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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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26話 数字の束と、レインの理由

 ゴードンが記録をまとめ終えたのは、三日後の夕方だった。

 机の上に積まれた書類の束を見て、エリナは少しだけ目を細めた。

 厚い。

 石鹸の販売を始めてから現在まで、一年半近くの記録がすべて入っている。供給量、販売数、各町の病人数の推移、傷の治癒事例、消毒液の使用結果、流通の記録、さらにゴードンが独自に集めた周辺の薬屋の売上動向まで。

 

「これだけあれば、学院の反論を数字で押し潰せます」

「押し潰す、という言葉を使うとは」

「珍しいですか」

「少し」

「長い間、不正を見ながら動けなかった人間は、数字で正義が証明される瞬間に弱い」


 ゴードンが静かに笑った。


「私がそうでしたから」

 

 エリナはゴードンを見た。

 この男がそういう話をするのは、珍しかった。

 

「商人ギルドで告発した時のことを、思い出していますか」

「たまに。でも、今はそれより、この数字の束の方が大事です。過去のことより、これから使えるものの方が」

「そうですね」

「送付の準備をしましょう。学院宛てに、レインさん経由で」

「お願いします」


 書類の束を封筒に詰めながら、エリナはレインへの手紙を書いた。

 データの送付について説明し、各項目の見方を簡単に注記した。

 最後に一行、付け加えた。

 

『前の手紙で「今日は何日か」と聞いた理由を、まだ教えてもらっていない。』

 

 書いてから、少しだけ止まった。

 催促のような一行だ。

 でも、気になるのは本当のことだから、書いた。

 封をした。


 翌日の朝、ヴァロウのマグダから珍しく本人が来た。

 馬に乗って、一人で来た。息が少し上がっている。

 

「エリナちゃん、ちょっといいかい」

「どうぞ。何かありましたか」

「悪い話じゃないんだけどね」


 マグダが台所の椅子に座った。


「ヴァロウで、面白いことが起きてる」

「面白いこと?」

「石鹸の話がな、お母さんたちの間で広まって、子どもに手の洗い方を教えるのが習慣になってきた」

「それは想定の範囲内です」

「そこまではね。でも、この前、ヴァロウの薬屋の親父が私のところに来て言ったんだよ。『最近、子どもの腹下しで薬を買いに来る親が減った。商売あがったりだ』って」

 

 エリナは少しだけ、考えた。

 

「薬屋が、減ったと言ったんですか」

「そう。最初は愚痴のつもりで言ったみたいだけど、私がそれを記録しといてくれって言って、書いてもらった」


 マグダが紙を取り出した。


 「ほら」

 

 エリナは紙を受け取った。

 薬屋の親父の字で、月ごとの売上と、腹下しの薬の販売数が書かれていた。石鹸が普及し始めた時期から、明確に数字が落ちている。

 

「これは、重要なデータです」

「そうかい? 役に立つかい」

「非常に。薬屋の販売数が減っているということは、病気そのものが減っているということの、独立した証拠になります」

「独立した?」

「私たちの記録だけでは、私たちに都合の良いように書いていると言われる可能性があります。でも、薬屋の記録は私たちとは無関係の第三者の記録です。それが同じ方向を示している」

 

 マグダが少し目を丸くした。

 

「なるほどねえ。そういう考え方をするのか」

「マグダさんが記録してもらうよう動いてくれたのが、大きかった」

「たまたまだよ」


 と言ってマグダが手を振った。


「でも、良かった。キーシュとトレネでも同じことが起きてるかもしれないから、ジルカとシェナに声をかけてみようか」

「ぜひ、お願いします」

 

 マグダが帰った後、エリナはすぐにゴードンを呼んだ。

 

「薬屋の販売記録を、各町で集められるか確認してほしい。第三者データとして、学院への追加資料にする」

「正式に依頼する形が必要ですか」

「非公式でいい。各町の現場責任者に声をかけてもらって、薬屋が協力してくれるなら書いてもらう」

「わかりました」

「マグダさんには、改めて礼を」

「もちろんです」


 その日の夕方、レインからの返事が届いた。

 データの送付を頼んだ手紙への返事にしては、少し早かった。

 封を開けると、二枚の紙が入っていた。

 一枚目は、学院の最新の状況報告だった。

 データを受け取り次第、師匠と共に整理して魔法師団長に提出する予定であること。薬屋の販売記録という第三者データの件は、「非常に有効だ」とレインも評価していること。クロヴェル派の「魔法による補助があってこそ」という主張に対して、数字で圧倒する準備が整いつつあること。

 二枚目を開いた。


 エリナへ

 

「今日は何日か」と聞いた理由について。

 答えるのが少し遅くなった。どう書くか、考えていた。

 学院の図書室に、古い記録書がある。建国期から現在までの、王国内の重要な出来事を年代ごとにまとめたものだ。調べ物をする時に、よく使う。

 先月、その記録書を見ていた時に、アッシュフォード侯爵の名前が出てきた。失脚の記録だ。その隣に、生年月日と没年が書いてあった。

 その記録の中に、娘の誕生日も書かれていた。

 あなたの誕生日だと、その時に知った。

 手紙を出す前の日に、図書室でその記録を見ていたのだと、後で気づいた。なぜその日に見ていたのかは、わからない。調べたいことがあって、記録書を開いたら、そのページがあった。それだけだ。

 だから、「今日は何日か」と聞いたのは、確認のためだ。

 ただ、それだけではない、かもしれない。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 一年後の約束を、覚えている。

                                          ――レイン――


 エリナは手紙を、二度読んだ。

 三度読んだ。

 それから、少しだけ机の上に置いて、天井を見た。

 

 記録書に、父の名前があった。

 失脚の記録と、生没年と、娘の誕生日。

 

 レインがそれを見た。

 意図せず、その日に見た。

 それだけだ、とレインは書いた。

 でも、それだけではないかもしれない、とも書いた。

 エリナは、その「それだけではないかもしれない」という言葉の意味を、整理しようとした。

 整理できなかった。

 前世のエンジニアとしての習性が、情報を処理しようとする。でも、処理できない。

 マリオが言っていた。

 答えを急ぐやつじゃないと思う。

 エリナは少しだけ、息を吐いた。

 急がなくていい。

 でも、何かがある。それは確かだ。


 夕食の後、セレーナが台所を片付けながらエリナに言った。

 

「今日は顔色が少し違う」

「そうですか?」

「何かあった?」

「レインから手紙が来た」

「何が書いてあったの」

「図書室で父の記録を見たという話と、私の誕生日を知っていたという話」

 

 セレーナが少し手を止めた。

 

「……丁寧な人ね」

「丁寧?」

「誕生日を知っていたなら、お祝いを言えばいい。でも、なぜ知ったかまで説明してくれた」

 

 エリナは、その見方を少しだけ考えた。

 

「説明しなくてもいい部分まで、説明した」

「そう」


 セレーナが静かに言った。


「そういう人は、誠実な人よ」

 

 エリナは何も言わなかった。

 セレーナが続けた。

 

「エリナ」

「何?」

「レインという人に、会ったことはないけれど」

「うん」

「手紙を見ていると、あなたのことをちゃんと見ている人だなと思う」

「見ている、とは」

「数字や情報だけじゃなくて、あなた自身を」


 セレーナが穏やかに言った。


「そういう人は、大事にしなさい」

 

 エリナは少し止まった。

 

「大事にするとは、どういう意味ですか」

「言葉の通りよ」


 セレーナが少し笑った。


「難しく考えなくていい」

「難しく考えるのが、癖なので」

「知ってる」

 

 セレーナが片付けを終えて、寝室に向かった。

 

「おやすみ、エリナ」

「おやすみなさい」


 エリナは一人、事務室に残った。

 レインの手紙が、机の上にある。

 図書室で、父の記録を見た。

 意図せず、その日に。

 エリナは、その場面を想像した。

 

 学院の静かな図書室。古い記録書のページ。アッシュフォード侯爵の名前。失脚の経緯。娘の誕生日。

 

 レインがそのページを開いた時、何を思ったか。

 手紙には書いていなかった。

 書かなかったのか、書けなかったのか、書く必要がないと判断したのか。

 エリナにはわからなかった。

 でも、「それだけではないかもしれない」と書いた。

 エリナは紙を取って、返事を書き始めた。


 レインへ

 

 記録書の話、読んだ。

 父の名前が記録書に残っている、ということを、考えたことがなかった。失脚した人間の記録は、消されることが多いと聞いていたから。消えずに残っていたことを、少し、嬉しく思った。

 理由を教えてくれてありがとう。説明しなくてもいい部分まで、書いてくれた。

 こちらからも一つ。

『それだけではないかもしれない』という言葉を、私も同じことを思っている場面がある。何についてかは、まだうまく言葉にできない。でも、あることは確かだ。

 一年後の約束、私も覚えている。

 それから、薬屋の販売記録を各町で集め始めた。第三者データとして、近いうちに追加で送れると思う。

 

                                          ――エリナ――


 書き終えて、少しだけ手紙を見た。

 

 『私も同じことを思っている場面がある』


 と書いた。

 レインが読んだら、何と思うだろう。

 考えて、やめた。

 答えを急がない。

 封をして、引き出しに入れた。

 明日の朝、送る。

 今夜は、それで十分だ。


 寝る前に、エリナは窓の外を少しだけ見た。

 雲が出ていて、星はほとんど見えない。

 でも、雲の切れ間に、一つだけ星が見えた。

 明日は晴れるかもしれない。

 天気を読む習慣は、ルシェムに来た最初の頃からついていた。農業の知識から来ていて、実用的な理由からだ。

 でも今夜だけは、実用的な理由ではなく、ただ星を見ていた。

 父の記録が、学院の図書室に残っている。

 消えなかった。

 そのページを、レインが見た。

 偶然か、偶然ではないのか、エリナにはわからない。

 でも、知ってくれた。

 それで十分だと、今夜は思う。

 ランプを吹き消した。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 父の記録は、消えていなかった。

 それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

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