33話 届いた答えと、届かない言葉
レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから六日後だった。
六日は、いつもより長かった。
エリナは特に気にしていないつもりだったが、四日目にルナから「また窓の外を見てる」と言われて、気にしていたのかもしれないと思った。
封を開けると、いつもより厚かった。
エリナへ
返事が遅くなった。師匠と話し合いに時間がかかった。
まず、学院のデータを最終報告の中心に据える件について。師匠と確認した。
学院の医療棟での記録は、過去一年分がある。術後感染率、処置前後の状態比較、消毒液を使用した症例と使用しなかった症例の比較。これを系統立てて整理すれば、「王都での成果」として提示できる形になる。
師匠が言うには、「この数字は、魔法師団長が見ても否定しにくい規模になっている」とのことだ。王宮への報告の場で、師匠自身が発言できる立場にあるかどうかも、今確認中だ。
成分分析の件。学院の採用議事録の写しを、念のため師匠が手元に持っておくことにした。公文書は書き換えられないが、「紛失した」と言われる可能性はゼロではない。複数の場所に記録を残しておく方が安全だ。
それから、「重い時に当てはまるか」という問いについて。
残り四ヶ月という数字が頭の中で重くなっている、という話。それは、俺が言った『重い時』とは少し違うと思う。
俺が言った重い時は、自分の力が足りないという感覚だ。お前が感じているのは、時間の重さだ。それは違うものだ。でも、重さを感じているという点では、同じかもしれない。
一つだけ言う。時間の重さは、動くことで少し軽くなる。お前はすでに動いている。だから、今感じている重さは、動けていない重さではない。動いているから感じる重さだ。それは、少し違う。
最後に。
『今日、笑った』という一行を、次の手紙に書こうと思っている、とお前が書いてくれた。
それを、楽しみにしている。
――レイン――
エリナは手紙を読み終えて、少しだけ止まった。
動いているから感じる重さだ。それは、少し違う。
その一行が、頭の中でゆっくりと動いた。
動けていない重さではない。
言われるまで、そう考えたことがなかった。重さは重さだと思っていた。でも、重さの種類が違う、とレインは言った。
前世でもそういう経験があった気がした。締め切り前の重さと、何もしていない時の重さは、確かに違った。前者は、進んでいるから感じる重さだ。
それを、レインに言われた。
『笑ったことを楽しみにしている』という最後の一行を、もう一度読んだ。
楽しみにしている。
その言葉が、少しだけ、胸の奥で静かに鳴った。
返事をすぐに書こうとして、少し止まった。
『今日、笑った』を書こうと決めていた。でも、今日書くより、何か笑ったことがあった日に書く方がいい気がした。
約束した一行を、本当のこととして書きたかった。
だから、返事は今日ではなく、何か笑ったことのある日に書くことにした。
そう決めて、手紙をたたんだ。
師匠の発言の件と、議事録の写しの件は、すぐにゴードンに共有した。
「師匠が最終報告の場で発言できるかもしれない、ということですね」
「確認中ですが、その方向で準備を進めてほしい。師匠が発言する場合、どういう形が効果的か、レインと相談します」
「学院側の人間が王宮の場で発言するとなると、形式的な準備が必要になる可能性があります。アルバ殿下に確認しておく方がいいかもしれません」
「フィオナに頼みます」
「議事録の複数保存については、こちらでも動きましょう。王宮への定期報告書の中に、採用の経緯を詳細に記録しておく。それと——、ベルダン会頭に、ロッソ商会独自の記録を残してもらうこともできますか。民間の商会が独自に持っている記録は、また別の重みを持ちます」
「それは思いつきませんでした。次にベルダンと会う時に、お願いします。いや、手紙で先に打診する方が早い」
「そうですね」
ゴードンがすぐに動いた。
エリナも、フィオナへの手紙とベルダンへの手紙を並行して書いた。
昼過ぎ、マリオが外から戻ってきた。
「なあ、エリナ」
「何?」
「グレンさんから聞いたんだけど、最近、市場の人たちの間で話題になってることがある」
「どんな話ですか?」
「石鹸と薬草薬の話じゃなくて、お前の話」
「私の話?」
「そう。アッシュフォード商会の子どもが、王様に会いに行ったとか、えらい貴族と渡り合ってるとか、そういう話が市場で流れてる」
「それは、困ります」
「なんで。みんな、応援してるっぽいぞ」
「応援されることは悪くない。でも、個人の話が広まると、焦点が商品から外れる。重要なのは石鹸と薬草薬の効果であって、私ではない」
「そういうもんかね。でも、止めるのも難しいよ。口コミはどこに広がるかわからない」
「止める必要はないかもしれません。ただ、商品の話が中心にあることを、常に意識してもらう必要がある」
「マグダさんとかに言っておくか?」
「お願いできますか。石鹸の話をする時に、私の話ではなく、効果の話を中心にするよう、さりげなく」
「わかった。さりげなく、ね。俺、さりげなくが苦手なんだよな」
「知っています」
「あ、ひどい」
「でも、マリオは正直だから大丈夫です」
「どういう意味だよ」
「正直な人間の話は、信頼される。技巧がなくても、正直さで補える」
マリオがしばらくエリナを見て、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「そういうこと言うのも、最近増えたな」
「そうですか」
「うん。前は、もっと淡々としてた」
「変わりましたか」
「変わった。悪くない変わり方だと思う」
夕方、ルナが薬草の仕分けをしながら、珍しく先に口を開いた。
「エリナ」
「何?」
「今日、笑った?」
エリナは少し止まった。
「なぜ聞くの?」
「この前、今日笑ったって書きたいって言ってたから」
エリナはルナを見た。
ルナが聞いていたのか、あの話を。
事務室で独り言のように言ったのか、それともルナが近くにいた時に言ったのか、覚えていなかった。
「聞こえてたの?」
「聞こえた。書けたか確認しようと思って」
「まだ書いていません。笑ったことがある日に書くと決めたので」
「じゃあ、今日、笑った?」
エリナは少し考えた。
今日、笑ったか。
マリオが「さりげなくが苦手」と言った時、少しだけ笑った気がした。声には出なかったが、笑った。
「少し笑いました」
「じゃあ、今日書けるね」
「そうですね」
「よかった」
ルナが薬草の仕分けに戻った。猫が一匹、棚の上から降りてきてルナの膝に乗った。
エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。
この子は、いつも少ない言葉で、必要なことを言う。
今日も、そうだった。
夜、エリナはレインへの返事を書いた。
レインへ
『動いているから感じる重さだ』という言葉を、受け取った。言われるまで、重さの種類が違うとは考えていなかった。でも、言われてみれば、確かに違う。ありがとう。
学院のデータと師匠の件、ゴードンさんと動き始めた。議事録の複数保存も、フィオナとベルダンに打診した。準備が、少しずつ形になっている。
それから。
今日、笑った。
マリオが「さりげなくが苦手」と言った時だ。声には出なかったが、笑った。ルナに確認されて、気づいた。
笑ったことを、あなたに知っていてほしかった。
一年後の約束、残り四ヶ月を切った。
――エリナ――
書いて、封をした。
『笑ったことを、あなたに知っていてほしかった』という一行を、書く前に少し迷った。
迷ったが、書いた。
レインが『楽しみにしている』と書いてくれた。
楽しみにしてくれているなら、届けるべきだと思った。
それだけのことだ。
机の上に、今日書いた手紙が三通並んでいた。
フィオナへ。
ベルダンへ。
レインへ。
三方向に、それぞれ違うことを書いた。でも、どれも本当のことを書いた。
フィオナには、議事録の件と師匠の発言の件。それと、「一緒に迎えたい人の一人だ」という言葉の続きとして、「あなたがいてくれることが、どれだけ大きいかわからなくなってきた」と書いた。
ベルダンには、ロッソ商会独自の記録を残してほしいという打診と、一年後の報告に向けた現状の簡単な共有。
レインには、今日笑ったということ。
三通を並べて、エリナは少しだけ考えた。
届けたいことがある。
それぞれに、違う形で。
でも、届けたいと思っている。
一年前には、届けたいという気持ちが、こんなにはっきりしていなかった。
変わった。
マリオが言っていた通り、変わった。
悪くない変わり方だと、自分でも思う。
ランプを吹き消した。
部屋が暗くなった。
窓の外、ルシェムの夜は静かだった。
風が少しだけ、冷たくなっていた。
季節が変わっている。
残り四ヶ月が、一日ずつ減っている。
でも、積み上がるものも、一日ずつ増えている。
それで、今夜は十分だ。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、笑った。
その事実を、届けた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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