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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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20/37

20話 レインが来た日、石鹸が燃えた

 レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。

 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。

 

「来てるぞ」

「誰が?」

「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」

「どういう顔」

「なんか、急に背筋が伸びる顔」

 

 エリナは手を止めた。

 

「何を言っているの」

「俺もよくわからん」

 

 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。

 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。

 長屋の前に、レインが立っていた。

 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。

 

「来た」

「来た」

 

 お互いに同じ言葉を言った。

 少し間があって、エリナが続けた。

 

「手紙じゃなくて、本人が来たの」

「その方が早い、と判断した」

「学院の用件も兼ねて?」

「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」

「名目、と言った」

「名目だけが理由ではないからだ」

 

 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。

 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。

 でも、来てくれたのは、素直に良かった。


 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。

 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。

 

「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。

「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。

 

「魔法の影響か?」

「わからない。でも、昔から」

 

 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベルに書かれた文字と効能を読んで、また戻す。

 

「分類が、前より細かくなっている」

「ルナが増やしてくれた」


 エリナが答えた。


「私が知らない種類が、いくつかある」

「ここに来ている薬草の産地は?」

「近隣の野原と、トレネ近くの林。シェナという人が定期的に届けてくれている」

「シェナ?」

「新しい現場責任者の一人。薬草の知識が深い」

 

 レインが頷いて、次の棚に目を移した。観察しながら、ときどき短い質問を挟む。無駄な感嘆も、誇張した驚きもない。ただ、見るべきものをきちんと見ている。

 その目が、エリナは好きだった。

 前世でエンジニアをしていた頃、こういう目をした同僚がいた。感情で評価せず、でも対象を軽んじることもない。ただ、正確に見る。

 似ている、とは思わない。でも、居心地がいい理由の一つは、そこにある気がした。


 昼食の後、エリナとレインは事務室で向かい合った。

 ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけていた。マリオは荷物の整理。ルナは薬草の乾燥作業。母のセレーナは縫製の仕事。

 事務室に、二人きりだった。

 

「学院の話を聞かせて」


 エリナが切り出した。

 

「変化がある」


 レインが答えた。


「石鹸と消毒液を正式採用する方向で、医療棟の責任者が動き始めた」

「クロヴェル派の妨害は?」

「学院内部への直接介入はまだない。ただ、外から圧力をかけようとしている気配はある」

「どういう形で?」

「学院への資金援助をしている貴族の一部が、『魔法省の意向に反する研究には資金を出しにくい』という話をしたと聞いた」

「資金を盾にした牽制。クロヴェルの得意な手だ」

「ただ」


 レインが続けた。


「その貴族たちが出している資金は、全体の三割程度だ。残り七割は王家からの下賜と、学院の独自財源でまかなっている」

「三割を人質にしても、学院全体は動かせない」

「そういうことだ。だから今は、牽制の段階で止まっている」

 

 エリナは頭の中で計算した。

 三割という数字は、無視できる規模ではない。でも、致命傷でもない。クロヴェルが今、その手を使ったということは、より直接的な手段をまだ持っていないか、あるいは温存している、どちらかだ。

 

「レインの師匠は、どう動いている?」

「王宮の魔法師団長と定期的に連絡を取っている。陛下へ定期報告を上げる際に、学院での実績データを添付するよう調整してくれた」

「つまり、国王に定期的に数字が届く仕組みができた」

「そうだ。今のところ、陛下の関心は続いている」

 

 エリナは、小さく息を吐いた。

 一年という期限の中で、国王の関心を維持し続けることが、最も大事な条件の一つだ。数字が定期的に届く仕組みができたなら、それは大きな一歩だった。

 

「ありがとう」

「礼はまだ早い」


 レインが静かに言った。


「こちらの話は以上だ。今度はお前の話を聞かせてくれ」


 エリナは、グレンへの調査から始まり、フィオナの報告、流通ルートの備え、現場責任者三人の状況まで、順を追って話した。

 レインは黙って聞いていた。

 話が終わると、少し間を置いてから言った。

 

「ルシェムへの直接調査が入ったなら、次は商品そのものへの介入を試みる可能性がある」

「商品そのもの?」

「品質に問題がある、という虚偽の報告を流すか、あるいは実際に品質を下げる何かを仕掛けてくるか」

 

 エリナの背筋が、わずかに固くなった。

 

「品質を下げる、というのは——」

「生産の過程に干渉する。材料の供給を断つ。あるいは、より直接的な方法」

「直接的な方法」

「今夜」


 レインが少し声を落とした。


「作業場の周りを、一度確認した方がいい」

「なぜ今夜」

「直感だ。根拠はない」

 

 エリナはレインの目を見た。

 直感、と言った。この人が直感という言葉を使うのは珍しい。それだけ、何か感じるものがあるということだ。

 

「マリオに伝える」

「俺も確認する」


 夜になった。

 ルシェムの町は、いつもの静かさに包まれていた。

 エリナは母に「少し見回りをする」と告げて、外に出た。レインとマリオが、すでに作業場の周りを分担して確認していた。

 

 空は曇っていた。

 月明かりがない分、路地が暗い。

 

 エリナが作業場の裏手に回ったとき、鼻に何かが引っかかった。

 油の匂い。

 それも、獣脂の匂いではない。もっと刺激的な、燃えやすい種類の油の匂いだった。

 

「レイン」

 

 声は出さずに、口の形だけで呼んだ。

 レインが素早く来た。エリナが地面を指差した。

 作業場の壁の根元に、油がしみ込んだような痕がある。広い範囲ではない。でも、もし火をつけられていたら。

 

「まだ火はついていない」


 レインが低く言った。


「最近、ここに来た者がいる」

 

 マリオが角から現れた。

 

「どうした?」とマリオが言いかけて、地面の痕を見て黙った。

 

「見張りは?」

「グレンさんが頼める」


 エリナが即答した。


「あと、ハンスさんに明日朝一番で話す。作業場の外に、もう一枚板を張り直す必要がある」

「今夜は、誰かが起きている方がいい。俺が最初の番をする」

 

「俺が代わる」


 レインが言った。

 

「王都から来た人間に番をさせるのか」

「俺の方が感知できる範囲が広い」

「……魔法か」

「使わなくても、気配を読む訓練はしてある」

 

 マリオがしばらくレインを見た。それから、小さく頷いた。

 

「わかった。じゃあ俺が前半、レインが後半」

「決まった」


 エリナが言った。

 

「お前はどうするんだ」

「中から、記録を整理する。状況をゴードンさんとフィオナに報告する文書を今夜中に書く」

「眠らないのか」

「後で眠る」

「後でって、いつだよ」

「夜明け前には眠る」

「それで足りるのか」

「足りなければ、日中に少し休む。効率の問題だから」

 

 マリオが呆れた顔をした。

 レインは何も言わなかった。

 でも、エリナが中に入ろうとした時、小さく声をかけてきた。

 

「エリナ」

「何」

「無理をするな、とは言わない」

「言わないの?」

「言っても聞かないとわかっているから」

 

 エリナは少しだけ止まった。

 

「でも、今夜、外の番は俺たちがやる。中の仕事はお前がやる。それで十分だ。全部一人でやろうとするな」

 

 その言い方が、命令でも心配でもなく、ただ事実を並べた言い方だったので、エリナは素直に頷けた。

 

「わかった」


 夜中の二時頃。

 マリオから交代したレインが、作業場の陰で静かに周囲を見張っていた頃。

 エリナは事務室の机で、フィオナへの報告書を書き終えた。

 油の痕のこと。今夜の見張りのこと。今後の対策。そして、レインが来ていること。

 最後の一行は、報告書には書かなかった。

 別の紙に、短く書いた。

 

『レインが来ている。直感で、今夜の異変を察知してくれた。助かった。』

 

 それだけ書いて、封をした。

 フィオナが読んだら、何か言うだろう。

 きっと、意味ありげな顔をして、余計な一言を添えてくる。

 エリナはそれを想像して、少しだけ口の端が動いた。


 夜が明けた。

 幸い、それ以上の異変はなかった。

 朝になってから確認すると、油の痕の近くに、小さな布切れが落ちていた。

 使いかけの蝋燭に使うような、粗い麻布だった。

 火をつけようとして、何らかの理由で中断したのか。

 あるいは、今夜は「様子見」だったのか。

 エリナはその布切れを、小さな袋に入れてしまった。証拠として持っておく。

 

「ハンスさんに話してくる」


 マリオが言った。

 

「一緒に行く」


 エリナが答えた。

 

「俺は?」


 レインが聞いた。

 

「グレンさんのところに、昨夜のことを伝えてほしい。見たことと、作業場の周りに見知らぬ人間が来た場合はすぐに教えてほしいと」

「わかった」

 

 三人が、それぞれの方向に動いた。

 ルナが作業場の戸口に立って、三人の後ろ姿を見ていた。

 猫が二匹、彼女の足元に座っている。

 エリナが振り返ると、ルナが無言で小さく手を振った。

 いつもの、無口な激励。


 ハンスは話を聞き、黙って腕を組んだ。

 長い沈黙の後、立ち上がった。

 

「外壁の板は、今日中に張り直す。窓の位置も、一つ塞ぐ」

「費用は——」

「払いは後でいい」

「ハンスさん」

「お前が約束を守る奴だと知ってる。それだけで十分だ」

 

 同じ言葉だった。

 最初に木の容器を頼んだ時と、同じ言葉。

 エリナは深く頭を下げた。

 言葉が、うまく出なかった。

 それで十分だと、ハンスも知っていた。


 その夜。

 作業場の外壁が補修され、グレンが見張りに立ってくれることになり、ジルカへの輸送代替ルートの確認が完了した。

 ゴードンが報告書をまとめ、フィオナへの手紙に同封した。

 レインは翌朝に学院へ戻ると言った。

 夕食の後、エリナとレインは作業場の前に並んで立った。

 修復された外壁が、夜の中に白く浮かんでいる。

 

「燃やされなくて、よかった」

「ああ」

「レインが来てくれていなかったら、気づくのが遅れていたかもしれない」

「かもしれない、だ。お前も気づいた可能性はある」

「でも、今夜は早く気づけた」

 

 レインが少し黙った。

 

「直感、と言ったが……」


 レインがゆっくり言った。


「正確には、お前の手紙を読んでから、ずっと引っかかっていたんだ」

「何が?」

「クロヴェルが調査を入れた、という話。調査の次に来るのは何かを考えていた。流通への介入か、情報操作か、直接的な妨害か。その中で、最も素早くできるのは最後の手段だと思った」

「それで、来ることにした?」

「それもある」


 レインが少しだけ間を置いた。


「それだけでは、ない」

 

 エリナは、レインの顔を見た。

 横顔は、いつも通り無表情に近い。

 でも、その『それだけでは、ない』という言葉が、少しだけ宙に浮いたまま、回収されなかった。

 

 エリナは、その言葉の続きを問わなかった。

 問わなかったのは、答えが怖かったからではない。

 今夜は、この言葉がここにあるだけで、十分だと思ったから。

 それだけのことだ——と、心の中で呟いた。

 でも今夜は、その『それだけのことだ』が、いつもより少し薄かった。


 翌朝、レインが出発した。

 長屋の前で、短い別れだった。

 

「一年後」とレインが言った。

「一年後」とエリナが返した。

 

「約束は、覚えている」

「私も」

 

 レインが歩き出した。

 マリオが横に立って、また何か言いたそうな顔をしていた。

 エリナは黙って、レインの背中が路地の角を曲がるのを見ていた。

 今回は、少し長く見ていた。

 それに気づいて、視線を戻した。

 

「何か言った?」

「言ってない」


 マリオが慌てて首を振った。

 

「言いたそうな顔をしてた」

「してない」

「してた」

「……エリナって、本当に変なところだけ鋭いよな」

 

 マリオがぼそりと言った。

 エリナは答えなかった。

 作業場の方へ歩きながら、頭の中で今日のやることを並べ始めた。

 在庫確認。ヴァロウのマグダへの発送。ゴードンとの帳簿の照合。フィオナへの返事。

 やることは、いつも通り山ほどある。

 それが、今は少しだけ、ありがたかった。

 動き続ければ、余分なことを考えなくて済む。

 

 エリナ・アッシュフォード、七歳。

 

 作業場の壁は、今日も白かった。

 燃えなかった。

 それで、十分だ。

読んでいただきありがとうございます。

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