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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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114/120

114話 冬の日々と、根を張ること

 レインがルシェムに来てから、二週間が経った。


 その二週間で、レインは毎朝窓を開けるようになっていた。最初の日は「やってみようと思った」という理由だった。二日目は「昨日との違いがわかった」と言っていた。そして今日、「今朝の空気は昨日より少し湿っていた。雪が来るかもしれない」と言ってきた。二週間で、空気の質の変化を感じ取れるようになっていた。続けることで、わかることが増えていく。それが、毎朝窓を開けることの意味だと、エリナは七年間で知っていた。レインが二週間でそこに来ていることが、嬉しかった。嬉しい、という感情が来た後で、当然のことかもしれない、という感覚も来た。レインは、見ることに長けている人間だった。続ければ、早くわかるようになる。それも、その人間の形だった。


 二週間の間に、レインは少しずつルシェムに慣れていった。


 市場の場所を覚えた。グレンの工房がどこにあるかを覚えた。マルタの店に顔を出して、「約束通り来た」と言ったら、マルタが「そうかい、じゃあ石鹸を一つ」と言って取り置きしていた石鹸を渡してくれた。マリオが後でその話を聞いて笑っていた。「マルタさんは、ずっと待っていたんだよ」と言った。待っていた人間が、来た人間を迎える。それが、ルシェムという場所の形の一つだった。レインはマルタから石鹸を受け取って、「大切に使います」と言ったらしい。マルタが「そういう人に使ってほしかったんだよ」と言った、とマリオが伝えてくれた。家主が言っていた言葉と、同じ言葉だった。大切にしてくれる人に使ってほしい。マルタと家主が、違う文脈で同じことを言っていた。それが、ルシェムという場所が持っている何かを示しているような気がした。


 ルナが、庭への薬草の植え付けを始めた。


 荷物が置かれた翌日から、少しずつ始めていた。一度に全部植えるのではなく、一種類ずつ、その種類に一番良い日を選んで植えていた。「植物には、植えるのに良い時期がある。急いで全部植えると、うまく育たないものが出る」とルナが言っていた。エリナがその話をレインに伝えると、レインは「ルナは、植物のことを植物の側から考えている」と言った。その言い方が正確だとエリナは思った。植える人間の都合ではなく、植えられる植物の都合に合わせる。それが、ルナの植物との関わり方だった。人間に対しても、同じことをしている。相手の都合に合わせて、適切な時に適切なことをする。ルナが多くを語らない理由の一つが、そこにあるのかもしれない、とエリナはこの二週間で考えるようになっていた。


 レインは毎日、庭に出て植えられていく薬草を見ていた。最初は何もなかった土に、少しずつ根が植えられていった。今はまだ、地面から何かが出ているわけではなかった。でも、地面の下に根がある。見えないが、続いている。それがレインの庭の今の状態だった。「見えないが、続いている」とルナが言っていた言葉が、今日の庭のことを正確に言い表していた。レインがある朝、庭を見ながらエリナに言った。「根が張っているところを想像しようとしている。見えないが、確かにある。それを知っていることが、続けることの支えになる気がする」と。エリナはその言葉を聞いて、手紙のことを思った。七年間、手紙を書き続けてきた。届いているかどうか、読んでくれているかどうかが直接見えない時もあった。でも、続けていた。見えないが確かにある、という感覚が、続けることの支えになっていたのは、自分も同じだった。


 一月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。


 三つ目の提案の試験運用が、三ヶ月を経過したという報告だった。農地からの薬草が学校に届き、学校から子どもたちに伝わり、子どもたちが家に持ち帰る、という流れが少しずつ形になってきているとのことだった。まだ規模は小さく、届いている場所も限られているが、仕組みとして動いている実感があるとダリウスが書いていた。それと、個人的なこととして、宮廷での自分の立場が変わってきた、とも書いていた。クロヴェル侯爵の息子として見られることが減って、独自の動きをしている人間として見られるようになってきた。それは、エリナへの定期報告に書いたことと同じだったが、今回は「自分でも、そう感じるようになってきた」と加えてあった。外からの見られ方が変わったのではなく、自分の中での自分の見方が変わってきた、ということだった。それが、ダリウスの今の形だとエリナは思った。


 フィオナに手紙の内容を伝えると、フィオナが少しだけ間を置いてから言った。「自分の中での自分の見方が変わった、というのは、一番深いところで変わった、ということだ。外からどう見られるかより、自分が自分をどう見るかの方が、変わるのが難しい。ダリウスは、そこまで来た」と。フィオナがダリウスをそう評価する言葉が、この二年間でどれだけ変化してきたかを、エリナは改めて感じた。最初、フィオナはダリウスを「どちらの人間かわからない」と言っていた。次に「信じる理由が増えてきた」と言った。そして今日「一番深いところで変わった」と言った。その変化が、フィオナとダリウスが一緒に動いてきた二年間の記録だった。


 レインは、ルシェムでの仕事の形を少しずつ整え始めていた。


 学院との繋がりは、離れた後も続いていた。師匠が設計した地方の先生への講習の記録が、学院から定期的に届いていた。レインがその記録を確認して、必要があればコメントを返す、という形が自然にできていた。エリナが「学院を離れても、繋がりは続くんですね」と言うと、レインが「場所が変わっても、続けることは続く、とルナが言っていた言葉の通りだ」と答えた。ルナの言葉が、レインの中に根を張っていた。出会ってから二週間しか経っていないのに、ルナの言葉がすでにレインの考え方の一部になっていた。言葉が、人から人へ渡っていく。フィオナが以前言っていたことが、また今日起きていた。


 農地の薬草研究についても、ベルトと定期的に話す時間を作っていた。ベルトが見つけた新しい薬草のことを、師匠の後を引き継いだ学院の研究者に繋ぐための準備を、レインが進めていた。ベルトが記録してきたデータと、ルナが観察してきた内容を、学院の知識と照らし合わせる作業だった。「山の知識と、植物の知識と、学院の知識が合わさると、一人では見えなかったものが見えてくる」とレインが言っていた。それが、ルシェムに来た理由の一つだったとも言っていた。エリナがいる場所に来たいという理由が一番だったが、ここでしかできない仕事があるという理由も、確かにあった。その両方が重なって、今日のレインがここにいた。


 一月の後半、ゴードンが今年最初の中間報告を持ってきた。


 報告書を見ながら、ゴードンが一点だけ指摘した。「今年から、レインさんの農地研究との連携が加わりました。これが数字にどう影響するかは、今年の終わりにならないとわかりませんが、連携があること自体を記録しておきます」と言った。連携があること自体を記録する、という言葉が、ゴードンらしかった。結果だけでなく、過程も記録する。何が起きているかを正確に残す。それが、数字の記録ではなく、事実の記録だった。エリナが「ゴードンさんは、数字だけでなく、出来事も記録するようになりましたね」と言うと、ゴードンが「エリナさんに聞いていただいたことがきっかけでした。あの時から、変えました」と答えた。エリナが聞いたことを、ゴードンが覚えていた。その一言が、ゴードンの記録の仕方を変えていた。小さな言葉が、続けることを変えることがある。それも、続けることの形だった。


 一月の終わりの夜、エリナとレインが事務室で話した。


 二人が向かい合って座る、いつもの形だった。でも、今日はその向かい合い方が少し違った。以前は、レインが来ている限られた日数の中で話していた。今日は、明日もここにいる人間と話していた。その違いが、話の質を少し変えていた。急がなくていい、という感覚が、以前よりも確かにあった。


「二週間、どうでしたか」エリナが聞いた。


「良かった」レインが静かに言った。「慣れてきた。ベルトが言っていた言葉が、当てはまってきた気がする」


「慣れた年だった、という言葉ですね」


「そうだ。慣れることが、続けることの始まりだ。まだ二週間だが、始まっていると思っている」


「庭の薬草は、どうですか」エリナが聞いた。


「毎日見ている」レインが言った。「まだ何も見えない。でも、見えないことが、見えないまま続いている。それが、今の庭だ」


「春が楽しみですね」


「そうだ」レインが言った。「今から楽しみにしている。楽しみにしながら、今日の庭を見続ける。待つことと続けることが、似ているかもしれないという言葉の通りのことを、庭でやっている」


「荷物の中に入れてきたメモが、庭で本当になっているんですね」エリナが言った。


「そうだな」レインが静かに言った。「届けてくれた言葉が、ここで本当になっている。それが、届けることの意味だと思っている」


 少しだけ間があって、レインが続けた。


「一つだけ、話していいか」


「どうぞ」


「これから先のことを、少し考えている」レインが静かに言った。「今はまだ、ルシェムに慣れている段階だ。でも、慣れた後に、何をするかを考えている」


「どういうことを考えているんですか」


「ベルトが見つけた薬草の研究を、学院の外から続けること。地方の先生への講習の記録を確認し続けること。それと、もう一つ」レインが言って、少しだけ間を置いた。「エリナが続けてきたことの、次の形を一緒に考えたい」


「次の形、というのは」


「今まで、エリナが中心にいて、周りの人間がそれぞれの場所で動いてきた」レインが言った。「その形が、今年さらに広がる。地方の学校が増える。農地の薬草が安定する。ダリウスの仕組みが大きくなる。そうなった時に、中心にいるエリナが、一人で全部を見続けることが難しくなるかもしれない」


「難しくなる、とは思っていませんでした」エリナが言った。


「今は難しくない」レインが言った。「でも、広がっていけば、いつかそうなる。だから、今のうちに考えておきたい」


「ゴードンさんや、フィオナが支えてくれています」


「そうだ。でも、俺も支えたい」レインが静かに言った。「ここにいるから、できることがある。学院にいた時にはできなかったことが、ここにいれば、できる。それを、一緒に考えたい」


 エリナは、その言葉を受け取った。一緒に考えたい、という言葉が、単純に嬉しかった。嬉しいという感情が来て、その後に、また当然のことかもしれない、という感覚が来た。レインがここにいる。だから、一緒に考えられる。そのために、ここに来た。それが、全部繋がっていた。


「一緒に考えましょう」エリナが言った。「急がなくていいです。でも、止まらないで」


「それが、俺たちのやり方だな」レインが言った。


「そうです」エリナが言った。「ずっと、そうでした」


 その夜、エリナは机に向かった。


 今日のことを、少しメモに書いた。書きながら、来月、再来月のことを少し考えた。春になれば、庭に花が咲く。農地の三年目が始まる。地方の学校への展開が続く。ダリウスの仕組みが大きくなる。師匠が退いた後の学院の記録が届き続ける。フィオナが現場を回り続ける。ベルトが農地を管理し続ける。ルナが薬草を見続ける。ゴードンが記録し続ける。マリオが市場で顔を作り続ける。セレーナが台所で待ち続ける。そして、レインが七分先の家から来る。全部が、続いていく。続いていく先に、第百二十話の最終章が来る。そこにどんな形があるかを、まだ全部は見えていなかったが、続けていけば見えてくると思っていた。続けることで、見えてくるものがある。それが、七年間で学んだ一番大事なことだった。


 レインへの手紙を書いた。七分先に届く手紙だった。でも、書いた。


『レインへ。二週間で、窓を開けることが続いているんですね。空気の湿度の変化がわかるようになってきた。それが嬉しかったです。今夜、これからのことを一緒に考えたい、と言ってくれました。受け取りました。急がなくていい。でも、止まらないで、一緒に考えましょう。庭の根が張っている。見えないが、続いている。それが今夜のルシェムの形です。おやすみなさい。エリナ。』


 書いて、封をした。明日渡す手紙だった。でも、今夜書いた。書くことで、今日が今日として残る。書かなければ、今日は明日の記憶になって、少し形が変わってしまう。今日の形を、今日のうちに言葉にしておく。それが、手紙を書き続けてきた理由の一つだと、今夜改めて思った。


 ランプを吹き消した。七分先の家に、レインがいた。庭の根が、地面の下で静かに続いていた。マリオが市場で顔を作り続けていた。ルナが薬草を管理し続けていた。ゴードンが記録し続けていた。フィオナが自分の家の庭の薬草に、明日また水をやるだろう。ベルトが明日も農地を見るだろう。セレーナが明日の朝も、台所に来るだろう。全員が、それぞれの場所で、静かに続けていた。その続いているものが、ルシェムの夜の静かさを作っていた。何かが続いている静かさの中で、エリナは目を閉じた。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。今夜、これからのことを一緒に考えたい、と言ってもらえた。七分先に、その人間がいる。それが今夜、一番大事なことだった。

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