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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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25話 レインの返事と、八歳の朝

 レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。

 

 その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。

 八歳になった。

 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。

 

「おめでとう」

「ありがとう」

「何か食べたいものはある?」

「いつも通りで」

「少しくらい特別なものを頼みなさい」

「じゃあ、パンに蜂蜜を」

「それだけ?」

「十分です」

 

 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。

 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。

 出さなくて正解だったと思う。

 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。

 

「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」

「うん」

「何か欲しいものはあるか?」

「今のところない」

「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」

「好きなことというのが、難しい」

「難しい?」

「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」

「それを忘れろ、今日一日だけ」

「忘れたら困る」

「本当につまらないな、お前は」

 

 マリオが笑いながら作業場に入っていった。

 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。

 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。

 それで十分だった。


 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。

 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。

 エリナは封を開けた。


 エリナへ

 

 父上の言葉について、書いてくれてありがとう。

『この子は私よりうまくやる』という言葉を、一歳の娘に向けて言った人間がどういう人だったか、少し想像した。正しいことを正しいまま言おうとする不器用な人、という話と合わせると、その言葉は計算ではなく、本当にそう見えたから言ったのだと思う。

 一歳の子どもを見て、そういうことが見える人間は、珍しい。

 学院の話。石鹸と消毒液の正式採用後、最初の月の感染件数が出た。術後感染が、採用前の同時期と比べて四割以下になった。師匠がその数字を魔法師団長に直接報告した。団長は「継続して記録するように」と言った。これは、公式な追跡調査が始まったということだ。

 クロヴェル派からの反発は、まだある。「石鹸の効果は魔法による補助があってこそだ」という主張をする者が一部いる。根拠のない話だが、感情的な支持を集めている。これに対して、俺は今、別の方法を考えている。

 感情には、感情で返すのではなく、もっと多くの数字で返す。一つの学院の一ヶ月のデータでは足りない。ルシェムとベルナと周辺の町の、もっと長い期間のデータが必要だ。ゴードンさんに、過去のすべての記録をまとめてもらうことはできるか。

 それから、一つ聞いていいか?

 今日は何日だ。

 

                                       ――レイン――


 エリナは手紙を読み終えて、最後の一行を二度読んだ。

 

 『今日は何日だ』

 

 なぜそれを聞くのか、一瞬わからなかった。

 それから気づいた。

 前に、誕生日の話を、したことがあっただろうか。

 なかった、と思う。

 

 では、なぜ——

 

 考えて、答えが出なかった。

 エリナはゴードンを呼んだ。

 

「学院からのデータ要請があります。過去のすべての記録を、学院に提出できる形にまとめてほしい」

「どの範囲ですか」

「石鹸と薬草薬の普及を始めてから現在まで。供給量、販売数、病人の減少記録、傷の治癒事例、すべて」

「かなりの量になりますが」

「それが目的です。レインが、量で返すと言っていた」

「なるほど、わかりました。三日いただければ、まとめられます」

「お願いします」

 

 ゴードンが出ていった。

 エリナはもう一度、手紙の最後の一行を見た。

 

 『今日は何日だ』

 

 返事を書こうとして、ペンを持った。


 レインへ

 

 学院のデータの件、ゴードンさんに依頼した。三日でまとまる予定。送付方法はこちらで手配する。

 術後感染が四割以下。それは大きな数字だ。師匠が動いてくれていることも。

 クロヴェル派の「魔法による補助があってこそ」という主張には、反論するより数字で圧倒する方が正しいと思う。感情で動いている相手に感情で返すのは消耗が大きい。あなたの判断は正しい。

 最後の質問について。

 今日は、私の誕生日だ。八歳になった。

 なぜ聞いたのか、理由が気になる。

 

                                         ――エリナ――


 書いてから、『理由が気になる』という一行を消そうか少し迷った。

 消さなかった。

 気になるのは本当のことだから。

 封をして、机の端に置いた。


 夕方、フィオナから手紙が届いた。

 王都からの定期報告の手紙と、いつもより少し厚い別の封筒が同封されていた。

 報告書を先に読んだ。

 クロヴェル派の動きに大きな変化はない。地方道路管理局は今のところ静かだ。アルバ殿下が最近、商業関連の会議への出席を増やしているという情報がある。エリナの名前が、その会議の中で話題に上ることが増えてきた。

 別の封筒を開けると、小さな紙包みが入っていた。

 開けると、王都で作られた薄い飴菓子が数枚。

 一緒に、短い紙が入っていた。


 今日があなたの誕生日だと、セレーナさんから聞いた。おめでとう。八歳は、七歳より少しだけ大人に近い。でも、あなたはすでに十分すぎるくらい大人みたいなことをしているから、あまり関係ないかもしれない。

 王都の飴。甘いものを食べる習慣がないと思うけど、誕生日くらいは食べなさい。

 

                                         ――フィオナ――

 追伸:レインは知ってる? あなたの誕生日。


 エリナは追伸を読んで、少し止まった。

 手紙を書いた順番を考えると、レインの返事が届いたのが今日の昼過ぎで、フィオナの手紙が届いたのが夕方だ。

 つまり、フィオナはレインの手紙の内容を知らない。

 それでも、同じことを聞いてくる。

 この人は、どこまで読んでいるのだろう。

 エリナは飴菓子を一枚、口に入れた。

 甘かった。

 普段、甘いものを食べる機会はほとんどない。砂糖は高い。でも、今日はセレーナに蜂蜜のパンを食べて、フィオナの飴を食べた。

 誕生日というのは、甘いものを食べる日らしい。

 合理的な理由はないが、悪くなかった。


 夜になって、マリオが事務室に顔を出した。

 

「今日一日、どうだった」

「普通だった」

「普通か」

「うん」

「誕生日なのに普通か」

「誕生日でも普通のことしか起きない」

 

 マリオが少し笑った。

 

「まあ、そうだな」

「フィオナから飴が届いた」

「へえ。食べたか」

「一枚食べた」

「甘かったか?」

「甘かった」

「そりゃそうだ」


 マリオが笑った。


「他には?」

「レインから手紙が来た」

「何が書いてあった」

「学院のデータの話と、術後感染の数字と」

「他には?」

 

 エリナは少し止まった。

 

「今日が何日か、聞いてきた」

 

 マリオが一瞬だけ表情を止めて、それからにやりとした。

 

「ふうん」

「何?」

「なんでもない」

「何かある顔をしてる」

「してない」

「してる」

「してない」

 

 マリオが壁にもたれて、天井を見上げた。

 

「なあ、エリナ」

「何?」

「お前さ、レインのことどう思ってんの?」

 

 エリナは少し考えた。

 

「どう、とは?」

「どう、は、どうだよ。普通に聞いてる」

「信頼できる人だと思っている」

「それだけか?」

「数字を正確に扱う。余計なことを言わない。約束を守る。それは、仕事相手として重要な資質だ」

「仕事相手として」


 マリオが繰り返した。

 

「そう」

「それだけか?」

「……」

「エリナ?」

「それだけじゃないかもしれない」

 

 言った後で、少し驚いた。

 自分でも、そう言うつもりはなかった。

 でも、言葉が出てしまった。

 マリオが、ゆっくりと顔を戻してエリナを見た。珍しく、にやにやしていない顔だった。

 

「そっか」

「……うん」

「それで十分だ。今は、それだけわかってれば十分だよ」

「十分なの?」

「十分。お前は何でも答えを出そうとしすぎる。でも、これは答えを急ぐやつじゃないと思う」

 

 エリナはマリオを見た。

 七歳から一緒にいる幼馴染。お人好しで、無茶な計画に付き合わされてばかりで、でも律儀で、まっすぐな目をしている。

 

「マリオ」

「なに」

「あなたは、賢い」

 

 マリオが一瞬、呆気に取られた顔をした。

 それからケラケラと笑った。

 

「初めて言われた、それ」

「本当のことだから言った」

「うれしいけど、なんか負けた気がする」

「何に負けたの」

「わからん」

 

 マリオが笑いながら事務室を出ていった。

 エリナは一人、机の前に残った。


 それだけじゃないかもしれない。

 自分で言った言葉を、もう一度頭の中で転がした。

 信頼できる。余計なことを言わない。約束を守る。

 それだけじゃない、部分は、何か。

 うまく言葉にできない。

 でも、マリオが言った通り、今は答えを急がなくていいのかもしれない。

 答えを急がない、というのは、エリナにとって難しいことだ。

 何でも整理して、言語化して、次の行動に落とし込む。それがエリナのやり方だった。前世でも今世でも。

 

 でも、整理できないことがある。

 言語化できないことがある。

 それでも、あることは確かだ。

 

 レインが言っていた言葉が、また頭に浮かんだ。

 言葉にできないことは、無理に言葉にしなくていい。ただ、あることは確かだ。

 エリナはペンを取って、フィオナへの返事を書いた。

 報告書の内容への返答を書き、データまとめの件を報告した。

 最後に一行。

 

『飴は甘かった。追伸の質問には、今日は答えない。』

 

 書いてから、少しだけ口の端が動いた。

 フィオナが読んだら、きっと「やっぱり」と言う。

 それでいい。


 夜が深くなった。

 エリナは机の引き出しを開けた。

 フィオナからの手紙と、レインからの手紙が、並んで入っている。

 今日届いたレインの手紙を、引き出しにしまった。

 閉める前に、少しだけ見た。

 

 『今日は何日だ』

 

 なぜ聞いたのか、理由をレインはまだ答えていない。

 次の手紙で教えてくれるかもしれない。

 教えてくれないかもしれない。

 どちらでも、構わない。

 気になるのは本当のことだが、それを急ぐ必要はない。

 引き出しを閉めた。

 

 窓の外から、夜風が入ってきた。

 ルシェムの空に、今夜は星が出ていた。

 八歳の最初の夜。

 蜂蜜のパンと、王都の飴と、マリオの笑い声と、レインの手紙と。

 誕生日としては、悪くなかった。

 いや。

 エリナは少しだけ、自分に正直になった。

 悪くなかった、ではない。

 良かった。

 素直にそう思った。

 ランプを吹き消した。

 

 エリナ・アッシュフォード、今日から八歳。

 

 父の言葉を知った翌日に、誕生日が来た。

 

 『この子は、私よりうまくやる』

 

 まだ、その言葉に応えられているかどうかわからない。

 でも、今日一日は、悪くなかった。

 それで十分だ。

 おやすみ、お父さん。

 心の中だけで、そう呟いた。

 返事はない。

 でも、どこかで聞いていると、今夜だけは、思うことにした。

読んでいただきありがとうございます。

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