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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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30/38

30話 ベルダンとの再会

 ベルナへ向かったのは、翌々日の朝だった。

 今回は、ゴードンと二人だけで行った。

 マリオを連れて行かなかったのは、ルシェムの市場の調査員への目配りを続けてほしかったからだ。状況が動いている時に、現場を空けるのはリスクがある。

 馬車の中で、ゴードンが仕上げた損失試算書を確認した。

 ベルダンがアッシュフォード商会との取引を止めた場合、ベルナの病欠日数が月あたり推計でどのくらい増えるか。その増加が、ベルダンの他の商売にどう影響するか。数字を積み上げて、一枚の表にまとめてあった。

 

「よくできています」

「推計の部分は誤差が出ます。ただ、方向性は正しいはずです」

「方向性が正しければ十分です。ベルダンは数字を読める人間だ。細かい誤差より、構造を理解してくれる」

「そう思います」

 

 馬車が街道を走った。

 空は晴れていた。


 ロッソ商会に着くと、受付の男がすぐに奥へ案内した。

 前回来た時と同じ応接室。革張りの椅子。窓から通りが見える。

 ベルダンは、すでに席に座っていた。

 エリナを見て、短く頷いた。

 

「来たか」

「お時間をいただきありがとうございます」

「座れ」

 

 エリナとゴードンが席についた。

 ベルダンが、しばらくエリナを見た。前回より目が細い。値踏みというより、確認しているような目だ。

 

「知ってるか。最近、うちに妙な話が来ている」

「存じています。取引を見直すよう、という話が来ている」

「知っていたか」

「フィオナ・クロスベルという人間が王都で動いてくれています。そちらからの情報です」

「ふん」


 ベルダンが少し顎を引いた。


「それで、お前はわざわざベルナまで来た。何を話しに来た」

「二つです。一つ目は、現状の説明。二つ目は、数字です」

「聞こう」


 エリナは、まず現状を話した。

 クロヴェル家が、アッシュフォード商会への規制案を魔法省の会議に提出したこと。継続審議になったこと。取引先への圧力が始まっていること。

 ベルダンは黙って聞いた。途中で口を挟まなかった。

 

「つまり、お前のところと取引を続けると、クロヴェルに睨まれる可能性がある、ということだ」

「そうです。それは否定しません」

「正直だな」

「正直でない交渉は、長続きしません」

 

 ベルダンが少しだけ口元を動かした。笑い、ではないが、笑いに近い何かだった。

 

「それで、数字を見せろということか」

「はい」

 

 エリナはゴードンから書類を受け取り、ベルダンの前に置いた。

 

「これは、ベルダン会頭がアッシュフォード商会との取引を止めた場合の、ベルナへの影響の試算です」

 

 ベルダンが書類を取った。

 しばらく、黙って読んだ。

 エリナは急かさなかった。

 数字を読む人間には、時間を与える。それがゴードンに教わった交渉の原則の一つだ。

 やがて、ベルダンが顔を上げた。

 

「病欠日数の試算か」

「はい。石鹸が普及してから、ベルナの月あたりの病欠日数は推計で三割近く減っています。その根拠は、薬屋の販売記録と、うちの商会の供給記録の両方から出しています」

「薬屋の記録まで取ったか」

「第三者のデータが必要でした。私たちの記録だけでは、私たちに都合よく書いていると言われる可能性がある」

「それで、もし取引を止めれば、この病欠日数が戻るという話か」

「戻る可能性が高い。全部が戻るとは言い切れませんが、傾向は出ます」

 

 ベルダンが書類を机に置いた。

 

「それが、うちの商売にどう影響するかまで書いてあるな」

「はい」


 ゴードンが口を開いた。


「ベルダン会頭は、ベルナで複数の商売をされています。労働力の維持は、それらすべてに影響します。病欠が増えれば、職人の稼働率が下がる。職人の稼働率が下がれば、地域全体の生産量が落ちる。それは、直接的にも間接的にも、会頭の商売に影響します」

 

 ベルダンが少し目を細めた。

 

「老会計士が、よく調べた」

「長年、数字を扱ってきました。数字は、正直に読めば嘘をつきません」

 

 しばらく沈黙があった。

 ベルダンが窓の外を見た。ベルナの通りが見える。荷馬車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。

 

「お前たちが来た時から、うちの商売は少し変わった。石鹸と薬草薬を置くようになってから、客の層が変わった。健康に気を遣う人間が来るようになった。その客は、他の商品も買う」

「知りませんでした」

「言っていなかったからな」


 ベルダンが少し笑った。


「商人は、自分に有利な情報を先に出さない。それが癖だ」

「私も同じ癖があります」

「お前もか」

「交渉の場では」

 

 ベルダンがエリナを見た。前回とは少し違う目だった。前回は値踏みしていた。今日は、何か別のものが混じっている。

 

「一つ、聞いていいか?」

「どうぞ」

「クロヴェルと、最終的にどうするつもりだ」

 

 エリナは少し考えた。

 

「正面から戦うつもりはありません」

「なぜ?」

「今の私には、正面から戦う力がない。でも、時間があれば、数字が積み上がる。数字が積み上がれば、魔法省の規制案を通す根拠が弱くなる。根拠が弱くなれば、審議を止め続けることができる」

「時間を稼ぐ、ということか」

「そうです。一年という期限がある。その期限の中で、誰が見ても否定できない実績を作る。それが今の方針です」

「一年後に、何がある」

「王宮への報告があります。国王陛下が、一年の結果を見て、父の改革案の是非を再び議論する場を設けると約束してくださいました」

 

 ベルダンが少しだけ、目を細めた。

 

「陛下が、直接……」

「はい」

「それは——」


 ベルダンが少し間を置いた。


「大きな話だな」

「大きすぎるかもしれません。でも、受けた約束です」

 

 沈黙があった。

 ベルダンが再び書類を手に取った。数字を、もう一度確認するように見た。

 

「お前たちとの取引を続けることが、ベルナ全体への投資だと、そういうことを言いに来たのか」

「そうです」

「で、クロヴェルの圧力があっても、続けろと」

「続けてほしいとは言いません。判断はベルダン会頭のものです。リスクがあることは事実だ。それを飲んでくれと頼むのは、こちらの都合です」

「では、何を言いに来た」

「判断に必要な情報を、正確に届けに来ました。続けることのメリットと、止めることのコスト。両方を、数字で。それを持った上で、ベルダン会頭が決めてくれれば、私たちはその判断を受け入れます」

 

 ベルダンが書類を置いた。

 少し、長い沈黙があった。

 エリナはその沈黙を、動かさなかった。

 前回の交渉でも、この人は沈黙の中で考える人だと知っていた。

 やがて、ベルダンが言った。

 

「お前は、なぜそんなに正直なんだ」

「嘘をついて長続きする取引はないからです。前回も言いました」

「同じことを言うな」

「同じことだから、同じことを言います」

 

 ベルダンが、少しだけ声を立てて笑った。

 前回の交渉でも、一度だけそういう笑い方をした。声に出る笑いだった。

 

「わかった、続ける」

「よろしいのですか?」

「条件がある」

「聞かせてください」

「一つ。もし規制が通って、お前たちの商品の供給が完全に止まる事態になった時、私に先に知らせること。代替の対応を一緒に考える時間がほしい」

「わかりました」

「二つ。半年に一度、こうして直接話す機会を作ること。代理人ではなく、お前が来ること」

「来ます」

「三つ目」


 ベルダンが少し間を置いた。


「一年後の王宮への報告、どうなったか教えてくれ。結果を聞きたい」

 

 エリナは少しだけ、目を細めた。

 

「それは——」

「商人として、投資の結果を知りたい。お前たちとの取引を続けることは、ある意味では賭けだ。その賭けの結果を、知りたい」

「わかりました。必ず報告します」

 

 ベルダンが手を差し出した。

 エリナはその手を握った。

 大きな手だった。

 前回も、この手の大きさを感じた。

 今回は、前回より少しだけ、力が込められている気がした。


 帰り道の馬車の中で、ゴードンが言った。

 

「見事でした」

「何がですか?」

「判断を押しつけなかった。情報を置いて、選ばせた」

「それしかできません。最終的な判断は、相手のものです」

「でも、情報の届け方で、判断の方向は変えられる」

「それは、操作ではありませんか」

「誠実な情報を、正確に届けることは、操作ではないと思います。操作とは、不正確な情報や、一方的に都合の良い情報を使うことです。あなたは今日、リスクも正直に伝えた」

 

 エリナは少し考えた。

 

「ゴードンさん」

「はい」

「ギルドで告発した時も、同じ考え方でしたか。正確な情報を届けることが、誠実さだという」

 

 ゴードンが少し間を置いた。

 

「そうだったと思います。でも、あの時は届け方が足りなかった。誰に届けるかを、間違えた」

「今は?」

「今は、届ける相手を間違えていないと思っています」

 

 馬車が揺れた。

 ルシェムへの街道が続いている。


 夕方、長屋に戻ると、マリオが待っていた。

 

「どうだった」

「続けてもらえることになった」

「よし」


 マリオが拳を握った。


「市場の方は?」

「何かありましたか?」

「調査員らしき二人組が、また来てた。今日は市場の外れで、しばらく立っていた。グレンさんが記録してくれている」

「ありがとうございます。グレンさんに伝えてください、引き続き頼むと」

「伝える」


 マリオが少し考えた。


「なあ、エリナ」

「何?」

「今日、ベルダンと話してて、怖くなかったか?」

「少しは」

「でも、ちゃんと話してきたんだろ」

「そうです」

「それでいい」


 マリオが笑った。


「俺には、そういう話はできないから」

「マリオにしかできない話もある」

「そうだな。俺は市場で顔を作っておく。お前は王都に向かって話をする。それでいいな」

「それでいい」


 夜、エリナは机に向かった。

 フィオナへの報告を書いた。ベルダンが続けると決めた経緯を、簡潔に。

 最後に一行添えた。

 

『ベルダンが、一年後の王宮報告の結果を知らせてくれと言った。投資の結果を知りたいと。私たちの戦いを、見ていてくれる人が増えている。』

 

 それから、レインへの短い手紙を書いた。

 

 ベルダンが続けると言ってくれた。数字が、動いてくれた。

 あなたの「一年前の自分が見たら驚くか」という問いを、今日もう一度使った。ベルダンと話しながら、一年前の自分が今の自分を見たら、少し驚くかもしれないと思った。

 あなたが教えてくれた問いが、ここまで来て役に立った。

 残り、五ヶ月を切った。

 

                                        ――エリナ――

 

 書いて、封をした。

 机の上に二通の封筒が並んだ。

 窓の外から、夜風が入ってきた。

 ベルダンが言っていた言葉が、頭の中に残っていた。

 

 一年後の王宮への報告、どうなったか教えてくれ。

 投資の結果を知りたい。

 見ていてくれる人が、また一人増えた。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 数字が、今日も動いた。

 それで、今夜は十分だ。

読んでいただきありがとうございます。

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