38話 覚えている
レインからの返事が届いたのは、五日後だった。
今回は、いつもより短かった。
一枚だけ。
エリナへ
覚えている。
一年後の約束の日の夜に、ゆっくり話がしたい。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。
俺が言った約束だ。忘れるはずがない。
それから、一つだけ言う。
『覚えていますか』と聞いてくれた。聞いてくれて、よかった。
俺も、聞きたかったことがある。でも、どう聞けばいいかわからなかった。
お前が聞いてくれたから、俺も聞く。
一年後の約束の日、その夜に話したいことの中に、お前のことが入っている。報告でも情報でもない、お前自身のことが。
それを話せる場を、一年後に作りたい。
今はそれだけ言う。
残り、もうすぐ二ヶ月を切る。
――レイン――
エリナは手紙を読み終えた。
すぐには、何もしなかった。
手紙を机の上に置いて、少しだけ窓の外を見た。
冬のルシェムの空は、今日は曇っていた。
お前自身のことが、入っている。
それを話せる場を、一年後に作りたい。
エリナは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
整理しようとした。
できなかった。
前世でも今世でも、エリナは情報を受け取ると整理する。構造を見つける。言語化する。それが習慣だった。
でも、今日は整理できなかった。
整理できないことに、最近は慣れてきていた。
でも、今日は少し違う種類の「整理できなさ」だった。
心臓が、少しだけ早く動いていた。
気づかないふりをしようとして、できなかった。
マリオが昼前に事務室に顔を出した。
「何かあったのか?」
「何も」
「嘘だ。顔が違う」
「どう違いますか?」
「いつもより、少し……なんだろうな。赤いってわけじゃないけど、なんか違う」
「気のせいです」
「気のせいじゃない。ゴードンさんも、今日のエリナは少し様子が違うって言ってた」
「ゴードンさんまで」
「で、何があった?」
エリナは少しだけ考えた。
言うかどうか。
マリオは、こういう話を黙っていられる人間ではない。でも、責めているわけではない。
「レインから手紙が来た」
「ふうん」
「一年後の約束を覚えているか? と聞いたら、覚えていると返事が来た」
「それだけか?」
「それだけじゃない、かもしれない」
マリオがしばらくエリナを見た。
何かを言いかけて、止まった。
それから、ただ頷いた。
「そうか」
「うん」
「まあ、それだけわかれば十分だろ」
「何が十分なんですか」
「お前が、ちゃんとそういうことを感じてるってこと。前のお前なら、全部整理して、情報として処理して、終わりにしてたと思う」
「今も整理しようとしました」
「でも、できなかっただろ」
「……できなかった」
「それが、十分だと思う」
マリオがそれ以上は何も言わずに、事務室を出た。
午後、エリナはゴードンとの作業を進めながら、頭の半分で別のことを考えていた。
レインが言った。
『お前自身のことが、入っている』
お前自身のこと、とは何か。
エリナは、自分が「お前自身」として何者なのかを、整理しようとした。
エリナ・アッシュフォード。八歳。
前世では篠原あかり。二十八歳で亡くなった。エンジニア。料理が好きだった。
この世界では、没落した侯爵家の娘。魔法の適性がない。石鹸を作った。薬草薬を広めた。商会を立てた。
でも、レインが言った『お前自身のこと』は、そういうことではない気がした。
数字でも、肩書でも、実績でもない、「お前自身」。
それが何なのか、エリナには、まだうまく言葉にできなかった。
でも、一年後の夜に、レインに話してみたいと思った。
言葉にできなくても、話してみたいと思った。
それは、これまでエリナがあまり感じなかったことだった。
夕方、ルナが薬草の棚を整理しながら、珍しく先に話しかけてきた。
「エリナ」
「何?」
「今日、手紙が来た?」
「来た」
「レインから?」
「そう」
「よかった」
「何がよかったの」
「エリナが、少し違う顔をしてるから」
ルナが棚から目を離さずに言った。
「悪い顔じゃない。でも、いつもと違う」
「みんなに言われる」
「みんなが気づくから、みんなが言う。それは、よいこと」
「よいこと、ですか」
「エリナが何かを感じてるのが、見えるということだから」
エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。
「ルナは、どうしてそういうことがわかるの?」
「わからない」
「でも、言える」
「見てるから。エリナのことを、ずっと見てる」
エリナは、その言葉を受け取った。
ルナが「ずっと見てる」と言った。
この子はいつも、少ない言葉で、本当のことを言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
夜、エリナは机に向かった。
返事を書こうとして、何度か書き直した。
初めて、返事が難しかった。
難しい、というのは、書くことがないわけではない。書きたいことが、多すぎた。
でも、何を書けばいいか、わからなかった。
『覚えている』と言ってくれた。
『お前自身のことが入っている』と言ってくれた。
『それを話せる場を作りたい』と言ってくれた。
それに対して、何を返せばいいのか。
エリナは少しだけ、前世の記憶を辿った。
二十八年間、エリナ——篠原あかりは、誰かにそういうことを言われた記憶が薄かった。仕事の話なら、いくらでも返せた。でも、「あなた自身のことを話したい」と言われた時に、どう返せばいいか、わからなかった。
今も、わからない。
でも、わからなくても、何かを届けたかった。
紙を取り直した。
レインへ
『覚えている』という言葉を受け取った。
『お前自身のことが入っている』という言葉も、受け取った。
正直に書く。どう返せばいいか、わからなかった。いつもは、考えれば言葉が出てくる。でも、今日は何度か書いて、全部やり直した。
それが答えかもしれない、と思った。
言葉にできないことが、ある。でも、あることは確かだ。
一年後の夜に、話したいと思っている。言葉にできないことも含めて、話してみたいと思っている。
それが今まで、私にはあまりなかったことだ。
一つだけ、今夜届けたいことがある。
あなたが『覚えている』と言ってくれた。それで、何かが少し変わった気がする。何が変わったかは、まだわからない。でも、変わった。
残り、もうすぐ二ヶ月を切る。
――エリナ――
書いて、封をした。
いつもより時間がかかった。
でも、書けた。
整理できていない部分が、まだたくさんある。
でも、整理できないことを、「整理できない」と書けた。
それが、少し前のエリナにはできなかったことだと思う。
机の上に、一通の封筒が置いてある。
窓の外は、まだ曇っていた。
夜の雲は、月を隠していた。
でも、厚い雲ではなかった。
エリナは窓の外を少しだけ見てから、布団に入った。
今夜は、眠れるかどうかわからなかった。
でも、それでもいいと思った。
眠れなければ、考える。
考えることが苦しくない夜なら、眠れなくてもいい。
今夜は、考えることが苦しくなかった。
翌朝、エリナは早く起きた。
台所に行くと、セレーナが先にいた。
エリナを見て、少しだけ目を細めた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨夜、眠れた?」
「あまり」
「そう」
セレーナが薬草茶を注いでくれた。
「でも、顔色は悪くない」
「そうですか」
「うん。いい顔をしてる」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
マリオが『違う顔』と言った。ルナが『悪い顔じゃない』と言った。ゴードンが『様子が違う』と言った。セレーナが『いい顔』と言った。
全員が、別々に、同じ方向の何かを感じている。
「お母さん」
「うん」
「一年後の報告が終わったら、少しゆっくりしようと思う」
「そう」
セレーナが少し驚いた顔をした。
「エリナが、そういうことを言うの、珍しいね」
「珍しいですか?」
「うん。いつも次のことを考えてるから」
「次のことを考えていない、というわけではない。でも、少し、ゆっくりしたいと思った」
「いいと思う。ゆっくりしてほしい」
薬草茶が、温かかった。
ルシェムの朝は、今日も冷たかった。
でも、台所は温かかった。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、『覚えている』という言葉を受け取った。
整理できないことが、ある。
でも、あることは確かだ。
残り、もうすぐ二ヶ月を切る。
一年後の夜が、近づいている。
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