31話 「レインの重い時」
レインから返事が届いたのは、ベルナから戻って四日後だった。
いつもの封筒より、少しだけ重かった。
開けると、三枚の紙が入っていた。
一枚目は、学院の状況報告だった。
薬屋の第三者データが魔法師団長に提出されたこと。団長が「継続的な観察が必要だ」と言ったこと。クロヴェル派の「魔法による補助があってこそ」という主張が、データの前で少しずつ根拠を失いつつあること。
二枚目は、ベルダンの件への返答だった。
数字が動いたこと、ベルダンが続けると決めたことへの短い評価。「情報を届けて、判断を委ねる。それがお前らしい」という一行があった。
三枚目を開いた。
エリナへ
『あなたにとって重い時はどういう時か』と聞いてくれた。答えるのに、少し時間がかかった。考えていた。
正直に書く。
俺が重いと感じるのは、自分の力が足りないと気づく時だ。
魔法の力は、俺にはある。適性はⅤ階で、使えない魔法はほとんどない。でも、それとは別のところで、足りないと感じることがある。
例えば、今回のクロヴェルの動きに対して、俺は学院の中でしか動けない。王都の政治に直接介入する立場ではない。師匠に頼むことはできるが、俺自身が動ける範囲は限られている。
その限界を感じる時が、重い。
もう一つ。
孤児院で育った。知っていると思う。両親がいない。家族と呼べる人間が、長い間いなかった。今も、厳密にはいない。師匠は近いが、家族ではない。
魔法の才能があったから、学院に来られた。学院では評価される。でも、評価されることと、誰かに知っていてほしいと思うことは、違う。
お前が『ルナが猫を貸してくれた』と書いた話を読んで、少し考えた。相手に知っていてほしいから書く、と俺は言った。それは本当だ。
俺も、お前に知っていてほしいことがある。
でも、何を知っていてほしいのかを、まだうまく言葉にできない。あることは確かだ。
一年後の約束を、覚えている。あと五ヶ月を切った。
重い時の話を、聞いてくれてありがとう。聞かれたから、考えることができた。
――レイン――
エリナは三枚目を、二度読んだ。
三度読んだ。
それから、机の上に置いた。
自分の力が足りないと気づく時が、重い。
評価されることと、誰かに知っていてほしいと思うことは、違う。
その二つの言葉が、頭の中で止まった。
レインは、魔法のⅤ階だ。学院の首席だった。王宮魔法師になろうとしている。誰が見ても、才能も実力も、持っている人間だ。
でも、重い時がある。
足りないと感じる時がある。
孤児院で育った。家族と呼べる人間が、長い間いなかった。
その事実を、エリナは知っていた。設定として知っていた。でも、本人の言葉で読むのは初めてだった。
評価されることと、誰かに知っていてほしいと思うことは、違う。
それは、自分も知っている感覚だった。
前世でも今世でも、エリナは評価されることには慣れていた。でも、誰かに「知っていてほしい」と思うことは、少なかった。少ないと思っていた。
でも、最近は違う。
レインに知っていてほしいと思うことが、増えている。
返事を書こうとして、少し止まった。
今回は、慎重に書く必要があると思った。
レインが正直に書いてくれた。重い時のことを、家族がいなかったことを、知っていてほしいことがあることを。
それに対して、どう返すか。
分析するのではなく。情報として処理するのでもなく。
エリナは少しだけ考えて、紙を取った。
レインへ
正直に書いてくれてありがとう。
「自分の力が足りないと気づく時が重い」という言葉、受け取った。あなたが魔法の力を持っていることは知っていた。でも、それとは別のところで足りないと感じることがある、という話は、今まで聞いたことがなかった。聞かせてくれてよかった。
孤児院で育ったこと、師匠が近いが家族ではないこと。それも、受け取った。
私が言えることは多くないかもしれない。でも、一つだけ言う。
あなたが「今日、図書室に行った」と書いた。「ルナが猫を貸してくれた」と私が書いた。それが、相手に知っていてほしいから書くことだと、あなたは言ってくれた。
なら、私も知っていてほしいことを書く。
あなたが重い時に、重いと言える場所があればいいと思っている。私がその場所になれるかどうかは、まだわからない。でも、なりたいと思っている。
うまく言葉にできない部分が、まだある。でも、あることは確かだ。
一年後の約束、残り五ヶ月を切った。
――エリナ――
書いて、少しだけ手紙を見た。
「なりたいと思っている」と書いた。
こういう言葉を書いたのは、初めてだった。
前世でも今世でも、エリナは「なりたい」という言葉を、目標や仕事に対して使う人間だった。人に対して使うことは、ほとんどなかった。
でも、書いた。
消さなかった。
封をした。
翌朝、フィオナから手紙が届いた。
定期報告の手紙だったが、最後に短い付け加えがあった。
追伸。
レインと昨日、王都で少し話した。学院の件で来ていたらしい。
別に何か特別なことを話したわけじゃないけど、一つだけ気になったことがある。
彼、あなたの名前を出す時の間が、普通と少し違う。
私が気のせいかもしれないけど、私は気のせいというものを信じない人間なので。
――フィオナ――
エリナはその追伸を読んで、少しだけ止まった。
名前を出す時の間が、普通と少し違う。
フィオナが「気のせいを信じない」と書いた。
この人は、感情を読む目を持っている。ダリウスのことも、最初の接触だけで「揺らいでいる」と読んだ。
だから、この観察は、信頼できる。
エリナは少し考えて、フィオナへの返事を書いた。
報告への返答を書いて、最後に。
追伸について。
読んだ。今は、それだけ言う。
『今は』という二文字を、少しだけ見た。
今は、それだけ言う。
今ではない時が来るかもしれない、という余地を残した書き方だ。
自分でそれを意図したかどうか、エリナにはわからなかった。
でも、そう書いた。
その日の午後、ルナが薬草の束を持ってシェナから届いた小包を開けながら、ぼそりと言った。
「エリナ」
「何?」
「最近、手紙が多い」
「そうですか」
「多い。でも、顔が悪くない」
「顔が悪くない、とは」
「手紙を書いてる時の顔が」
ルナが少しだけエリナを見た。
「前より、悪くない」
エリナは少し止まった。
「どういう意味ですか?」
「前は、手紙を書いてる時、仕事みたいな顔をしてた」
「今は?」
「今は、少し違う」
「どう違う?」
ルナがしばらく考えた。
「言葉にできない」
「それは困ります」
「でも、悪くない顔だと思う」
ルナが薬草の仕分けに戻った。
エリナは少しだけ、自分の顔に手を当てた。
顔は自分では見えない。
でも、ルナが「悪くない」と言った。
ルナは嘘をつかない。余計なことも言わない。言った言葉は、本当のことだ。
夕方、マリオが市場から戻ってきた。
「調査員の二人組、今日は来なかった」
「そうですか」
「続けて来なかったのは、今日で三日目だ」
「フィオナに確認してみます。王都側で何かあったのかもしれない」
「まあ、来ないに越したことはないけどな」
マリオが椅子に座った。
「なあ、エリナ」
「何?」
「最近、なんか違うな」
「何が?」
「雰囲気。少し、柔らかくなった気がする」
「そうですか」
「ルナも何か言ってたか?」
「顔が悪くないと言っていました」
「そうそう、そういう感じ」
マリオが笑った。
「なんかあったか、最近」
「特に何も」
「そうか」
マリオがしばらく天井を見た。
「まあ、悪くないならいいか」
「うん」
エリナは短く答えた。
「うん」という返事が、自然に出た。
いつもなら「そうですか」か「わかりました」だった。
「うん」と返したのは、いつ以来だろう。
夜、エリナは机に向かった。
やることを確認した。
各町の在庫状況の更新。フィオナへの返信。ゴードンへの数字の確認依頼。シェナから届いた新しい薬草の分類をルナと一緒にやること。
その作業リストを書きながら、エリナは少しだけ考えた。
レインが「重い時は重いと言っていい」と書いた。
自分も「重い時は言う」と言った。
実際に、「少し重い」と書いた。
するとレインが、自分の重い時のことを書いてくれた。
そのレインに、自分は「なりたいと思っている」と書いた。
一つ一つは、小さなやり取りだ。
でも、積み上がると、何かになる気がした。
何かというのが、まだうまく言葉にできない。
でも、あることは確かだ。
エリナは作業リストの端に、小さく書いた。
『残り五ヶ月を切った』
それを見て、少し考えて、その隣にもう一行書いた。
『一年後の約束、覚えている』
それだけ書いて、ランプを吹き消した。
暗い部屋で、少しだけ目を開けていた。
ルナが「手紙を書いている時の顔が悪くない」と言った。
マリオが「雰囲気が少し柔らかくなった」と言った。
フィオナが「名前を出す時の間が違う」と書いた。
三人が、別々に、同じ方向の何かを感じている。
エリナには、それが何かわかる気がした。
でも、今夜は言葉にしなかった。
急がなくていい。
一年後の約束が、ある。
その日まで、積み上げる。
今夜は、それで十分だ。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
重い時を、話せる人ができた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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