28話 積み上がるものと、削られるもの
継続審議になってから、十日が経った。
その十日間、表向きは静かだった。
橋が止まるようなことはなかった。調査の男が来る気配もなかった。クロヴェルから直接的な動きは、何もなかった。
フィオナは「嵐の前の静けさだと思っておいた方がいい」と手紙に書いた。
エリナも同じように思っていた。
だから、静かな十日間を、全部使った。
まず、薬屋の第三者データが揃った。
マグダがヴァロウの薬屋を説得し、ジルカがキーシュの薬屋二軒から記録を取り寄せ、シェナがトレネの薬草専門店の販売記録を持ってきた。
ゴードンがそれをすべてまとめた。
四つの町、三つの業種、一年半分の販売記録。
石鹸が普及し始めた時期から、共通して同じ変化が起きていた。腹下しの薬の販売数が減り、傷口の化膿に使う膏薬の販売数が減り、発熱の薬の販売数が減っていた。
一つの町だけなら偶然かもしれない。
四つの町で、同時に、同じ変化が起きている。
「これは、偶然では説明できない」
ゴードンが静かに言った。
「そうです」
エリナが頷いた。
「次の審議の前に、学院に送る」
「レインさんに?」
「レインと師匠に。二人が使いやすい形で」
ゴードンが三日かけて、学院向けの報告書に仕上げた。グラフの代わりに、変化の割合を数字で丁寧に示した表を作った。文字だけで見ても、変化の大きさが伝わるように。
分厚い封筒が、学院へ向けて旅立った。
次に、各町の現場責任者たちと、初めて一堂に会する機会を作った。
マグダ、シェナ、ジルカの三人を、ルシェムに呼んだ。
エリナ、マリオ、ルナ、ゴードンと合わせて、七人が長屋の事務室に集まった。
狭かった。椅子が足りなくて、マリオとジルカは立っていた。
「狭くてすみません」
エリナが言うと、マグダが笑った。
「気にしない気にしない。あたしの家の台所より広いよ」
シェナが窓の外を少し見て、静かに言った。
「ルシェム、初めて来た」
「遠かったですか」
「遠くなかったよ。道が思ったより良かった」
「迂回路を整備した効果かもしれません」
「馬が気持ちよさそうに歩いてた」
ルナが隅で猫を膝に乗せながら、三人を順番に見ていた。目が合ったジルカが少しだけ驚いた顔をしたが、ルナは特に何も言わなかった。
会議は、二時間かけて行った。
エリナが各町の現状を共有し、ゴードンが数字を説明し、次の半年でやることを全員で確認した。
途中、マグダが言った。
「一つ、聞いていいかい」
「どうぞ」
「王都でごちゃごちゃしてるって話、聞こえてくるけど。大丈夫なのか」
エリナは少し考えてから、正直に答えた。
「大丈夫とは言い切れません。クロヴェル家が、私たちの販売活動に規制をかけようとしている。今は止まっているが、次が来る可能性がある」
「そうか。で、私たちにできることはあるか」
「あります。今やっていることを、続けること。数字を記録し続けること。それだけで十分です」
「派手なことじゃないんだね」
「派手なことより、地道なことの方が、最終的に強い」
マグダがしばらくエリナを見てから、うんと頷いた。
「わかった。続ける」
ジルカが穏やかな声で言った。
「私もキーシュで続けます。それと、海沿いのルートは、いつでも使えるように整えておきます。万が一の時のために」
「助かります」
シェナは静かに、でもはっきりと言った。
「薬草の採取量を増やせる場所を、最近見つけました。許可が取れれば、来月から供給量を増やせます」
「許可とは」
「トレネの外れの森の所有者が、町の商人です。話せばわかる人だと思う」
「交渉してみます。必要なら、ゴードンさんに同行してもらえますか」
「もちろんです」とゴードンが頷いた。
会議が終わった後、三人はその日のうちに帰った。
見送りに出たエリナに、マグダが最後に言った。
「エリナちゃん」
「はい」
「あんたは、七つの時から変わらないね」
「変わっていないですか」
「変わってる部分もある。でも、根っこは変わらない」
マグダが少しだけ目を細めた。
「最初に豆のペーストを持ってきた時から、ずっと同じ目をしてる」
「どんな目ですか」
「次のことを、もう考えてる目。それが、あたしは好きだよ」
馬が街道に向かった。
エリナはその背中を、少しだけ見送った。
現場責任者たちが帰った翌日、エリナは一人で作業場に入った。
特に何かがあったわけではない。ただ、少し一人で考えたかった。
棚に並んだ薬草の瓶を見た。石鹸の型を見た。蒸留器を見た。
一年半前、ここには何もなかった。
台所で一人、石鹸の型を作っていた。
今は、作業場がある。現場責任者が三人いる。各町に流通がある。学院との連携がある。王宮に定期的に数字が届いている。
積み上がったものは、確かにある。
でも同時に、削られているものも、感じていた。
具体的に言葉にするのが、難しかった。
でも、強いて言うなら——時間だ。
一年という期限のうち、残りは五ヶ月を切った。
五ヶ月で、何を積み上げなければならないか。
一年後、王宮に立つ時、何を持っていなければならないか。
まだ、答えが見えていない。
エリナは棚の前に立ったまま、少しだけ目を閉じた。
前世の記憶の中に、似た感覚があった。
締め切り前の、あの感じ。
やることはわかっている。でも、どこまでやれば「足りた」と言えるのか、基準が見えない時の、あの焦りに似た感覚。
締め切りは、時に人を追い詰めるが、時に人を動かす。
どちらになるかは、自分次第だ。
目を開けた。
その日の夕方、珍しくルナが先に話しかけてきた。
作業場の入り口に立って、エリナを見ていた。
「何か言いたそうな顔をしてる」
エリナが言うと、ルナが少しだけ頷いた。
「……疲れてる?」
「少し」
エリナが正直に答えた。
「そう」
「わかる?」
「わかる。いつもと少し違う。動き方が」
「どう違う?」
「いつもは、次を見てる。今日は、今を見てる」
エリナは少しだけ、その言葉を考えた。
今を見ている。
「それは、いいことですか。悪いことですか」
「どちらでもない。ただ、違う」
「そうかもしれない」
ルナが猫を一匹抱いて、少しだけ近づいてきた。
「これ」
猫がエリナの腕に乗り移ってきた。
「……なぜ?」
「疲れた時、この子が来ると少し楽になる」
エリナは猫を抱いた。温かかった。柔らかかった。
猫がごろごろと音を立てた。
少しだけ、肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ルナが静かに、自分の作業に戻った。
夜、レインから手紙が届いた。
データの受け取り報告と、師匠が魔法師団長に提出した、という連絡。
最後に一段落あった。
一つ、聞いてもいいか。
今、どういう状態だ。
「大丈夫か」と聞くのは、お前には合わない気がする。お前は必ず「大丈夫」と答えるから。だから、そう聞かない。
ただ、今どういう状態かを聞きたい。
――レイン――
エリナは少しだけ、手紙を持ったまま止まった。
「大丈夫か」と聞かない。必ず「大丈夫」と答えるから。
それは、正しかった。
エリナは、誰かに「大丈夫か」と聞かれると、反射的に「大丈夫」と答える。前世でも今世でも。それが癖だと、自分でも知っていた。
でも、「今どういう状態か」という聞き方には、「大丈夫」とは答えられない。
エリナは紙を取った。
レインへ
今どういう状態か、と聞いてくれた。答える。
積み上がっているものは、見えている。薬屋のデータが揃った。現場責任者三人が同じ方向を向いている。学院との連携が機能している。それは確かだ。
でも、削られているものも感じている。時間だ。残り五ヶ月を切った。一年後に王宮に立つ時、何を持っていれば足りるのかが、まだ見えていない。
基準がわからないのが、一番厄介だ。どこまでやれば「十分」かを、自分で決めなければならない。でも、自分で決めた基準が正しいかどうかを、確認する方法がない。
それが今、少しだけ重い。
ルナが猫を貸してくれた。少し楽になった。
――エリナ――
書いてから、最後の二行を少しだけ見た。
ルナが猫を貸してくれた、などということを、手紙に書くつもりはなかった。
でも、書いた。
消さなかった。
レインが「今どういう状態か」と聞いたから、正直に書いた。
それだけのことだ。
封をした。
寝る前に、セレーナが部屋を覗いた。
「まだ起きてたの」
「もう寝る」
「手紙を書いてたの?」
「レインに」
セレーナが少しだけ微笑んだ。
「そう」
「ただの状況報告です」
「そうね」
「本当に」
「わかってる」
セレーナが扉を少し開けたまま言った。
「おやすみ、エリナ」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
エリナは机の上に残った手紙の封筒を見た。
ただの状況報告だ。
でも、ルナが猫を貸してくれた、という一行は、状況報告ではない。
それでも書いた。
なぜ書いたのか、答えは出なかった。
でも、出さなくていいと、今夜は思えた。
ランプを吹き消した。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
積み上がっているものと、削られているものが、同時にある。
それが今の正直な状態だ。
でも、止まらない。
明日も、続ける。
それだけは確かだ。
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