21話 ダリウスの再訪
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。
今回は、予告があった。
前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。
『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』
エリナはその手紙を三度読んだ。
前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。
「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」
フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。
余計な観察を文章にしても仕方ない。
返事は短く書いた。
『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』
ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。
「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」
「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」
「正解です」
ゴードンが静かに頷いた。
翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。
服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。
鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。
七歳の子どもの顔だ。
それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。
宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。
「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」
ゴードンが封筒を差し出した。
「ダリウスの件についてですか」
「そうだと思います」
エリナは封を開けた。
エリナへ
ダリウスのことを、もう少し調べた。
先月、クロヴェル侯爵と息子の間で、宮廷の晩餐の席で珍しく言い合いがあったらしい。内容まではわからない。でも、その後からダリウスが父親の主催する会合への出席を減らしている。
ダリウスを知る人間に話を聞いたら、「あの方は昔から、父上のやり方に迷いがあった」と言っていた。具体的なことは言わなかったけど、その人の目が正直だったから、たぶん本当のことだと思う。
会う前に一つだけ言っておく。ダリウスは、感情で動く人間じゃない。でも感情がない人間でもない。その両方が同時に本当。だから、正論だけで押しても、感情だけで押しても、どちらも刺さらない。
あなたが一番自然にやれることをやればいい。それが、たぶん一番効く。
――フィオナ――
エリナは手紙をたたんだ。
あなたが一番自然にやれることをやればいい。
フィオナらしい言い方だった。
戦略でも、感情でもなく、「自然に」。
それが何なのか、エリナは少しだけ考えた。
答えが出る前に、扉がノックされた。
ダリウス・クロヴェルは、前回と同じく整った顔と礼儀正しい物腰で現れた。
だが、何かが違った。
前回は、完璧だった。隙がなかった。今日は——完璧なのに、どこかに疲れがある。目の下の皮膚が、わずかに薄い。
エリナは立ち上がって、頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただいて」
ダリウスが席に着いた。ゴードンが一歩引いた場所に座った。
「今日は、前回より正式な形でお話をしたいと思いまして。前回は、少し、段取りが悪かった」
「いいえ」
「いいえ、ではありません」
ダリウスが穏やかに遮った。
「あの時の私は、お父上の話を利用した。それは、誠実ではなかった」
エリナは少し止まった。
予想していなかった言葉だった。
「利用した、とは」
「アッシュフォード侯爵の名前を出すことで、あなたの感情に触れようとした」
ダリウスが静かに続けた。
「交渉の技術として、それは有効かもしれない。でも——あなたに対してやるべきことではなかった」
エリナはダリウスの目を見た。
前回と同じように、穏やかで、礼儀正しい。でも今日は、目と言葉のズレが、少ない。
「なぜ、今日それを言うのですか」
「時間がかかりました」
ダリウスが少しだけ視線を落とした。
「自分の中で、整理するのに」
「何を整理したのですか」
少し間があった。
宿の外から、市場の人の声がかすかに聞こえた。
「父のことです」
ダリウスが、静かに言った。
エリナは何も言わなかった。
促すのではなく、ただ待った。
前世の経験で知っていた。こういう種類の沈黙を急かすと、相手は本当のことを言わなくなる。
「父は」
ダリウスが続けた。
「常に正しいと信じていました。家のため、王国のため、魔法の権威のため。そのためなら、手段を選ばない」
「あなたは、それを正しいと思っていますか」
「思っていません」
即答だった。
だが、その即答の後に、ダリウスが小さく息を吐いた。
「ただ、思っていないと気づくのに、時間がかかった」
「なぜ時間がかかったのですか」
「家の中にいると、父の論理が当たり前になる。『魔法こそが王国の礎』『それを守ることが貴族の義務』。毎日その言葉の中にいると、疑うことが難しくなる」
「疑うきっかけがあったのですか」
ダリウスが少しだけ、エリナを真っ直ぐに見た。
「あなたが、ルシェムでやっていることの話を聞いた時です」
エリナは眉を動かさなかった。
「子どもの病気が減った。傷の治りが早くなった。魔法を使わずに。それを聞いた時に、父が何と言ったか、覚えていますか」
「直接は聞いていません」
「『下らない』と言いました」
ダリウスの声が、ほんの少し変わった。
「『平民が魔法の代わりに石を積んでいる程度のことだ』と」
エリナは何も言わなかった。
「でも私は、ルシェムの数字を見ていた。魔法省の報告書に、ルシェムの衛生状態の改善が載っていた。数字は嘘をつかない。子どもが死ににくくなっている。それを『下らない』と言う父の言葉が、初めて、私には正しく聞こえなかった」
沈黙があった。
エリナはその沈黙の中で、フィオナの言葉を思い出した。
正論だけで押しても、感情だけで押しても、どちらも刺さらない。
今、ダリウスは自分から話している。
ということは、今日の自分の役割は、押すことではない。
「ダリウス様」
エリナが口を開いた。
「はい」
「一つ、正直に聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「今日ここに来たのは、クロヴェル家の意向ですか。それとも、あなた自身の意志ですか?」
ダリウスが、少し目を細めた。
「どちらだと思いますか」
「判断するための情報が足りません。だから聞いています」
ダリウスが少しだけ、口の端を動かした。
「父は、知りません。今日ここに来たことは」
「つまり」
「私個人の意志で来ました」
エリナはゴードンを横目で確認した。ゴードンの表情は変わらないが、ペンを持つ手が止まっていた。記録を止めて、聞いている。
「なぜ、父上に知らせずに」
「知らせれば、止められるからです」ダリウスが答えた。「あるいは、目的を書き換えられる」
「目的、とは」
「あなたに、謝罪をしたかった。前回の訪問での不誠実さについて。そして——」
また少し間があった。
「父がルシェムの作業場に調査を入れたこと。それについても」
エリナの指先に、力が入った。
机の上に置いた手を、動かさなかった。
「調査のことを、知っていたのですか」
「知りました。事後に」
ダリウスの目が、わずかに曇った。
「止められなかった。それは、私の力不足です」
「作業場の油の痕も」
ダリウスの顔が、少し固くなった。
「それは——知りませんでした」
エリナはダリウスの目を見た。
嘘の目ではない、と直感した。
でも直感だけで判断してはいけない。
「知らなかった、ということは」
エリナはゆっくり言った。
「クロヴェル家の中で、あなたが知らない動きがある、ということですね」
「……そう、なります」
ダリウスの声が、初めてわずかに揺れた。
エリナは少し考えた。
目の前の男は、父親の組織の中で、父親が知らない場所で動いている。しかし父親の動きの全貌も、自分では把握できていない。
それは——思っていたより、深刻な状況だ。
クロヴェル侯爵の組織が、息子にすら全部を見せていない。それはつまり、ダリウスが組織の中で完全には信頼されていないか、あるいは意図的に情報を遮断されているか、どちらかだ。
「ダリウス様」
「はい」
「あなたは今、何を望んでいますか」
ダリウスが少し驚いた顔をした。
「何を、とは」
「父上のやり方が正しくないと思っている。でも、家の中にいる。その状況で、あなた自身は何をしたいのですか」
長い沈黙だった。
ダリウスが窓の外を見た。市場の方向だ。人の声がかすかに届いている。
「正直に言います」
ダリウスがゆっくり口を開いた。
「わかりません」
「わからない」
「父のやり方に従うことも、完全に背くことも、今の私にはできない。どちらも選べずにいる」
「それは、正直な答えです」
「……侮蔑ではないですか」
「侮蔑ではありません。どちらも選べない、と正直に言える人間は少ない。大抵は、どちらかを選んだふりをして、本心を隠す」
ダリウスが、エリナを見た。
「あなたは、私に何かを求めていないのですか」
「今日は何も求めていません」
「なぜ?」
「今日のあなたは、答えを出しに来たのではなく、話しに来た。だから私も、話を聞く場にしました」
ダリウスが少し目を細めた。
「……用心深いのか、それとも」
「合理的なだけです。あなたが何を求めているかわからない状態で、こちらが何かを求めても意味がない。まず、相手を知る方が先です」
「相手を知る」
「はい」
「では」
ダリウスが少し声のトーンを変えた。
「あなたは今、私を何だと見ていますか。敵ですか」
エリナは少し考えた。
「わかりません」と、正直に言った。
「敵ではないかもしれない。でも、味方と言い切れる根拠もまだない。だから今日の時点では——」
「どちらでもない」
「そうです」
ダリウスが、深く息を吐いた。
それは、緊張が解けたような息だった。
「それで、十分です。敵でないと言ってもらえただけで」
話は、そこから少しだけ柔らかくなった。
エリナが石鹸の普及状況を簡単に話した。ダリウスが聞いた。数字に興味を持つ目をしていた。
ダリウスが魔法省の内部の話を少しだけ話した。エリナが聞いた。
「資金の動きに、最近変化があります。特定の商人ギルドへの、非公式な支出が増えている」
「どの方向への支出ですか」
「物流関係です」
エリナは、それをそのまま顔に出さなかった。
でも頭の中で、フィオナの報告と繋がった。
商人ギルドへの接触。物流への介入。
「教えていただいて、ありがとうございます」
「役に立てばいい。ただ——」
「ただ?」
「これはあくまで私個人の行動です。クロヴェル家として協力しているのではない」
「わかっています」
「私が今後、父の意志に従って動くことも、あるかもしれない」
「それも、わかっています」
ダリウスが少し目を見開いた。
「……怒らないのですか」
「怒っても意味がない。あなたは、まだ迷っている。迷っている人間に、一方向だけを求めても、無理です」
「ずいぶん、冷静ですね」
「怒りを使う場面は、ここではない」
ダリウスがしばらくエリナを見ていた。
それから、静かに言った。
「アッシュフォード侯爵の娘だということが、今日、初めてわかった気がします」
「父のことを、知っていましたか」
「直接は知りません。でも、評判は聞いていました」
「どんな評判ですか」
ダリウスが少し間を置いた。
「論理で動くが、冷たくはない。数字で語るが、人を見ていない訳ではない。そういう人だったと」
エリナは、その言葉を胸の中に入れた。
返事はしなかった。
する必要がなかった。
ダリウスは一時間ほどで帰った。
別れ際、立ち上がって頭を下げた。
「今日は、来てよかった」
「またお話ができれば」
「ええ」
ダリウスが扉を開けて、出ていった。
足音が廊下を遠ざかった。
ゴードンが、静かに言った。
「どう見ましたか」
「味方とは言えない」
エリナがすぐに答えた。
「でも、今日の話は本物だったと思う」
「物流への支出の情報は?」
「本当だと思う。自分が提供することでリスクを取っている。嘘の情報でそのリスクを取る理由がない」
「ダリウス殿が、今後父上と完全に決別する可能性は?」
「今は低い。でも、ゼロでもない。もし決別するとしたら、何かきっかけが必要だ。それが何かは、まだわからない」
「今日の成果は?」
エリナは少し考えた。
「物流への介入という具体的な情報。それと——」
「それと?」
「ダリウスが迷っているということが、直接会ってわかった。報告書の言葉ではなく、本人の目で」
ゴードンが頷いた。
「フィオナさんへの報告は?」
「今夜書く。全部」
その夜、エリナはフィオナへの手紙を書いた。
ダリウスが話した内容を正確に記録し、自分の観察を添えた。物流への支出の話。クロヴェル家内部の情報遮断の可能性。ダリウスが「迷っている」という直接の確認。
最後に、一行だけ付け加えた。
『「あなたが一番自然にやれることをやればいい」という言葉が、役に立った。ありがとう。』
書いてから、少しだけ止まった。
エリナはあまり「ありがとう」を書かない人間だ。礼は行動で返す、と思っているから。
でも今日は、言葉にしたかった。
封をして、机の端に置いた。
窓の外は静かだった。
ルシェムの夜。
ダリウスが去り、情報が一つ増え、盤面がまた少し動いた。
敵でも味方でもない人間が、世界には必ずいる。
そういう人間をどう扱うかで、戦い方の質が変わる。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
今日のダリウスとの一時間は、今後の一年に、確かに意味を持つ。
そう確信しながら、ランプを吹き消した。
読んでいただきありがとうございます。
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