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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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35/40

35話 冬の始まりと、積み上がるもの

 季節が変わっていた。

 

 朝、台所の窓を開けると、空気が冷たかった。ルシェムの冬は、王都よりは穏やかだと聞いていたが、それでも朝晩の冷え込みは身に染みる。

 セレーナが厚手の布を引っ張り出してきて、エリナの作業着に重ね着させた。

 

「寒さで体を壊したら、仕事が止まる」

「わかっています」

「わかっていても、忘れる時があるでしょう」

「……気をつけます」

 

 素直に答えたのは、先月の母の発熱がまだ頭にあったからだ。気をつけていても倒れる時は倒れる。だから気をつける、という積み重ねしかない。

 

 冬は、薬草薬の需要が上がる季節でもある。

 ルナがすでにそれを見越して、秋のうちから在庫を増やしていた。エリナが指示したわけではなく、ルナが自分で動いた。

 気づいた時には、いつもより三割多い在庫が棚に並んでいた。

「いつから準備していたの」と聞くと、「秋になった時から」とだけ言った。


 残り三ヶ月と少しになっていた。

 

 フィオナからの情報によれば、クロヴェルの『最終報告の場を開かせない』という動きは、今のところ陛下を動かすには至っていないようだった。

 陛下は、一年の任を与えた約束を覚えている。クロヴェルが何を言っても、その約束を反故にすることには、今のところ同意していない。ただし、陛下の周辺への工作は続いている。油断はできない。

 そうフィオナは書いていた。

 エリナは、その手紙を読んで、陛下が約束を覚えていてくれることに、少しだけ安堵した。

 安堵しながら、同時に考えた。

 陛下が約束を覚えていても、場が開かれた時に、持っていく数字が弱ければ意味がない。

 場が開かれることと、場で何を見せるかは、別の問題だ。


 その日の午前中、エリナはゴードンと最終報告に向けた数字の全体像を確認した。

 机の上に、今まで積み上げてきたすべての記録が並んだ。

 ルシェムとベルナと周辺三町の供給記録。薬屋の第三者データ。学院の感染率の推移。ベルダンの独自記録。各町の病欠日数の推計。

 

「これだけ揃えれば、十分だと思いますか?」

「数字の量としては、十分だと思います。問題は、見せ方です」

「見せ方?」

「同じ数字でも、どう整理して、どう提示するかで、受け取る側の印象が変わります。今のままでは、数字が多すぎて、核心が見えにくい」

「核心、というのは」

「一番伝えるべきことが何か、ということです。数字を全部並べるのではなく、最も強い一本を立てて、他は補助に回す」

「一番強い数字は、何だと思いますか?」

「学院の感染率です。王都の学院で、消毒液を使うようになってから術後感染が四割以下になった。これは、王都の人間が直接確認できる数字です。ルシェムの石鹸の話より、王宮の場では説得力が違う」

「それを中心に据える」

「そうです。他の数字は、その一本を支える証拠として提示する。薬屋の第三者データは、特定の地域に限らず同じ効果が出るという証拠になる。ベルダンの記録は、民間の商会がその価値を認めているという証拠になる」

 

 エリナは、ゴードンの整理を頭の中で展開した。

 

「一本立てて、他を補助に回す。その構造は、報告書全体の設計になりますね」

「はい。残り三ヶ月で、その設計を固める必要があります」

「今日から始めましょう。まず、骨格を作ります」


 午後、エリナはレインへの手紙を書いた。

 ゴードンとの確認の内容を伝えた。学院の感染率を中心に据える方針について、師匠と合意できるか確認してほしいと書いた。

 最後に一段落。

 

 冬になった。ルシェムの朝が冷たい。ルナが秋のうちから在庫を増やしていた。指示していないのに、自分で動いていた。

 こういう時、組織というものが、自分の意志を持って動き始めている気がする。それは、怖くもあるし、嬉しくもある。

 あなたのところは、冬の学院はどういう感じですか?

 

                                         ――エリナ――

 

 書いてから、最後の問いを少し見た。

 学院の冬がどういう感じか。

 報告でも情報でもない。

 でも、聞きたかった。

 相手のことを、知りたいと思っている。

 封をした。


 夕方、マリオが市場から戻ってきた。

 

「なあ、エリナ」

「何?」

「今日、市場でおばあさんに声をかけられた」

「どんな方ですか?」

「ルシェムで長く暮らしてるおばあさん。名前は知らない。でも、よく市場に来る人だ」

「何を言われましたか」

「『あの石鹸を作ってる子のことを教えてくれ』って。で、俺が商会の人間だって言ったら、いろいろ聞かれた」

「何を?」

「石鹸を使うようになってから、孫が病気で寝込む日が減ったって。それが嬉しくて、どこの誰が作ってるのか知りたかったって。エリナの話をしたら、おばあさん泣いてた」

 

 エリナは少しだけ止まった。

 

「泣いていた?」

「うん。『そんな小さい子が、うちの孫のために考えてくれてたのか』って」

 

 エリナは、何も言わなかった。

 しばらく沈黙があった。

 

「……エリナ?」

「うん?」

「大丈夫か?」

「大丈夫です。ただ、少し……」

「少し?」

「目が、少し熱い」

 

 マリオが少しだけ目を丸くした。

 

「お前が、そういうこと言うの、初めてじゃないか?」

「そうかもしれません」

「我慢しなくていいんじゃないか?」

「我慢はしていない。ただ、驚いている」

「何に?」

「自分が、そういう反応をすることに。石鹸を作り始めた時、おばあさんの孫のことを考えていたわけではない。でも、結果として助けていた。それを、本人から聞いた」

「そういうこともある。狙ってなくても、届くことがある」

「届いていた、ということが、思っていたより重かった」

 

 マリオが何か言いかけて、止まった。

 代わりに、ただそこに立っていた。

 それで十分だった。


 夜、エリナはその話をレインへの手紙に追記しようとして、すでに封をしてしまっていたことに気づいた。

 別の紙を取り出した。

 

 追伸として書く。

 

 今日、マリオから聞いた話がある。市場のおばあさんが、石鹸を使うようになってから孫が病気で寝込む日が減ったと言っていたらしい。マリオが私の話をしたら、泣いていたと。

 それを聞いて、目が少し熱くなった。マリオに「初めてじゃないか」と言われた。そうかもしれない。

 狙っていなかったものが、届いていた。それが思っていたより重かった。

 

                                          ――エリナ――

 

 追伸として、最初の手紙と一緒に封筒に入れた。

 二枚を一緒に送ることにした。


 その夜、エリナは作業場に一人で入った。

 棚に並んだ石鹸の型を見た。薬草の瓶を見た。蒸留器を見た。

 おばあさんの孫が、病気で寝込む日が減った。

 その事実は、数字の記録にも残っているはずだ。でも、数字の中の一件として記録されている時と、本人の言葉として聞く時は、重さが違う。

 

 前世でも、そういう経験があった。

 エンジニアとして作ったシステムが、使う人の生活を少し良くしたと聞いた時。報告書の数字ではなく、実際にそのシステムを使った人の言葉を聞いた時。

 重さが違った。

 あの感覚と、今日の感覚が、似ていた。

 でも、今日の方が重かった気がした。

 前世では、自分が開発した機能の話だった。今日は、自分が一年半をかけて作ってきたものの話だった。

 

 それだけではない。

 ルシェムという、自分が今生きている場所での話だった。

 エリナは棚の前に立ったまま、少しだけ目を閉じた。

 この場所が、自分の場所になっている。

 長屋の台所で一人、石鹸の型に液体を流し込んでいた時から、ここまで来た。

 一年前の自分が今を見たら、驚くか。

 

 驚く。

 

 でも、今日感じたこと——おばあさんの孫の話を聞いて、目が熱くなったこと——それも、一年前の自分には想像できなかったことかもしれない。

 一年前の自分は、もっと整然としていた。

 感情が動くことを、できるだけ整理しようとしていた。

 今は、整理しきれないことが増えている。

 でも、それが悪いとは思わない。

 目を開けた。


 作業場から出ると、ルナが入り口のところで待っていた。

 

「遅い」

「ごめんなさい、考えていた」

「猫が来てる」

 

 ルナの足元に、猫が二匹いた。

 

「なぜ作業場に?」

「冬になったから、あったかいところに来る」

「なるほど」

「エリナも、あったかいところに来た方がいい」ルナが静かに言った。「寒いと、考えがまとまらなくなる」

「そうかもしれません」

「台所にお湯がある」

「ありがとう」

 

 二人で台所に入った。ルナが湯呑みを二つ出して、薬草茶を注いだ。猫も一匹ついてきた。

 温かい薬草茶を両手で持って、エリナは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「ルナ」

「何?」

「在庫を早めに増やしておいてくれてありがとう。気づかなかった」

「当たり前のことをしただけ」

「当たり前にできることが、大事なことだから」

 

 ルナがエリナを見た。

 

「エリナが教えてくれたから」

「私が?」

「最初から、当たり前のことを大事にしてた。それを見ていた」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 自分がやってきたことを、ルナが見ていた。

 見ていてくれる人がいる。


 翌朝、レインからの返事が届いた。

 昨日出した手紙への返事ではなく、一日前に出していた手紙への返事だった。


 エリナへ

 

 学院の冬は、静かだ。石畳が霜で白くなる朝がある。図書室が一番温かい場所なので、朝早く行く生徒が多い。俺も、たいてい図書室にいる。

 感染率を中心に据える方針、師匠に確認した。「それが正しい」と言った。師匠も同じことを考えていたようだ。

 骨格の設計については、こちらからも案を作る。一月以内に送る。

 それから、組織が自分の意志を持って動き始めている、という話。俺も、学院で少し似た感覚がある。石鹸と消毒液の話を、今では生徒の間で自発的に話題にするようになった。俺が広めたわけではなく、使った人が使っていない人に話す、という流れができている。

 広がり方が変わった。仕掛けから、自然な流れへ。

 それは、怖くもあるし、嬉しくもある。お前と同じだ。

 一年後、見届けたい。

 

                                          ――レイン――


 エリナは手紙を読んで、『お前と同じだ』という一行を少しだけ見た。

 図書室が一番温かい場所で、朝早く行く。

 霜で白くなる石畳。

 報告でも情報でもない話が、手紙に入っていた。

 エリナが『学院の冬はどういう感じか?』と聞いたから、答えてくれた。

 相手のことを知りたいと思ったら、聞けば教えてくれる。

 当たり前のことだが、今まであまりやってこなかった。

 返事を書いた。

 

 レインへ

 

 図書室が一番温かい場所、というのを想像した。霜の石畳の朝に、図書室へ向かう人たちのことを。

 今日、追伸を一枚同封して昨日の手紙に入れた。おばあさんの話だ。読んでくれると嬉しい。

 ルシェムの冬は、台所が一番温かい場所になっている。ルナが薬草茶を作ってくれる。猫も来る。

 残り三ヶ月と少し。骨格の案を待っている。

 

                                        ――エリナ――

 

 書いて、封をした。

 窓の外、ルシェムの朝の空が、今日も冷たく澄んでいた。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 冬になった。

 今日、目が少し熱くなった。

 そのことを、届けた。

 それで今朝は、十分だ。

読んでいただきありがとうございます。

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