインが言った『お前自身のこと』は、そういうことではない気がした。

 数字でも、肩書でも、実績でもない、「お前自身」。

 それが何なのか、エリナには、まだうまく言葉にできなかった。

 でも、一年後の夜に、レインに話してみたいと思った。

 言葉にできなくても、話してみたいと思った。

 それは、これまでエリナがあまり感じなかったことだった。


 夕方、ルナが薬草の棚を整理しながら、珍しく先に話しかけてきた。

 

「エリナ」

「何?」

「今日、手紙が来た?」

「来た」

「レインから?」

「そう」

「よかった」

「何がよかったの」

「エリナが、少し違う顔をしてるから」


 ルナが棚から目を離さずに言った。


「悪い顔じゃない。でも、いつもと違う」

「みんなに言われる」

「みんなが気づくから、みんなが言う。それは、よいこと」

「よいこと、ですか」

「エリナが何かを感じてるのが、見えるということだから」

 

 エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。

 

「ルナは、どうしてそういうことがわかるの?」

「わからない」

「でも、言える」

「見てるから。エリナのことを、ずっと見てる」

 

 エリナは、その言葉を受け取った。

 ルナが「ずっと見てる」と言った。

 この子はいつも、少ない言葉で、本当のことを言う。

 

「ありがとう」

「どういたしまして」


 夜、エリナは机に向かった。

 返事を書こうとして、何度か書き直した。

 初めて、返事が難しかった。

 難しい、というのは、書くことがないわけではない。書きたいことが、多すぎた。

 でも、何を書けばいいか、わからなかった。

 

 『覚えている』と言ってくれた。

 『お前自身のことが入っている』と言ってくれた。

 『それを話せる場を作りたい』と言ってくれた。

 

 それに対して、何を返せばいいのか。

 エリナは少しだけ、前世の記憶を辿った。

 二十八年間、エリナ——篠原あかりは、誰かにそういうことを言われた記憶が薄かった。仕事の話なら、いくらでも返せた。でも、「あなた自身のことを話したい」と言われた時に、どう返せばいいか、わからなかった。

 今も、わからない。

 でも、わからなくても、何かを届けたかった。

 紙を取り直した。


 レインへ

 

『覚えている』という言葉を受け取った。

『お前自身のことが入っている』という言葉も、受け取った。

 正直に書く。どう返せばいいか、わからなかった。いつもは、考えれば言葉が出てくる。でも、今日は何度か書いて、全部やり直した。

 それが答えかもしれない、と思った。

 言葉にできないことが、ある。でも、あることは確かだ。

 一年後の夜に、話したいと思っている。言葉にできないことも含めて、話してみたいと思っている。

 それが今まで、私にはあまりなかったことだ。

 一つだけ、今夜届けたいことがある。

 あなたが『覚えている』と言ってくれた。それで、何かが少し変わった気がする。何が変わったかは、まだわからない。でも、変わった。

 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。

 

                                       ――エリナ――


 書いて、封をした。

 いつもより時間がかかった。

 でも、書けた。

 整理できていない部分が、まだたくさんある。

 でも、整理できないことを、「整理できない」と書けた。

 それが、少し前のエリナにはできなかったことだと思う。


 机の上に、一通の封筒が置いてある。

 窓の外は、まだ曇っていた。

 夜の雲は、月を隠していた。

 でも、厚い雲ではなかった。

 エリナは窓の外を少しだけ見てから、布団に入った。

 今夜は、眠れるかどうかわからなかった。

 でも、それでもいいと思った。

 眠れなければ、考える。

 考えることが苦しくない夜なら、眠れなくてもいい。

 今夜は、考えることが苦しくなかった。


 翌朝、エリナは早く起きた。

 台所に行くと、セレーナが先にいた。

 エリナを見て、少しだけ目を細めた。

 

「おはよう」

「おはようございます」

「昨夜、眠れた?」

「あまり」

「そう」


 セレーナが薬草茶を注いでくれた。


「でも、顔色は悪くない」

「そうですか」

「うん。いい顔をしてる」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 マリオが『違う顔』と言った。ルナが『悪い顔じゃない』と言った。ゴードンが『様子が違う』と言った。セレーナが『いい顔』と言った。

 全員が、別々に、同じ方向の何かを感じている。

 

「お母さん」

「うん」

「一年後の報告が終わったら、少しゆっくりしようと思う」

「そう」


 セレーナが少し驚いた顔をした。


「エリナが、そういうことを言うの、珍しいね」

「珍しいですか?」

「うん。いつも次のことを考えてるから」

「次のことを考えていない、というわけではない。でも、少し、ゆっくりしたいと思った」

「いいと思う。ゆっくりしてほしい」

 

 薬草茶が、温かかった。

 ルシェムの朝は、今日も冷たかった。

 でも、台所は温かかった。


 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今日、『覚えている』という言葉を受け取った。

 整理できないことが、ある。

 でも、あることは確かだ。

 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。

 一年後の夜が、近づいている。

読んでいただきありがとうございます。

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