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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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29話 レインが答えた夜

 返事が来たのは、五日後だった。

 いつもより少し遅かった。

 封を開けると、いつもより厚かった。


 エリナへ

 

 今どういう状態かを、正直に書いてくれてありがとう。

『基準がわからないのが一番厄介だ』という言葉、正確だと思った。俺も同じ問題を抱えている。一年後に何を学院に示せばいいか、どこまでやれば『変わった』と言えるか。その基準を、自分で決めなければならない。確認する方法がない。

 

 だから、一つだけ考えたことを書く。

 基準が外から与えられない時、自分の中に基準を作るしかない。俺が使っている方法は、『一年前の自分が見たら、変わったと思うか』という問いだ。

 一年前の自分が今を見たら、何と言うか。それが一つの答えになる。

 お前の場合で考えてみた。一年前のエリナは、ルシェムの長屋で一人で石鹸を作っていた。今のエリナは、四つの町に現場責任者がいて、学院との連携があって、王宮に定期的に数字を届けている。一年前のエリナが今を見たら、たぶん驚く。

 それが、答えの一つではないか。

 

 もう一つ。『ルナが猫を貸してくれた』という一行について。

 

 状況報告の手紙に、そういう一行が入ることがある。俺の手紙にも、入っていることがある。「今日、図書室に行った」という話がそうだ。報告でも情報でもない。でも、書いた。

 そういう一行が入る理由を、今まで考えたことがなかった。でも、お前の手紙を読んで、少し考えた。

たぶん、相手に知ってほしいから書くのだと思う。報告でも情報でもないが、相手に知っていてほしい何かが、そこにある。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 それから、『少し重い』と書いてくれた。重い時は重いと言っていい。俺に言っても、解決はできないかもしれないが、知っていることはできる。

 残り五ヶ月。俺も同じカウントをしている。

 

                                          ――レイン――


 エリナは手紙を読み終えた。

 すぐには、何もしなかった。

 机の上に手紙を置いて、少しだけ窓の外を見た。

 夕方の空に、雲が流れている。

 いくつか、整理した。

 一年前の自分が今を見たら、驚くか。

 驚く、と思った。

 長屋の台所で一人で石鹸を型に流し込んでいたあの頃、今のような状態を想像していたかと言えば、していなかった。していなかったが、目指していた。目指していたものに、少しずつ近づいていた。

 それが一つの答えになる、とレインは書いた。

 その言葉が、ゆっくりと、頭の中に落ちていく感覚があった。

 

 もう一つ。

 相手に知ってほしいから書く。

 エリナは、その一行を何度か読み返した。

 報告でも情報でもないが、相手に知っていてほしい何かが、そこにある。

 レインが『今日、図書室に行った』と書いたのも、そういうことだったのか。

 自分が『ルナが猫を貸してくれた』と書いたのも。

 相手に知っていてほしかった。

 レインに、知っていてほしかった。

 その事実を、エリナは少しだけ、正直に受け取った。


 翌朝、エリナは早起きして、返事を書いた。

 

 レインへ

 

『一年前の自分が見たら、驚くか』という問いを使ってみた。驚く、と思った。それが答えの一つになるということ、少し、軽くなった。ありがとう。

「相手に知っていてほしいから書く」という言葉について。

 その通りだと思った。私が「ルナが猫を貸してくれた」と書いたのは、あなたに知っていてほしかったからだ。なぜあなたに知っていてほしかったのかは、まだうまく言葉にできない。でも、そうだったと思う。

『重い時は重いと言っていい』と書いてくれた。それも、少し軽くなった。

 

一つ、聞いてもいい?。

 

あなたにとって、「重い時」はどういう時ですか。

 

                                        ――エリナ――

 

 書いてから、最後の問いを少しだけ見た。

 聞いていいことかどうか、少し迷った。

 でも、レインが『重い時は重いと言っていい』と書いた。

 それは、こちらからも聞いていいということではないか。

 消さなかった。


 その日の午前中、フィオナから手紙が届いた。

 定期報告と、一つの新しい情報が入っていた。


 エリナへ

 

 クロヴェル派の動きに、少し変化がある。

 規制案の継続審議が決まってから、侯爵が外部の商人ギルドへの働きかけを強めているという情報がある。具体的には、アッシュフォード商会の商品を扱っている業者に対して、「取引を見直すよう」という非公式の圧力がかかり始めている。

 ベルナのロッソ商会のベルダン会頭のところにも、同様の話が来たらしい。ベルダンは今のところ、動いていないようだ。でも、圧力は続いている。

 ベルダンに、直接連絡を取った方がいいかもしれない。私からも動けるが、あなたから動く方が意味があると思う。あなたとベルダンは、取引の実績がある。信頼の重みが違う。

 

 あと、ダリウスについて。

 会議でクロヴェルの案に「時期尚早」と言ってから、ダリウスは父親との会合への出席をさらに減らしている。宮廷での彼の立場は、少し難しくなっているようだ。でも、本人は特に表情を変えていないという。

 複雑な人ね、やっぱり。

                                        ――フィオナ――


 エリナはゴードンを呼んだ。

 

「ベルナのベルダン会頭に、直接会いに行く必要があります。今週中に行けますか」

「日程は調整できます。ただ、何を話すかを事前に整理しておく必要があります」

「わかっています。ベルダンは数字で動く人間だ。圧力をかけられている現状と、それでも取引を続けることのメリットを、数字で示す必要がある」

「メリット、というのは」

「ベルダンにとって、アッシュフォード商会との取引は、単なる石鹸と薬草薬の売買ではなくなっている。ベルナの衛生状態の改善は、ベルナ全体の労働力の維持につながっている。それはベルダンの他の商売にも影響している。切ることのコストを、数字で見せる」

「切った場合の損失試算が必要ですね」

「作ってもらえますか。今日中に叩き台だけでも」

「やってみます」

 

 ゴードンが帳簿に向かった。


 昼過ぎ、マリオが市場から戻ってきた。

 

「なんか、妙な感じがするな」

「何が?」

「市場で、知らない顔を二人見た。商人風だけど、買い物をしていない。話しかけている人間を観察している感じ」

 

 エリナは少し目を細めた。

 

「どんな服装でしたか」

「上等な布の服。腰に細い剣帯。ただ、剣はない」

「護衛ではなく、調査の人間」

「そう見えた」

「グレンさんに伝えてもらえますか。今後、見かけたら記録しておくよう」

「わかった」


 マリオが少し眉をひそめた。


「また調査が来てるのか」

「おそらく。流通を止めて、取引先に圧力をかけて、今度は市場での動きを把握しようとしている」

「じわじわ来てるな」

「そうです。一気に潰すのではなく、じわじわと追い込む。そういうやり方です」

「対策は?」

「今日はベルダンへの準備に集中する。明日、グレンさんと一緒に市場の人間を把握しておく。できることを、順番にやる」

 

 マリオが頷いた。

 

「俺、市場の顔見知りに声をかけておく。何か変なことがあったら教えてくれって」

「助かります」

「そういう人脈は、俺の仕事だからな」

 

 マリオが出ていった。


 夕方、ゴードンが損失試算の叩き台を持ってきた。

 数字を見て、エリナは少しだけ目を細めた。

 

「ベルダンが取引を止めた場合、ベルナの病欠日数が推計でどのくらい増えるか、出せますか」

「難しいですが、過去のデータから推計することは可能です」

「やってみてください。数字が出れば、ベルダンに対して、『取引を続けることは、ベルナの商業全体への投資だ』という説明ができる」

「なるほど。ベルダンは、ベルナで複数の商売をしている。労働力の維持は、彼自身の他の事業にも影響する」

「そうです。石鹸を売ることが、ベルナ全体の経済を支えることに繋がっている。その構造を、数字で見せる」

「明日の午前には仕上げます」

「お願いします」


 夜、エリナは机に向かった。

 やることが多い。

 ベルダンへの訪問準備。市場の調査対応。フィオナへの返信。各町の在庫確認。ルナが持ってきた新しい薬草の分類。

 

 でも、今夜はすべてを片付けようとするのをやめた。

 優先順位をつけて、今夜やることを三つに絞った。

 フィオナへの返信。ベルダン訪問の論点整理。明日の段取りの確認。

 それだけ。

 フィオナへの返信を書いた。

 

 ベルダンへの訪問、今週中に行く。損失試算をゴードンさんに作ってもらっている。数字で話す。

 ダリウスのことは、引き続き見ていてほしい。彼が今、どういう状態にいるか。無理に動かそうとしなくていい。ただ、知っていたい。

 市場に調査の人間が来た。じわじわ来ている。でも、こちらも動いている。

 フィオナが王都にいてくれることが、今になって改めてわかった。一人では届かない場所に、あなたがいる。ありがとう。

 

                                          ――エリナ――

 

 「ありがとう」と書いた。

 フィオナへの手紙に「ありがとう」と書くのは、二度目だった。


 論点を整理し、明日の段取りを確認して、ランプを消す前にもう一度レインの手紙を読んだ。

 重い時は重いと言っていい。

 その言葉を、もう一度受け取った。

 重い時がある。

 でも、重いと言える相手がいる。

 それが、以前とは違う。

 ルシェムの長屋で一人、石鹸を作っていた頃とは、確かに違う。

 一年前の自分が今を見たら、驚くか。

 驚く。

 そして——少しだけ、羨むかもしれない。

 重い時に、重いと言える相手がいることを。

 エリナはランプを吹き消した。

 暗くなった部屋で、少しだけ目を開けていた。

 窓の外、ルシェムの夜は静かだった。

 でも、どこか遠くで、何かが動いている音が、聞こえるような気がした。

 

 クロヴェルが動いている。

 でも、こちらも動いている。

 

 ベルダンに会いに行く。数字を持って。

 じわじわ来るなら、じわじわ返す。

 それがエリナの戦い方だ。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 重い時は、重いと言っていい。

 それを知った夜だった。

読んでいただきありがとうございます。

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