37話 二ヶ月前の嵐
残り二ヶ月になった週に、嵐が来た。
冬の嵐は、ルシェムでは珍しくないとグレンが言っていた。でも、今年の嵐は少し大きかった。
二日間、風が止まらなかった。
街道が荒れて、荷馬車が出せなくなった。ヴァロウへの荷物が二日止まった。トレネへの荷物も止まった。
ただし、今回は去年の春とは違った。
ルナが秋から増やしていた在庫が、各町に届いていた。マグダが「多めに頼んでいた分がある」と使いを送ってきた。シェナは「手持ちの在庫で一週間は大丈夫」と返事をくれた。
嵐が止んだ翌朝、エリナは作業場で在庫の確認をしながら、去年の春の流通停止と今回を比べた。
去年の春は、一日で対応策を考えて、迂回路を探して、グレンとマリオに走ってもらった。
今回は、対応策がすでにあった。
在庫があった。連絡網があった。ベルトが迂回路を知っていた。シェナが現地で対応できた。
嵐は同じでも、商会は変わっていた。
フィオナから手紙が届いた。
エリナへ
そちらは嵐だったと聞いた。こちらも風が強かった。王都は石造りだから、建物への影響は少ないけど、道が荒れた。
一つ、大事な情報がある。
クロヴェルが、新しい手を打ってきた。
魔法省が、「民間の衛生用品に関する品質基準」を新たに設ける動きを始めた。石鹸と薬草薬が、その対象になる見込みだ。
品質基準自体は、一見すると正当な話だ。消費者を守るための基準、という名目になる。でも、その基準を設定するのが魔法省になれば、許可の発行権を魔法省が持つことになる。先月の規制案と、本質的には同じ手だ。
ただし、今回は「消費者を守る」という名目がある分、反論しにくい。「消費者保護に反対するのか」という論理が使われる。
対策を考えている。一つ思いついたことがある。あなたに確認したい。
アッシュフォード商会が、自ら品質基準を作って公開することはできますか。魔法省が基準を作る前に、商会側が先に「これが私たちの基準です」と示してしまう。先手を取る形だ。
ゴードンさんに相談してほしい。
――フィオナ――
エリナはフィオナの手紙を読んで、すぐにゴードンを呼んだ。
「フィオナから新しい情報が来た」
ゴードンに手紙を見せた。
ゴードンが読んで、少し間を置いてから言った。
「フィオナさんの案は、正しいと思います」
「先に基準を作って公開する、ということですか」
「そうです。ただし、作るだけでは不十分です」
「どういう意味ですか?」
「商会が独自に基準を作っても、それが信頼されなければ意味がない。基準の信頼性を担保する何かが必要です」
「例えば?」
「学院です。学院が、私たちの品質基準を確認した、という形にできれば、魔法省は『学院が認めたものをなぜ規制するのか』という矛盾を抱えることになります」
「学院が確認した基準を、商会が公開している。それに対して魔法省が独自の基準を作れば、学院と魔法省が対立する形になる」
「そうです。クロヴェルは学院の一部に影響力を持っていますが、学院全体を動かすことはできない。師匠と魔法師団長が動いてくれているなら、学院としての立場は取れます」
「レインに、今日中に連絡を入れます」
エリナはその場で手紙を書いた。
レインへ
緊急。
魔法省が、民間の衛生用品に品質基準を設ける動きを始めた。石鹸と薬草薬が対象になる見込み。名目は消費者保護。
対策として、アッシュフォード商会が先に独自の品質基準を作って公開することを考えている。ただし、その基準を学院が確認した、という形にできれば、魔法省の動きを牽制できると考えている。
師匠と相談してほしい。学院として、商会の品質基準を確認した旨を文書化することは可能か。
急ぎます。
――エリナ――
速達で送った。
次に、エリナは品質基準の草案を書き始めた。
石鹸の成分と製造工程。薬草薬の配合比率と保存方法。消毒液の濃度と使用方法。それぞれについて、自分たちが実際にやってきた手順を、言語化した。
前世のエンジニアとしての経験が、ここで役立った。
仕様書を書くのは、慣れた作業だった。
使う材料、製造の手順、品質の確認方法、保存条件。それを箇条書きで整理して、ゴードンに確認してもらいながら、一日かけて草案を作った。
ルナに薬草薬の部分を確認してもらった。
「ここ、違う」
「どこが?」
「乾燥の時間。季節によって変わる。冬は長くする」
「具体的にどのくらいですか?」
「夏なら三日、冬なら五日。湿度によっても変わる」
「それを、書き加えますか?」
「書いた方がいい。そっちの方が正確だ」
ルナが書き直してくれた。
シェナにも確認のための手紙を送った。トレネで採取している薬草の種類と、品質の見分け方を教えてほしいと書いた。
翌日の夕方、レインから速達の返事が来た。
エリナへ
師匠に相談した。師匠は「それをやろう」と即答した。
学院として、アッシュフォード商会の品質基準を確認した文書を作ることができる。形式は「学院医療棟の使用実績に基づく品質確認書」とする。師匠が署名する。魔法師団長にも副署をもらえるよう、今交渉中だ。
魔法師団長の副署があれば、それは学院としての公式文書になる。魔法省がその文書を無効にするには、学院と正面からぶつかる必要がある。
品質基準の草案が仕上がり次第、送ってくれ。確認する。
それから、一つだけ。
残り二ヶ月で、こういう形で動けていることを、少し誇らしく思っている。おかしいか?
――レイン――
エリナは最後の一行を読んで、少しだけ止まった。
誇らしく思っている。
おかしいか。
おかしくない。
エリナは返事を書こうとして、まず品質基準の草案の仕上げを優先した。
感情の話は、作業の後でいい。
でも、「おかしくない」と伝えたかった。
草案が仕上がったのは、その夜の遅くだった。
ゴードンとルナとシェナの意見を全部反映した、六ページの文書ができた。
マリオに確認してもらうと、「読みにくい部分がある」と言われた。
「どこですか?」
「ここ。専門的な言葉が多すぎる。普通の人が読んでもわからない」
「でも、専門的な内容だから、専門的な言葉が必要です」
「二種類作れないか?」
エリナが少し考えた。
「詳しい人向けの版と、一般の人向けの版を」
「俺でも読める版を作るってこと?」
「マリオが読めれば、市場の人も読める。一般向けの版は、商会が市場で配る時に使う」
「それは、俺でも貢献できるな」
「貢献してください」
マリオが嬉しそうに、一般向けの版の草案を書き始めた。
字が上手くないが、内容がわかりやすかった。
翌朝、品質基準の草案と、マリオが書いた一般向けの版を、レインに送った。
手紙に、一行付け加えた。
「『誇らしく思っている。おかしいか?』という問いに答える。おかしくない。私も、同じことを感じている」
三日後、レインと師匠からの返事が来た。
草案への細かい確認事項が数点あったが、大きな修正はなかった。
師匠のコメントが、一行だけついていた。
「この文書は、よく書けている。誰が書いたか、わかる気がする」
エリナはそのコメントを読んで、少しだけ止まった。
誰が書いたか、わかる気がする。
師匠は、エリナとは一度も会っていない。でも、手紙やデータを通じて、間接的に知っている。
そしてこの文書を読んで、「わかる気がする」と言った。
それが、少しだけ嬉しかった。
品質基準の最終版が仕上がったのは、手紙のやり取りを数回重ねてから、一週間後だった。
学院の確認書の準備も、並行して進んでいた。
魔法師団長の副署については、まだ交渉中だとレインは書いていたが、師匠は「おそらく大丈夫だ」と言っているとのことだった。
フィオナに進捗を報告すると、すぐに返事が来た。
やった。
これで、魔法省が品質基準を作っても、『学院が確認した基準がすでにある』という状況になる。魔法省は学院の基準を無視できない。無視すれば、学院と対立する。
クロヴェルの手が、また一手止まった。
あと二ヶ月弱。最後の山が来ると思う。でも、今日の分は今日喜んでいい。
――フィオナ――
エリナはフィオナの手紙を読んで、『今日の分は今日喜んでいい』という一行を少しだけ見た。
以前、マリオも同じことを言った。
今日の分は、今日喜べばいい。
エリナは少しだけ、その言葉を受け取ることにした。
喜ぶ、というのが自分に向いていることなのかどうか、まだよくわからない。
でも、今日は少しだけ、良かったと思うことにした。
夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
品質基準と学院確認書の準備が進んでいる。フィオナが喜んでいた。
師匠が「誰が書いたかわかる気がする」と言ってくれた。一度も会っていないのに、文書から伝わるものがあったらしい。それが、少し嬉しかった。
残り二ヶ月を切ろうとしている。最後の山が来ると、フィオナが書いていた。
一つだけ、聞いていいですか?
一年後の約束の話。その日の夜に、ゆっくり話がしたいと言った。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。
覚えていますか?
――エリナ――
書いて、封をした。
『覚えていますか?』という問いを、書こうと決めたのは今夜だった。
残り二ヶ月を切ろうとしている。
一年後の約束が、近づいてきた。
覚えているかどうかを、聞きたかった。
それだけではないかもしれない。
でも、今夜は『それだけではないかもしれない』を言葉にするのをやめた。
まず、聞いてみる。
返事を待つ。
それで十分だ。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
嵐が来た。でも、商会は変わっていた。
クロヴェルの新しい手が来た。でも、先手を取れた。
残り二ヶ月を切った。
今夜は、少しだけ良かった。
それで十分だ。
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