42話 残り三週間と、レインの言葉
ルシェムに戻った翌日、レインから手紙が届いた。
王都へ出発する前に出した手紙への返事だった。
封を開けると、二枚入っていた。
エリナへ
『今どういう状態ですか?』と聞いてくれた。答える。
正直に言う。落ち着いている。
それが、少し意外だった。残り四週間を切って、最後の山が来て、毎日何かが動いていて、それなのに落ち着いている。
なぜかを考えた。
一つ目の理由。やることが見えているから。骨格は仕上がった。確認書は揃った。師匠の発言の準備が進んでいる。次に何をするかが明確な時、人は落ち着く。
二つ目の理由。これは、うまく言葉にするのが難しい。
お前が聞いてくれたから、落ち着いている。
それだけかもしれない。
人の状態を聞いてくれる人間がいることで、自分の状態がわかる。そういうことがある。俺には、そういうことがあまりなかった。孤児院でも、学院でも。
だから、今、落ち着いている理由の一つが、お前が聞いてくれたことだと思う。
うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
残り四週間を切った。落ち着いて、動く。
――レイン――
二枚目を開けた。
別に書く。
『今どういう状態ですか?』と聞いてくれたことで、もう一つ考えたことがある。
一年後の約束の話だ。
一年後の夜に、ゆっくり話がしたい。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。お前自身のことが、入っている。
その夜に向けて、俺が話したいことが、少しずつ形になってきた。まだ全部ではない。でも、一つだけ今言える。
お前のことを、ずっと考えていた。
報告書の話でも、商会の話でも、クロヴェルの話でもなく、お前自身のことを。
手紙が来るたびに、お前が何を感じているかを考えた。『少し重い』と書いてくれた時。『目が少し熱くなった』と書いてくれた時。『今日、笑った』と書いてくれた時。それぞれを、ゆっくり読んだ。
なぜそこまで考えるのかを、整理しようとした。整理できなかった。でも、あることは確かだ。
一年後の夜に、もう少し言葉にできるかもしれない。
今は、ここまでにする。
残り、もうすぐ三週間になる。
――レイン――
エリナは二枚目を、三度読んだ。
『お前のことを、ずっと考えていた。
報告書の話でも、商会の話でも、クロヴェルの話でもなく。
お前自身のことを』
エリナは手紙を机の上に置いて、少しだけ目を閉じた。
整理しようとした。
できなかった。
最近、整理できないことが増えている。でも、今日のこれは、特に整理できなかった。
心臓が、少し早く動いていた。
前にも同じことがあった。『覚えている』という手紙が届いた時。
あの時より、今日の方が少し強かった。
マリオが昼過ぎに事務室に来た。
「なあ、エリナ」
「何?」
「また顔が違う」
「またですか?」
「うん。今日は特に。赤い、とまでは言わないけど、なんか、いつもと違う」
「気のせいです」
「気のせいじゃない。ゴードンさんも、今日は声をかけにくいって言ってた」
「ゴードンさんが、そういうことを言うんですか」
「珍しいだろ。俺もびっくりした」
エリナは少しだけ、諦めて答えた。
「レインから手紙が来た」
「ふうん」
マリオが壁にもたれた。
「で?」
「で、というのは」
「内容は何だった?」
「今どういう状態かを聞いたら、答えてくれた。それと——」
「それと?」
エリナは少し止まった。
「もう一枚、別に書いてあった」
「何が書いてあったんだ」
「…………私のことを、ずっと考えていたと書いてあった」
マリオが少し動かなくなった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「そうか」
「うん」
「それは、顔が違うよな」
「マリオ」
「何?」
「どういう顔をしていますか、今の私は」
マリオが少しだけエリナを見た。
「なんか、困ってる顔」
「困っている?」
「うん。でも、悪い困り方じゃない。なんて言うんだろう……嬉しいけど、どうすればいいかわからない、みたいな顔」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
嬉しいけど、どうすればいいかわからない。
それは、正確だった。
「マリオ」
「うん」
「こういう時、どうすればいいですか?」
マリオが少しだけ驚いた顔をした。
「お前が俺に聞くのか?」
「聞いています」
「そうか……俺に聞くか」
「あなたは、こういうことに慣れていると思うので」
「慣れてるかどうかわからないけど、一つだけ言えることがある」
「何ですか?」
「どうすればいいかわからない時は、何もしなくていいと思う。少なくとも、今は」
「何もしない?」
「急いで答えを出そうとしなくていい。今は、残り三週間で最後の山を越えることが一番大事だろ。それが終わってから、考えればいい」
「一年後の約束がある」
「あるな」
「その夜に、話せると思う」
「なら、それまで待てばいい。お前にとって、待つのは難しいかもしれないけど」
「難しいです」
「でも、できるだろ」
「……できます」
「それで十分だ」
夕方、ルナが棚の整理をしながら、エリナに声をかけた。
「手紙、来た?」
「来た」
「レインから?」
「そう」
「よかった」
「なぜよかったの?」
「エリナが、朝から少し違う顔をしてたから」
ルナが棚から目を離さずに言った。
「悪い顔じゃない。でも、いつもと違う。手紙が来たなら、理由がわかった」
「みんなに顔を読まれています」
「みんなが見てるから」
「そうですね」
ルナが少しだけエリナを見た。
「嬉しいことがあった?」
「そうかもしれません」
「ならいい」
ルナが棚に向き直した。
「嬉しいことがある時の顔は、見ていていい顔だから」
夜、エリナは机に向かった。
返事を書こうとして、何を書けばいいかを少しだけ考えた。
『お前のことを、ずっと考えていた』に対して、何を返すか。
整理しようとして、できなかった。
でも、マリオが言った。
どうすればいいかわからない時は、何もしなくていい。
急いで答えを出そうとしなくていい。
今は、残り三週間で最後の山を越えることが一番大事だ。
エリナは、それを受け取った。
答えを急がない。
でも、何も届けないのも違う気がした。
届けたいことがある。
答えではなく、受け取ったということを、届けたい。
レインへ
二枚、届いた。両方、読んだ。
『落ち着いている。お前が聞いてくれたから』という言葉を受け取った。私が聞いたことで、あなたの状態がわかった。それを知れて、よかった。
二枚目も、読んだ。
『私のことを、ずっと考えていた』という言葉を、受け取った。どう答えればいいか、今日一日考えたが、うまく言葉にできなかった。整理しようとしたが、できなかった。
でも、受け取った。それだけは届けたかった。
一つだけ、今言える。
あなたが考えてくれていたことを、私は知っていてほしかったと思う。それが、今日わかった。
一年後の夜まで、もう少し待つ。待てる。
残り三週間を切った。最後の山を、一緒に越える。
――エリナ――
書いて、封をした。
『受け取った』という言葉を、何度も書いた。
それしか、今日は書けなかった。
でも、受け取ったことを届けることが、今夜の自分にできることだと思った。
ランプを消す前に、エリナは引き出しを開けた。
今まで届いたレインからの手紙が、全部入っている。
最初の手紙。『また来る』と書いた短い手紙。消毒液を五個もらえるかと書いた手紙。『一年前の自分が見たら驚くか』という問いを教えてくれた手紙。『重い時は重いと言っていい』と書いた手紙。『楽しみにしていた』と書いた手紙。『覚えている』という一枚の手紙。『お前のことを、ずっと考えていた』という今日の手紙。
全部、ある。
一枚も捨てていなかった。
そのことに、今日初めて気づいた。
いつから捨てなくなったのか、わからない。
でも、全部ある。
引き出しを閉めた。
ランプを吹き消した。
暗い部屋で、少しだけ目を開けていた。
お前のことを、ずっと考えていた。
その言葉が、暗い部屋の中で、静かに響いていた。
整理できなかった。
でも、あることは確かだ。
一年後の夜が、近づいている。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、手紙を一枚も捨てていなかったことに、気づいた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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