20話 レインが来た日、石鹸が燃えた
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。
手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。
「来てるぞ」
「誰が?」
「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」
「どういう顔」
「なんか、急に背筋が伸びる顔」
エリナは手を止めた。
「何を言っているの」
「俺もよくわからん」
マリオがにやにやしながら引っ込んだ。
エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。
長屋の前に、レインが立っていた。
旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。
「来た」
「来た」
お互いに同じ言葉を言った。
少し間があって、エリナが続けた。
「手紙じゃなくて、本人が来たの」
「その方が早い、と判断した」
「学院の用件も兼ねて?」
「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」
「名目、と言った」
「名目だけが理由ではないからだ」
エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。
表情には出さなかった。出すつもりもなかった。
でも、来てくれたのは、素直に良かった。
午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。
改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。
「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。
「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。
「魔法の影響か?」
「わからない。でも、昔から」
レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベルに書かれた文字と効能を読んで、また戻す。
「分類が、前より細かくなっている」
「ルナが増やしてくれた」
エリナが答えた。
「私が知らない種類が、いくつかある」
「ここに来ている薬草の産地は?」
「近隣の野原と、トレネ近くの林。シェナという人が定期的に届けてくれている」
「シェナ?」
「新しい現場責任者の一人。薬草の知識が深い」
レインが頷いて、次の棚に目を移した。観察しながら、ときどき短い質問を挟む。無駄な感嘆も、誇張した驚きもない。ただ、見るべきものをきちんと見ている。
その目が、エリナは好きだった。
前世でエンジニアをしていた頃、こういう目をした同僚がいた。感情で評価せず、でも対象を軽んじることもない。ただ、正確に見る。
似ている、とは思わない。でも、居心地がいい理由の一つは、そこにある気がした。
昼食の後、エリナとレインは事務室で向かい合った。
ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけていた。マリオは荷物の整理。ルナは薬草の乾燥作業。母のセレーナは縫製の仕事。
事務室に、二人きりだった。
「学院の話を聞かせて」
エリナが切り出した。
「変化がある」
レインが答えた。
「石鹸と消毒液を正式採用する方向で、医療棟の責任者が動き始めた」
「クロヴェル派の妨害は?」
「学院内部への直接介入はまだない。ただ、外から圧力をかけようとしている気配はある」
「どういう形で?」
「学院への資金援助をしている貴族の一部が、『魔法省の意向に反する研究には資金を出しにくい』という話をしたと聞いた」
「資金を盾にした牽制。クロヴェルの得意な手だ」
「ただ」
レインが続けた。
「その貴族たちが出している資金は、全体の三割程度だ。残り七割は王家からの下賜と、学院の独自財源でまかなっている」
「三割を人質にしても、学院全体は動かせない」
「そういうことだ。だから今は、牽制の段階で止まっている」
エリナは頭の中で計算した。
三割という数字は、無視できる規模ではない。でも、致命傷でもない。クロヴェルが今、その手を使ったということは、より直接的な手段をまだ持っていないか、あるいは温存している、どちらかだ。
「レインの師匠は、どう動いている?」
「王宮の魔法師団長と定期的に連絡を取っている。陛下へ定期報告を上げる際に、学院での実績データを添付するよう調整してくれた」
「つまり、国王に定期的に数字が届く仕組みができた」
「そうだ。今のところ、陛下の関心は続いている」
エリナは、小さく息を吐いた。
一年という期限の中で、国王の関心を維持し続けることが、最も大事な条件の一つだ。数字が定期的に届く仕組みができたなら、それは大きな一歩だった。
「ありがとう」
「礼はまだ早い」
レインが静かに言った。
「こちらの話は以上だ。今度はお前の話を聞かせてくれ」
エリナは、グレンへの調査から始まり、フィオナの報告、流通ルートの備え、現場責任者三人の状況まで、順を追って話した。
レインは黙って聞いていた。
話が終わると、少し間を置いてから言った。
「ルシェムへの直接調査が入ったなら、次は商品そのものへの介入を試みる可能性がある」
「商品そのもの?」
「品質に問題がある、という虚偽の報告を流すか、あるいは実際に品質を下げる何かを仕掛けてくるか」
エリナの背筋が、わずかに固くなった。
「品質を下げる、というのは——」
「生産の過程に干渉する。材料の供給を断つ。あるいは、より直接的な方法」
「直接的な方法」
「今夜」
レインが少し声を落とした。
「作業場の周りを、一度確認した方がいい」
「なぜ今夜」
「直感だ。根拠はない」
エリナはレインの目を見た。
直感、と言った。この人が直感という言葉を使うのは珍しい。それだけ、何か感じるものがあるということだ。
「マリオに伝える」
「俺も確認する」
夜になった。
ルシェムの町は、いつもの静かさに包まれていた。
エリナは母に「少し見回りをする」と告げて、外に出た。レインとマリオが、すでに作業場の周りを分担して確認していた。
空は曇っていた。
月明かりがない分、路地が暗い。
エリナが作業場の裏手に回ったとき、鼻に何かが引っかかった。
油の匂い。
それも、獣脂の匂いではない。もっと刺激的な、燃えやすい種類の油の匂いだった。
「レイン」
声は出さずに、口の形だけで呼んだ。
レインが素早く来た。エリナが地面を指差した。
作業場の壁の根元に、油がしみ込んだような痕がある。広い範囲ではない。でも、もし火をつけられていたら。
「まだ火はついていない」
レインが低く言った。
「最近、ここに来た者がいる」
マリオが角から現れた。
「どうした?」とマリオが言いかけて、地面の痕を見て黙った。
「見張りは?」
「グレンさんが頼める」
エリナが即答した。
「あと、ハンスさんに明日朝一番で話す。作業場の外に、もう一枚板を張り直す必要がある」
「今夜は、誰かが起きている方がいい。俺が最初の番をする」
「俺が代わる」
レインが言った。
「王都から来た人間に番をさせるのか」
「俺の方が感知できる範囲が広い」
「……魔法か」
「使わなくても、気配を読む訓練はしてある」
マリオがしばらくレインを見た。それから、小さく頷いた。
「わかった。じゃあ俺が前半、レインが後半」
「決まった」
エリナが言った。
「お前はどうするんだ」
「中から、記録を整理する。状況をゴードンさんとフィオナに報告する文書を今夜中に書く」
「眠らないのか」
「後で眠る」
「後でって、いつだよ」
「夜明け前には眠る」
「それで足りるのか」
「足りなければ、日中に少し休む。効率の問題だから」
マリオが呆れた顔をした。
レインは何も言わなかった。
でも、エリナが中に入ろうとした時、小さく声をかけてきた。
「エリナ」
「何」
「無理をするな、とは言わない」
「言わないの?」
「言っても聞かないとわかっているから」
エリナは少しだけ止まった。
「でも、今夜、外の番は俺たちがやる。中の仕事はお前がやる。それで十分だ。全部一人でやろうとするな」
その言い方が、命令でも心配でもなく、ただ事実を並べた言い方だったので、エリナは素直に頷けた。
「わかった」
夜中の二時頃。
マリオから交代したレインが、作業場の陰で静かに周囲を見張っていた頃。
エリナは事務室の机で、フィオナへの報告書を書き終えた。
油の痕のこと。今夜の見張りのこと。今後の対策。そして、レインが来ていること。
最後の一行は、報告書には書かなかった。
別の紙に、短く書いた。
『レインが来ている。直感で、今夜の異変を察知してくれた。助かった。』
それだけ書いて、封をした。
フィオナが読んだら、何か言うだろう。
きっと、意味ありげな顔をして、余計な一言を添えてくる。
エリナはそれを想像して、少しだけ口の端が動いた。
夜が明けた。
幸い、それ以上の異変はなかった。
朝になってから確認すると、油の痕の近くに、小さな布切れが落ちていた。
使いかけの蝋燭に使うような、粗い麻布だった。
火をつけようとして、何らかの理由で中断したのか。
あるいは、今夜は「様子見」だったのか。
エリナはその布切れを、小さな袋に入れてしまった。証拠として持っておく。
「ハンスさんに話してくる」
マリオが言った。
「一緒に行く」
エリナが答えた。
「俺は?」
レインが聞いた。
「グレンさんのところに、昨夜のことを伝えてほしい。見たことと、作業場の周りに見知らぬ人間が来た場合はすぐに教えてほしいと」
「わかった」
三人が、それぞれの方向に動いた。
ルナが作業場の戸口に立って、三人の後ろ姿を見ていた。
猫が二匹、彼女の足元に座っている。
エリナが振り返ると、ルナが無言で小さく手を振った。
いつもの、無口な激励。
ハンスは話を聞き、黙って腕を組んだ。
長い沈黙の後、立ち上がった。
「外壁の板は、今日中に張り直す。窓の位置も、一つ塞ぐ」
「費用は——」
「払いは後でいい」
「ハンスさん」
「お前が約束を守る奴だと知ってる。それだけで十分だ」
同じ言葉だった。
最初に木の容器を頼んだ時と、同じ言葉。
エリナは深く頭を下げた。
言葉が、うまく出なかった。
それで十分だと、ハンスも知っていた。
その夜。
作業場の外壁が補修され、グレンが見張りに立ってくれることになり、ジルカへの輸送代替ルートの確認が完了した。
ゴードンが報告書をまとめ、フィオナへの手紙に同封した。
レインは翌朝に学院へ戻ると言った。
夕食の後、エリナとレインは作業場の前に並んで立った。
修復された外壁が、夜の中に白く浮かんでいる。
「燃やされなくて、よかった」
「ああ」
「レインが来てくれていなかったら、気づくのが遅れていたかもしれない」
「かもしれない、だ。お前も気づいた可能性はある」
「でも、今夜は早く気づけた」
レインが少し黙った。
「直感、と言ったが……」
レインがゆっくり言った。
「正確には、お前の手紙を読んでから、ずっと引っかかっていたんだ」
「何が?」
「クロヴェルが調査を入れた、という話。調査の次に来るのは何かを考えていた。流通への介入か、情報操作か、直接的な妨害か。その中で、最も素早くできるのは最後の手段だと思った」
「それで、来ることにした?」
「それもある」
レインが少しだけ間を置いた。
「それだけでは、ない」
エリナは、レインの顔を見た。
横顔は、いつも通り無表情に近い。
でも、その『それだけでは、ない』という言葉が、少しだけ宙に浮いたまま、回収されなかった。
エリナは、その言葉の続きを問わなかった。
問わなかったのは、答えが怖かったからではない。
今夜は、この言葉がここにあるだけで、十分だと思ったから。
それだけのことだ——と、心の中で呟いた。
でも今夜は、その『それだけのことだ』が、いつもより少し薄かった。
翌朝、レインが出発した。
長屋の前で、短い別れだった。
「一年後」とレインが言った。
「一年後」とエリナが返した。
「約束は、覚えている」
「私も」
レインが歩き出した。
マリオが横に立って、また何か言いたそうな顔をしていた。
エリナは黙って、レインの背中が路地の角を曲がるのを見ていた。
今回は、少し長く見ていた。
それに気づいて、視線を戻した。
「何か言った?」
「言ってない」
マリオが慌てて首を振った。
「言いたそうな顔をしてた」
「してない」
「してた」
「……エリナって、本当に変なところだけ鋭いよな」
マリオがぼそりと言った。
エリナは答えなかった。
作業場の方へ歩きながら、頭の中で今日のやることを並べ始めた。
在庫確認。ヴァロウのマグダへの発送。ゴードンとの帳簿の照合。フィオナへの返事。
やることは、いつも通り山ほどある。
それが、今は少しだけ、ありがたかった。
動き続ければ、余分なことを考えなくて済む。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
作業場の壁は、今日も白かった。
燃えなかった。
それで、十分だ。
読んでいただきありがとうございます。
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