23話 橋が開く日
流通が止まってから五日が経った。
その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。
迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。
ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。
「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」
七割という数字を、正確に記録した。
困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。
ただ、事実を、正確に。
「これが大事なんですか」
マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。
「王宮への記録に残す、ということが?」
「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」
「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」
「わかる人間には、わかります」
マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。
「賢いな」
「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」
五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。
いつもより分厚かった。
エリナへ
動いた。結果から書く。
明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。
裏で何があったか。
アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。
同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる商人の一人に話を通した。「局長が早期に検問を解除すれば、三年前の件について誰も掘り返さない」という意味のことを、間接的に伝えた。直接言っていない。ただ、そういう空気を作った。
局長が引き下がれる理由が、二つ揃った。殿下の意向という「前向きな理由」と、過去の件という「後ろ向きな理由」。どちらかだけでは足りなかったかもしれないけど、両方揃えば動く。
ゴードンさんが言っていたタイミングを合わせるというのは、正しかった。
一つだけ注意。今回の解決は「解決」ではなく「一時的な後退」だと思っておいて。クロヴェルは次の手を考えている。橋が開いたからといって、緊張を緩めないこと。
それと、レインへの手紙に「言葉にできない」と書いたでしょう。彼から返事が来た?
――フィオナ――
エリナは手紙を読み終えて、フィオナの仕事の精度に改めて感心した。
殿下の非公式通達と、局長の過去の件。
どちらも「正面からの圧力」ではない。相手が自分で判断して引き下がれる形を作った。
これは、自分一人ではできなかった。
フィオナが王都にいるからできた。
最後の一行は、意図的に無視した。
返事はまだ来ていない。それだけだ。
翌朝。
マリオが橋の方へ確認に行き、昼前に戻ってきた。
「開いてた。役人もいない。普通に通れた」
「業者には連絡が行きましたか?」
とエリナが聞く。
「もう行った。午後には通常の荷物が出せる」
とゴードンが答えた。
「ヴァロウのマグダさんに連絡を」
「送りました。マグダさんからは『やっと来た、待ってたよ』と返事が来ました」
マリオが笑った。
「らしいな」
エリナは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
橋が開いた。
五日間、止まらなかった。
その事実を、頭の中で一度だけ確認した。
午後、エリナはフィオナとアルバ殿下それぞれへの礼状を書いた。
フィオナへは、普通の報告と礼を書いた後、最後に一行。
『返事はまだ来ていない。それだけのことだ。』
書いてから、少しだけ止まった。
「それだけのことだ」を使う回数が、最近また増えている。
自分が言い聞かせたい時に使う言葉だと、エリナは知っていた。
でも、消さなかった。
アルバへの礼状は、簡潔に書いた。
『このたびのご配慮に深く感謝申し上げます。今後も一年の任を全うすべく、努力いたします。』
ゴードンに確認してもらうと、「丁寧さと簡潔さのバランスが良い」と言われた。
夕方になって、マリオが事務室に入ってきた。
「なあ、エリナ」
「何」
「五日間、よく動いたな」
「みんなが動いてくれた」
「お前が方向を決めたからだろ」
エリナは返事をしなかった。
マリオが少し間を置いて続けた。
「俺、思ったんだけど」
「何を?」
「お前って、うまくいった時に喜ばないよな」
「喜んでいる」
「全然そう見えない」
「……顔に出ないだけ」
「それって損じゃないか?」
エリナは少しだけ考えた。
「損、かもしれない。でも、喜びすぎると次の油断につながる。フィオナも言っていた。今回の解決は一時的な後退だと」
「それはそうだけど」
マリオが頬を搔いた。
「そういうことじゃなくて!」
「そういうことじゃないとは」
「お前が喜んでるところを見たいんだよ、俺は」
エリナは少し止まった。
マリオの顔を見た。
照れているわけでも、何かを期待しているわけでもない。ただ、本当のことを言っている顔だった。
「……後で」
「後で?」
「全部が終わって、一年の任を果たした時に。その時は、ちゃんと喜ぶ」
「待てるかな、そんなに」
「待っていなくていい。でも、もし覚えていたら、見ていてほしい」
マリオがしばらくエリナを見て、それから少し笑った。
「覚えとく」
「うん」
その夜、遅くなってからレインの返事が届いた。
封を開けると、短い手紙だった。
エリナへ
流通が止まったと聞いた。すでに動いていると思って、こちらからは余計なことをしなかった。判断が正しかったようで、安心した。
学院の状況。石鹸と消毒液の正式採用が、先週決定した。医療棟での使用が公式に認められた。一部の魔法師から反発があったが、師匠が数字を持って対応してくれた。
『言葉にできない』という一行について。
俺も、同じことを感じることがある。
なぜルシェムに向かうのかを説明しようとすると、「報告のため」「情報交換のため」という言葉が出てくる。それは嘘ではない。でも、それだけでもない。
言葉にできないことは、無理に言葉にしなくていいと思っている。ただ、あることは確かだ。
一年後の約束を、覚えている。
――レイン――
エリナは手紙を、二度読んだ。
学院での正式採用。師匠が数字で対応した。それは、大きな一歩だ。
そちらを先に処理しようとして——できなかった。
『言葉にできないことは、無理に言葉にしなくていい』
その一文が、頭の中で静かに止まっていた。
言葉にしなくていい、と言われると、かえって言葉が来そうになる。
妙な感覚だった。
前世でも今世でも、エリナは言葉にできないことを「言葉にできない」と認めることが少なかった。言葉にならないなら、まだ整理が足りないのだと思っていた。整理すれば、必ず言葉になる。
でも、レインの手紙を読んで、初めてそれが違うかもしれないと思った。
整理しても言葉にならないものが、ある。
それでも、あることは確かだ。
エリナは手紙をたたんで、机の引き出しに入れた。
フィオナへの手紙と、レインへの手紙を、同じ引き出しにしまっている。
いつからそうなったか、気づいていなかった。
翌朝、橋を通った最初の荷物がヴァロウに届いた。
マグダから短い使いが来た。
「石鹸、ちゃんと届いた。みんなが待ってた」
それだけだった。
エリナはその言葉を、ゴードンに読み上げた。
ゴードンが静かに頷いた。
「記録しておきましょう」
「はい」
「『五日間の供給制限を経て、通常供給が再開した。代替ルートによる継続供給により、医療的効果を持つ商品の供給は途絶えなかった』」
「それで」
エリナは帳簿に向かいながら、自分でも少し驚いた。
ゴードンが言った言葉が、単なる記録以上に聞こえた。
五日間、途絶えなかった。
その事実が、今になって少しだけ、重く響いた。
昼過ぎ、マリオが作業場から顔を出した。
「なあ、今日は少し早く上がっていいか。父ちゃんと話があって」
「もちろん。今日はもう主要な作業は終わっている」
「そうか」
マリオが少し安心した顔をした。
「あと、ルナが猫を二匹連れてきて、作業場が大変なことになってるから、見に行ってやって」
「なぜ作業場に猫を」
「本人曰く、ネズミ対策らしい」
「……それは確かに合理的かもしれない」
「お前まで肯定するのか」
マリオが呆れながら出ていった。
エリナは作業場を覗いた。
薬草の仕分けをするルナの膝の上に猫が一匹、棚の上に一匹、入り口の段差に一匹。
「マリオが言うより一匹多い」
「一匹、増えた」
ルナが平坦な声で言った。
「いつの間に」
「さっき」
「どこから」
「知らない。来た」
エリナは三匹の猫を順に見て、少しだけ息を吐いた。
「……作業の邪魔にならないなら、いい」
「邪魔にならない」
「棚の上の猫は、薬草に触れないように」
「言ってある」
「猫に言ったの?」
「うん」
エリナはルナの顔を見た。
まったく普通の顔をしている。
この子は本当に動物と通じているのかもしれない、とエリナは真剣に思った。
夕方、セレーナが強化した袋を持ってきた。
「五十個、できた」
「三日で?」
「夜も少しやった」
「無理をさせた」
「無理じゃない。やることがあった方が、気持ちが落ち着く」
セレーナが袋を並べた。
均一な縫い目、丈夫な素材、荷物が揺れても開かない構造。
「素晴らしい出来です」
ゴードンが確認しながら言った。
「これなら迂回路でも安心できます」
「まだ使うの?」
セレーナが聞いた。
「念のため、継続します」
エリナが答えた。
「橋が開いても、いつまた何があるかわからない。ベルトさんには引き続きお願いしておく」
「用心深いわね」
「フィオナに言われた。一時的な後退だと」
「フィオナちゃんも、大変な思いをしているのね」
「王都で一人で動いてくれています」
セレーナが少しだけ目を細めた。
「あなたの周りには、いい人が集まってくるのね」
「私が集めたわけじゃない」
「でも、あなたのところに来た」
エリナはそれに、何も言わなかった。
でも、母の言葉が少し、胸の奥に沈んだ。
その夜、エリナは一年計画の進捗を確認した。
現在、王都へ報告できる数字は確実に積み上がっている。
ルシェムとベルナでの供給継続。ヴァロウ、トレネ、キーシュへの展開開始。学院での正式採用。五日間の流通停止を、代替ルートで乗り越えた実績。
残り七ヶ月。
一年の任の中で、今は最初の山を一つ越えたところだ。
次の山がどこにあるかは、まだ見えていない。
だが、越えてきた山を振り返れば、毎回「一人では越えられなかった」と思う。
マリオが道を確認した。グレンが荷物を運んだ。ルナが現地調合を考えた。ゴードンが数字を記録した。セレーナが袋を縫った。フィオナが王都で動いた。アルバが通達を出した。レインが学院で採用を進めた。
自分がやったことは、方向を決めることだけだった。
いや、それだけではない。
でも、方向を決めることが自分の役割だとしたら——それを果たせているだろうか。
エリナはペンを持って、一行だけ書いた。
「一年後、何を持って王宮に立つか」
まだ答えは出ない。
でも、問いを持っていることが大事だとエリナは思っていた。
答えは、これから七ヶ月で作る。
机の端に、レインの手紙が置いてある。
引き出しにしまおうとして、しなかった。
今夜は、そのままにしておこうと思った。
理由は、うまく言葉にできない。
でも、あることは確かだ。
ランプを吹き消した。
ルシェムの夜は、今日も静かだった。
橋は、開いている。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
五日間、商会は止まらなかった。
それで今夜は、十分だ。
読んでいただきありがとうございます。
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