32話 四ヶ月前の朝
残り四ヶ月になった日の朝、エリナは誰より早く起きた。
別に意識したわけではない。目が覚めたら、まだ空が暗かった。もう少し眠れると思ったが、眠れなかった。
台所に行って、湯を沸かした。
薬草茶を作りながら、窓の外を見た。
ルシェムの夜明け前の空は、濃い紺色だった。少しずつ、東の端が白くなっていく。
四ヶ月。
一年の任のうち、残りは三分の一を切った。
エリナは湯呑みを両手で持って、少しだけ考えた。
今、手元にあるものを確認する。
ルシェム、ベルナ、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。五つの町に供給が続いている。薬屋の第三者データが揃っている。学院での正式採用が継続している。王宮に定期的に数字が届いている。ベルダンが続けると言ってくれた。フィオナが王都にいる。レインが学院で動いている。
積み上がったものは、確かにある。
足りないものも、まだある。
一年後に王宮に立つ時、何を持っていれば『父の改革案を再び議論する場』が開かれるのか。その基準が、まだ見えていない。
レインが教えてくれた問いを、もう一度使った。
『一年前の自分が今を見たら、驚くか?』
驚く。
でも、一年後の自分が今を見たら、どう思うか?
その問いは、まだ答えが出ない。
朝食の後、エリナはゴードンを呼んだ。
「残り四ヶ月で、王宮への最終報告に向けて何が必要か、整理したい」
「そうですね。そろそろ、逆算して考える時期です」
「ゴードンさんが思う、今の一番の弱点は何ですか」
ゴードンは少し考えてから、答えた。
「数字の範囲です」
「範囲?」
「今の私たちのデータは、五つの町に限られています。ルシェムとその周辺。王宮への報告として、これが十分かどうか」
「足りないと思いますか」
「陛下は『いくつかの地方において』という言葉を使われました。五つの町で、十分といえるかどうか……クロヴェルが『一地方の話だ』と言った時に、今のデータでは反論が難しい」
「もっと広い範囲に広げる必要がある、ということですか?」
「四ヶ月で広げられる範囲には限界があります。でも、今ある五つの町のデータをより深くするか、あるいは別のアプローチを考えるか」
「別のアプローチとは?」
「例えば、学院のデータをもっと使う。学院は王都にある。王都での成果は、一地方の話では済まない」
「学院のデータを前面に出す、ということですか」
「学院の医療棟での感染率の低下は、王都の人間が直接確認できるデータです。ルシェムで起きていることより、王都の話の方が、会議の場では説得力が違う」
「レインに相談する必要があります」
「そうなりますね」
「今日中に手紙を書きます」
午前中、エリナはレインへの手紙を書いた。
ゴードンの指摘を正確に伝えた。学院のデータを最終報告の中心に据える可能性について、師匠と相談してほしいと書いた。
最後に、一段落付け加えた。
残り四ヶ月になった。今朝、早く目が覚めた。眠れなかったのは初めてではないが、今日は少し違う感じがした。残り四ヶ月という数字が、頭の中で静かに重くなっている。
これは、「重い時」に当てはまりますか。あなたが言っていた意味の。
――エリナ――
書いてから、最後の問いを少し見た。
重い時に当てはまるか。
レインに聞いてみたかった。
前世でいえば、プロジェクトの最終フェーズに入った時の感覚に近い。緊張でも焦りでもない。ただ、時間の重さを感じる。
それが『重い時』なのかどうか、自分では判断できなかった。
封をした。
昼過ぎ、マリオが市場から戻ってきた。
「調査員、また来てた」
「何日ぶりですか」
「三日ぶりだ。今日は一人だった。前は二人組だったのに」
「変化があった。フィオナに確認します」
「あと、市場の端の布屋の親父から、変な話を聞いた」
「変な話?」
「最近、王都から来た商人が、石鹸の成分を分析したいと言って、市場でサンプルを買い集めているらしい。布屋の親父は直接関係ないけど、近くで聞いてたって」
エリナは少しだけ、眉を動かした。
「成分の分析、ですか」
「そう。別に、石鹸の成分なんか調べたって、大したことはないと思うけど」
「そうとも言えない。成分がわかれば、同じものを魔法省が作って、アッシュフォード商会を通さなくても配れるという論理を作れる」
「それって、まずいのか」
「石鹸が広まること自体は、構わない。でも、クロヴェルが作った石鹸が配られるようになれば、私たちのやっていることの意味が薄くなる。王宮への報告も、『商会の功績ではなく、魔法省が主導した成果だ』と言われるかもしれない」
「なるほど。じゃあ、どうする?」
「今すぐできることは、記録を残すことです。私たちが石鹸の普及を始めた経緯、時期、方法。それが先にあったという事実を、王宮の記録に残しておく」
「ゴードンさんに?」
「今日中に話します」
ゴードンに状況を伝えると、すぐに動いた。
「王宮への定期報告に、普及の経緯を追記します。石鹸の開発がいつから、どのような手順で始まったか。最初の販売がいつだったか。各町への展開の時系列」
「お願いします。それと、学院の師匠にも伝えてもらえますか。学院での採用の経緯も、正確に記録しておいてほしい」
「レインさんへの手紙に加えますか」
「そうします」
手紙にもう一段落追加した。
追加で一つ。王都で、石鹸の成分分析を行っている動きがあるという情報が入った。対策として、普及の経緯の記録を残すことが必要だと考えている。学院での採用の経緯についても、時系列を正確に記録しておいてほしい。いつ、誰が、どういう判断で採用したか。
封をして、速達で送った。
夕方になって、フィオナから手紙が届いた。
今日の朝に出した手紙への返事ではなく、昨日書いたと思しき手紙だった。
エリナへ
成分分析の件、私も把握している。動いているのはクロヴェル家の息がかかった商人だ。直接クロヴェルの指示かどうかは確認中。
一つ、使える情報がある。
学院での石鹸と消毒液の採用は、学院の公式議事録に記録されている。議事録には日付と採用の理由が明記されている。これは公文書だ。後から書き換えることは難しい。
つまり、「魔法省が主導した」という論理を作ろうとしても、学院の採用がアッシュフォード商会の商品を元にしていることは、議事録が証明する。
対策としては、王宮への定期報告にも同様の記録を入れておくことだ。あなたたちが先にやっていたという事実は、記録があれば消えない。
ゴードンさんがすでに動いていると思うが、確認しておいて。
それと、調査員が一人に減ったのは、こちらの情報では予算の問題らしい。意外と地味な理由ね。
残り四ヶ月ね。あなたがどんな顔で王宮に立つか、見たい気もするけど、私は王都にいるから見られないかもしれない。残念。
――フィオナ――
エリナはフィオナの手紙を読んで、少しだけ口の端を動かした。
予算の問題。
意外と地味な理由、というフィオナの一言が、妙に可笑しかった。
『残念』と書いたフィオナの顔を、想像した。
王都に一人でいて、情報を集めて、こういう手紙を書いている。
フィオナが王都にいてくれることが、どれだけ大きいか、改めて感じた。
返事を書いた。
フィオナへ
議事録の話、ありがとう。ゴードンさんとレインに伝えた。公文書が証拠になる、という視点は私には出てこなかった。あなたがいてくれてよかった。
調査員が予算で減った話、少しだけ笑った。クロヴェルでも、地味な理由があるのだと思うと、少し気が楽になった。
一年後、王宮に立つ時の顔は、自分でもわからない。でも、その日を一緒に迎えたい人が、何人かいる。あなたもその一人だ。
――エリナ――
書いてから、「一緒に迎えたい人が何人かいる」という一行を少しだけ見た。
フィオナに、そういうことを書いたのは初めてかもしれない。
でも、本当のことだから書いた。
夜、エリナは机に向かって、今日一日を整理した。
残り四ヶ月の課題。学院データの活用。普及経緯の記録。成分分析への対策。調査員の動向。
やることは、まだたくさんある。
でも、一つ一つは、対処できる。
対処できないかもしれないと思った時も、フィオナがいた。ゴードンがいた。レインがいた。
一人でやっているのではない。
その実感が、最近は以前より強い。
エリナはペンを持って、作業リストの横に小さく書いた。
今日、笑った
フィオナの『意外と地味な理由』という一行で、笑った。
それを記録しておきたかった。
なぜ記録したいのか、うまく言葉にできない。
でも、こういう日があったということを、残しておきたかった。
相手に知っていてほしいから書く、とレインは言った。
今日の『笑った』を、レインに知っていてほしいと思った。
次の手紙に、書こうと思った。
窓の外の空が、完全に暗くなっていた。
今朝、空が白くなっていくのを見ながら、四ヶ月という数字を受け取った。
今夜、その四ヶ月の最初の一日が終わろうとしている。
一日で、何が動いたか。
学院データの活用方針を決めた。普及経緯の記録を開始した。成分分析への対策を立てた。フィオナの情報で、議事録という武器を知った。
一年前の自分が今日を見たら、やはり驚くと思う。
一日でこれだけ動けるようになったことを。
一人でではなく、何人かで動いていることを。
そして——笑えるようになったことを。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
残り四ヶ月の最初の一日が、終わった。
今日は、笑った。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので
どんどん評価や感想をください!
ブクマもお願いします!
お待ちしております(*^-^*)




