24話 セレーナの語る人
橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。
朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。
「お母さん」
「大丈夫よ」
「大丈夫には見えない」
「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」
エリナはセレーナの額に手を当てた。
熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。
「今日は寝ていて」
「でも縫製の仕事が——」
「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」
セレーナが少し笑った。
「あなたに言われると、反論できない」
「反論しなくていい。寝ていて」
エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。
「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」
「大袈裟よ」
「大袈裟じゃない」
エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。
ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。
マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。
役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。
セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。
昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。
目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。
「ごめんなさい、心配させて」
「謝らなくていい」
「でも」
「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけの話じゃない」
セレーナが少しだけ目を細めた。
「あなたって、本当に——」
「何?」
「お父さんに似てる」
エリナは少し止まった。
ダリウスも同じことを言った。アルバも言った。
「似てますか?」
「似てる」
セレーナが静かに言った。
「言葉の選び方が。論理を積み上げて、でも人を見ていないわけじゃない。そういうところが」
エリナはそれに、何も言わなかった。
しばらく沈黙があった。
窓から午後の光が差し込んでいる。ルシェムの空は、今日は晴れていた。
「お母さん」
「うん」
「父のことを、聞いてもいいですか」
セレーナが少しだけ、目を動かした。
「いつでも聞いてよかったのよ」
「聞きにくかった。お母さんが、父の話をする時、いつも少し顔が変わるから」
「変わる?」
「悲しいのか、懐かしいのか、怒っているのか、そのどれでもないような顔になる」
セレーナがしばらく黙った。
「全部よ」
セレーナがゆっくり言った。
「悲しくて、懐かしくて、少し怒っていて、でも愛しくて。全部が一度に来るから、顔がどうなるかわからなくなる」
セレーナは、少しずつ話した。
布団の中で、天井を見上げながら、言葉を選ぶように。
「あなたのお父さんは、頭がよくて、真面目で、でも不器用な人だった」
「不器用?」
「正しいことを、正しいまま言おうとする人でね」
セレーナが少し笑った。
「宮廷では、それが難しい。正しいことでも、言い方を変えないと伝わらない場所があるでしょう。お父さんは、その言い方を変えることが、あまり得意じゃなかった」
「それで、反発を買った?」
「最初は、そうだった。でも、内容が良かったから、少しずつ聞いてくれる人が増えていった」
セレーナの目が、少し遠くなった。
「あの頃は、本当に良くなっていくと思っていた」
「それが、クロヴェルに——」
「潰された」
セレーナの声が、わずかに変わった。
「証拠を捏造されて。信じてくれる人がいなかったわけじゃないけど、声を上げてくれる人は少なかった。そういうものよ、力がある場所では」
エリナは黙って聞いた。
「陛下も、助けてくれると思っていた。でも、大貴族の圧力が強すぎた。陛下も、悔しかったと思う。でも、動けなかった」
「今の陛下は、動いてくれている」
「知ってる。アルバ殿下が通達を出してくれた話も、フィオナちゃんから聞こえてきた。あなたたちが動いてるの、わかってる」
しばらく沈黙があった。
「お父さんは……私のことを、知っていましたか」
「知っていたわ」
セレーナが少し顔を向けた。
「失脚した後、裁判を経て、平民として釈放された。でも、もう体が——」
「どのくらい生きましたか?」
「あなたが三歳になった頃に、亡くなった」
エリナは、その言葉を受け取った。
三歳。
この世界の言語を習得して、少しずつ周囲を把握し始めた頃。父はその時、すでにいなかった。
「会っていましたか。私と父が」
「一度だけ。あなたが一歳を過ぎた頃。父が病室に来てね。あなたを抱いた」
エリナは、その光景を想像した。
赤ちゃんの頃の自分の視界は、ぼんやりしていた。でも、抱いてくれた人の腕の温度は、どこかに残っているかもしれない。
「何か言っていましたか?」
「言っていたわ」
セレーナが少し間を置いた。
「『この子は、私よりうまくやる』って」
エリナの喉の奥が、少しだけ詰まった。
「それだけですか」
「それだけ言って、あとはずっと黙ってあなたを見ていた」
沈黙があった。
長い沈黙だったが、不快ではなかった。
エリナはセレーナの布団の端に座ったまま、窓の外を見ていた。
この子は、私よりうまくやる。
その言葉を、頭の中で何度か繰り返した。
自分がどれだけ「前世の知識」を持っていても、この世界に生まれた一歳の赤ちゃんを見て、父はその言葉を言った。
知識がそこにあるとは、知らなかったはずだ。
それでも、そう言った。
「お父さんは」
エリナがゆっくり口を開いた。
「なぜそう思ったのでしょう」
「わからない。でも、あの人は人を見る目があった。何かを感じたのかもしれない」
「何を?」
「さあ」
セレーナが少しだけ笑った。
「でも、間違いじゃなかったでしょう?」
エリナは答えなかった。
答えられなかった、というのが正確かもしれない。
うまくやれているか、父に見せられているか、まだわからない。
でも、父の言葉が間違いでなかったと言えるように、これからもやっていく。
それだけは、確かだと思った。
「お父さんの、改革案の話を聞かせてもらえますか?」
しばらくしてから、エリナが言った。
「詳しいことは、私も全部は知らないけど。あなたのお父さんは、『魔法に頼りきらない国を作る』ということを、ずっと考えていた。軍の中に、魔法を使わない戦術を専門とする部隊を作る。税制を見直して、魔法師だけが優遇される仕組みを変える。省庁の権限のバランスを取り直す」
「父が失脚した後、その案はどうなりましたか」
「消えたわ。正式な記録から。誰かが賛成していた痕跡も、消えた」
「消された、ということですか」
「そうだと思う」
エリナは、その言葉の重さを受け取った。
記録から消された案。それを、今、自分は数字と現場の実績で再び証明しようとしている。
「私がやっていることは、父の案の続きではない。でも、同じものを見ている」
「同じもの?」
「魔法がなくても、人が助かる仕組み。それが作れるという証拠を、私は集めている」
セレーナがエリナを見た。
その目が、少し潤んでいた。
「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」
「さあ」
エリナが少しだけ口の端を動かした。
「『私よりうまくやっている』と言うか、『まだ足りない』と言うか」
「どっちだと思う?」
「どちらでもいい」
「どちらでも?」
「どちらを言われても、やることは変わらない」
セレーナが、静かに笑った。
「やっぱり、あなたはお父さんに似てる」
「よく言われる」
「誰に?」
「ダリウスに。アルバ殿下に。お母さんに」
「みんな、同じことを感じてるのね」
エリナはそれに何も言わなかった。
窓の外から、夕方の風が入ってきた。
夕方、セレーナの熱は完全に下がった。
薬草茶をもう一杯飲んで、顔色が戻ってきた。
「明日から、仕事に戻れる」
「明日は、まだ休んでいい」
「大丈夫よ。もともと丈夫な体だから」
「じゃあ、半日だけ」
「半日?」
「午前は休んで、午後から少しだけ。それが折り合い」
セレーナが笑った。
「交渉するのね、こんなことまで」
「合理的な落とし所を見つけるだけ」
「そういうところが——」
「父に似てる、でしょう」
「わかってるじゃない」
夜、エリナは事務室で一人、机に向かった。
今日、父のことを初めてまとまって聞いた。
不器用な人。正しいことを正しいまま言おうとした人。一歳の娘を抱いて、「この子は私よりうまくやる」と言った人。
セレーナを通じて、少しだけ輪郭を持った人物になった気がした。
前世の自分には、父親と呼べる人間がいなかった。
正確には、いたのだろうが、記憶の中には薄い存在だった。仕事で忙しく、家にいない人だった。
この世界の父は、エリナが物心つく前にいなくなった。
でも、「この子は私よりうまくやる」という言葉を残してくれた。
それが、今のエリナには、思っていたより重く響いていた。
エリナはペンを取って、レインへの手紙を書いた。
学院の採用についての礼、流通再開の報告。
最後に一段落、付け加えた。
『今日、母から父の話を聞いた。父が私を抱いた時に言った言葉を、初めて知った。うまく言葉にできないが、書いておきたくなった。「この子は、私よりうまくやる」と言ったらしい。まだその言葉に応えられているかどうか、わからない。でも、やめるつもりはない。』
書いてから、少しだけ見つめた。
なぜレインに書いたのか、自分でもよくわからなかった。
フィオナに書いてもよかった。ゴードンに話してもよかった。
でも、今夜はレインに書きたかった。
理由は、うまく言葉にできない。
消さなかった。
封をして、机の端に置いた。
窓の外から、夜風が入ってきた。
母の部屋から、かすかに寝息が聞こえた。
熱は下がっている。
今日は父の話を聞いた。
父が一度だけ、自分を抱いてくれた。
その事実を、今夜初めて、本当の意味で受け取った気がした。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
父の言葉を、今夜初めて聞いた。
この子は、私よりうまくやる。
まだ、その言葉に応えられているかどうかわからない。
でも、明日もまた、やってみる。
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