115話 二月の手紙と、広がっていくもの
二月になった。
ルシェムの冬は、まだ続いていた。朝の霜が毎日降り、日中も空気が冷たく、夕方になると日が落ちるのが早かった。でも、一月の終わりと二月の始まりでは、空気の質がわずかに変わっていた。冷たさの中に、何か別のものが混じり始めていた。春が、まだずっと遠いところにあるが、確かに近づき始めている。そういう予感が、二月の空気の端にあった。エリナは毎朝窓を開けながら、その変化を感じていた。去年の二月も、同じことを感じていた。でも、今年の二月は少し違った。七分先の家に、レインがいた。その事実が、今年の二月の空気を、去年と同じでありながら少し違うものにしていた。
レインが窓を開けることを続けて、一ヶ月が経とうとしていた。毎朝、エリナに今日の空気の報告をするようになっていた。報告、というより、気づいたことを届ける、という形だった。「今朝は昨日より乾いている」「霜の厚さが、先週と変わってきた」「空の色が、少し違う種類の青だった」といった言葉が、毎朝のやり取りの中に混じるようになっていた。エリナが七年間積み上げてきたことを、レインが一ヶ月で追いかけていた。追いかけながら、レインにしか気づかないことを言葉にしていた。空の色の違いを、エリナはそこまで細かく言葉にしたことがなかった。見ていたが、言葉にしていなかった。レインの言葉で、自分が見ていたものが、また別の形で見えるようになることがあった。それが、一緒にいることで起きることの一つだとエリナは思っていた。
二月の最初の週に、各地からの手紙が届いた。
マグダから来た手紙には、お母さんたちの集まりが先月で半年になった、と書かれていた。自然に始まって、自然に続いている。誰かが続けるように言わなくても、続いている。それが、本当に広まったものの形だ、とマグダが書いていた。エリナはその言葉を読みながら、ヴァロウの子どもたちが最初に石鹸の使い方を覚えた時のことを思い出した。あの頃、ここまで広がるとは思っていなかった。でも、広がった。少しずつ、誰かが誰かに伝えて、その繰り返しが半年続いた。続けることが繋がることだ、という言葉が、ヴァロウという具体的な場所で、具体的な人間たちによって証明されていた。
シェナから来た手紙には、新しい薬草の累計事例が百件を超えた、と書かれていた。百件という数字を、ルナに伝えると、ルナが少しだけ間を置いてから「良かった」と言った。それだけだったが、ルナの「良かった」は、感情の薄い言葉ではなかった。長い時間をかけて慎重に確かめてきたことが、百件という形になった。その重みを、ルナは一言で受け取っていた。エリナがその話をレインにすると、レインが「師匠に伝えたい」と言った。師匠が退く前に確認を始めた薬草が、百件の事例になった。師匠への報告として、伝える価値がある。レインが師匠への手紙を書いている姿を、エリナは事務室の隣で見ていた。学院を離れても、師匠への手紙を書く。場所が変わっても、続けることは続く。ルナの言葉が、また今日も当てはまっていた。
ジルカから来た手紙には、港の近くの学校の先生が、学院の講習を受けた、と書かれていた。フィオナが先月訪問した時に「考えてみます」と言っていた先生だった。考えてみる、という言葉が、行動になった。壁が少し開いたと思っていたら、扉になっていた。フィオナにその話を伝えると、フィオナが「押しつけなかったから、来た」と言った。急がなかったから、来た。それが、フィオナがルシェムで学んだことの、現場での形だった。
二月の半ばに、アルバ殿下から手紙が来た。
内容は、二つあった。一つ目は、父の改革案が宮廷の正式な資料として保存される作業が完了した、という報告だった。当時の記録と現在の商会の活動記録が、一つの資料として整理され、宮廷の書庫に収められた。エリナは手紙を読んで、少しだけ動かなかった。完了した、という言葉が、思いのほか重かった。完了した、ということは、残った、ということだった。どれだけ時間が経っても、その資料は書庫にある。父が書いたものが、エリナが積み上げたものと並んで、消えない場所に置かれた。記録は消えない、とゴードンが言い続けてきた言葉が、今日、宮廷の書庫という形で本当になった。エリナはセレーナを呼んで、手紙を見せた。セレーナが読んで、少しだけ目を閉じた。それから開けて「お父さんが、やっと本当に残ったわね」と言った。やっと、という言葉の中に、長い時間がすべて入っていた。
二つ目の内容は、来年度から王宮内での衛生教育を正式に開始することが決まった、という報告だった。王宮の従者や使用人を対象にした教育で、学院が設計した内容を元にして行う予定とのことだった。殿下が「父上が、やると決めた。早かった」と書いていた。陛下が動くと決めたら、早い。それが、アルバ殿下の陛下への評価だった。王宮内から始まる衛生教育が、いつか王宮の外に向かっていくかもしれない。そうなった時に、ルシェムから始まったものが、王宮にまで届いた形になる。最初に豆のペーストを作った台所から、王宮まで。その距離が、七年間で積み上がってきたものの大きさだった。
レインにその話を伝えると、「師匠が最後の設計仕事として作った講習の内容が、王宮にまで届く可能性がある」と言った。師匠への手紙に、それも加えると言っていた。師匠が退いた後も、師匠が設計したものが広がり続けている。始めた人間がいなくなっても、根があれば育ち続ける。ルナの言葉が、また今日もそのままだった。
二月の後半、フィオナが次の地方訪問の準備を始めた。
今回は、ダリウスが新たに開拓した地域で、前回より遠い場所だった。三泊四日の予定で、ルシェムを離れることになる。出発の前の夜、フィオナが長屋に来た。特に用事があるわけではなかった。ただ、出かける前に来た。それが、ルシェムが帰ってくる場所になった人間の、出かける前の形だった。フィオナが台所の椅子に座って、エリナが作った薬草茶を飲みながら言った。「今回は、少し遠い。でも、帰ってくる場所があるから、行ける」と。その言葉を、エリナは何度聞いたかわからなかった。でも、聞くたびに、同じように嬉しかった。フィオナが言うたびに、その言葉が本物だとわかった。毎回本当のことだから、毎回言える。そういうことだった。
レインがその場に同席していた。フィオナが出かける前に顔を出したのは、レインに何か言いたいことがあったからかもしれない、とエリナは思った。フィオナがレインに言った。「私が戻ってきた時に、庭の様子を教えてくれ。ルナに任せているが、あなたの目で見たものを聞きたい」と。レインが「わかった」と答えた。フィオナが戻ってきた時に、庭の報告をする。それが、今日フィオナからレインへ渡された小さな仕事だった。渡された仕事を受け取ることで、その場所への責任が生まれる。責任が生まれることで、その場所との繋がりが深まる。フィオナは、そのことを知っていてレインに渡したのかもしれない、とエリナは思った。
フィオナが出発した翌日から、レインは毎日フィオナの庭も確認するようになった。
ルナが水をやっていたが、レインが様子を見て記録するようになっていた。フィオナの庭と、自分の庭を、毎朝続けて見る。それが、この二日間で自然にできた習慣だった。エリナがその話を聞いて、「レインが庭の記録をしているんですか」と言うと、レインが「ベルトの農地の記録を見て、記録することの意味がわかった。ベルトが見ているのは土の変化だが、俺が見るのは薬草の変化だ。同じことを、違う場所でやっている」と答えた。ベルトのやり方が、レインに渡っていた。山の知識が農地に渡り、農地の記録の習慣が庭に渡っていた。ルシェムにいる人間たちの知恵が、少しずつ循環していた。それが、一緒にいることで起きることだった。エリナが一人でやっていた時には起きなかったことが、人が集まることで起き始めていた。
二月の終わりの夜、エリナとレインが事務室で話した。
二月をどう過ごしたか、ではなく、これからをどう動かすか、という話だった。レインが来てから、エリナが一人で考えていたことを、二人で考えるようになっていた。その変化が、二月の一番大きな変化だとエリナは思っていた。考えることを一人でやめたのではなく、一人で考えることに加えて、一緒に考えることができるようになった。それが、広がることだった。
「三月になれば、農地の三年目が始まります」エリナが言った。「ベルトが来年の計画を立てています。今年は、新しい薬草の試験栽培も始まる予定です」
「ベルトが見つけた薬草の研究を、学院の研究者に繋ぐ準備が整ってきた」レインが言った。「来月、一度学院に行って、直接話してくる予定だ」
「学院に行くんですか」エリナが少し驚いて言った。
「離れても、繋がりは続く」レインが静かに言った。「行くことと、離れることは、違う。ルシェムを拠点にしながら、必要な時に動く。それが、これからの形だと思っている」
「フィオナが地方に行くのと、同じですね」エリナが言った。
「そうだ」レインが言った。「帰ってくる場所があるから、どこにでも行ける。フィオナが言っていた言葉が、俺にも当てはまるようになってきた」
エリナは、その言葉を聞いて、少し思った。フィオナが言い始めた言葉が、今日レインの言葉になっていた。言葉が、人から人へ渡って、それぞれの場所で根を張っていた。庭の薬草と、同じことが言葉でも起きていた。植えた言葉が、別の場所で育つ。それが、続けることで起きることの、今日の形だった。
「それと、もう一つ」レインが続けた。「地方の学校への展開が、今年さらに広がる。フィオナ一人が動いているが、フィオナの負担が増えてきている。何か、補える形を考えたい」
「フィオナには、まだ余裕があると言っていましたが」エリナが言った。
「今はあっても、半年後にはわからない」レインが言った。「広がることは良いことだが、広がった分だけ、動く人間の負担が増える。今のうちに次の手を考えておくことが、急がないことと止まらないことの、両方に当てはまると思っている」
エリナは少しだけ考えてから、「そうですね」と言った。レインの見方は、エリナが見ていた方向と少し違う角度から来ていた。エリナは今の状況を見ていた。レインは今の状況から半年後を見ていた。その違いが、一緒に考えることの価値だった。一人では見えていなかった角度が、もう一人の目で見えるようになる。「フィオナに、今年の後半に向けた計画を聞いてみます。ダリウスとも、展開のペースについて話してみます」とエリナが言った。レインが頷いた。それで、今夜の話は終わった。結論が出たわけではなかったが、次に動くことが決まった。それで十分だった。
その夜、エリナは机に向かった。
二月のことを振り返りながら、これからのことを少し書いた。マグダからの手紙、シェナからの百件の報告、ジルカからの先生が講習を受けた話、殿下からの二つの報告、フィオナの出発、レインが庭の記録を始めたこと、二人で考えるようになったこと。全部が、二月の一ヶ月の中にあった。でも、一つ一つは、七年間の積み重ねの延長線上にあった。新しいことが起きているのではなく、続いてきたことが、今月の形になっていた。それが、続けることの今の姿だった。
レインへの手紙を書いた。今夜も、七分先に届く手紙だった。
『レインへ。二月が終わります。帰ってくる場所があるから、どこにでも行ける、という言葉が、今月あなたの言葉になっていました。フィオナから始まった言葉が、あなたの言葉になった。それが嬉しかったです。フィオナが帰ってきたら、庭の報告をしてあげてください。来月、学院に行くんですね。行ってきてください。帰ってくる場所が、ここにあります。待っています。エリナ。』
封をして、机の上に置いた。明日渡す手紙だった。窓の外の冬の夜が、二月の最後の夜の空気を持っていた。来月になれば三月で、三月が深まれば春が来る。春が来れば、庭に花が咲く。花が咲けば、ルナが「春に花が咲くもの」と言って植えた種類が、初めてその意味を見せる。それを、レインが自分の庭で見る。毎朝窓を開けて、庭を見て、空気を確かめる。そういう朝が、春になれば来る。今はまだ冬だが、その春は確かに来る。見えないが、続いている。土の下の根が、今夜も静かに張り続けているように、春に向かうものが、今夜のルシェムの地面の下で動いていた。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。二月が終わる夜、帰ってくる場所があるから行ける、という言葉が、この場所でまた一人の言葉になっていた。それが今夜、一番大事なことだった。
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