111話 大晦日と、年を越す夜
十二月三十一日、大晦日になった。
ルシェムの朝は、今年一番の冷たさだった。窓を開けると、霜が厚く地面を覆っていて、息が白くなるだけでなく、吐いた息が少し固まるような感覚があった。でも、エリナはその冷たさを、嫌いではなかった。今年最後の朝の空気が、今年で一番力のある空気だった。一年の締めくくりが、一番強い空気で来る。それが、正しい順番のような気がした。
台所に行くと、セレーナがすでに仕事を始めていた。台所の中が、すでに温かかった。出汁を取る鍋が火にかかっていて、野菜が丁寧に刻まれていた。今夜の料理の準備が、朝から始まっていた。エリナが台所に入ると、セレーナが振り返って言った。
「大晦日ね」
「そうですね」エリナが答えた。「今年最後の朝でした」
「今年は、いろんなことがあったわ」セレーナが野菜を刻み続けながら言った。特別な感情を込めた言い方ではなかった。ただ、事実として言った。それが、セレーナのやり方だった。
「そうですね」エリナが言った。「でも、当然のことが、当然の形になった年だったと思っています」
「そういう年が、一番大事な年だと思う」セレーナが静かに言った。「劇的な年より、当然のことが積み上がった年の方が、あとから見ると大事だった、ということが多い」
九時を過ぎた頃、レインが長屋に来た。
今日も、旅の疲れが取れた顔をしていた。昨日より、さらに落ち着いた顔だった。この場所に来て二日が経って、場所に慣れ始めているのかもしれない、とエリナは思った。慣れることが、続けることの始まりだと、以前ベルトが言っていた言葉を思い出した。
「おはようございます」エリナが言った。
「おはよう」レインが答えた。「今朝、宿の窓を開けた」
「窓を開けたんですか」
「習慣になっているわけではない」レインが言った。「でも、今朝は開けたくなった。なぜかを考えたら、お前が毎朝やっていることだから、やってみようと思った」
「窓を開けて、どうでしたか」
「冷たかった」レインが言った。「でも、今日の空気がわかった。それが、良かった」
「毎朝やっていると、昨日との違いがわかるようになります」エリナが言った。
「そうだな」レインが静かに言った。「習慣は、続けることで深まる。今日一日では、まだわからない。でも、続けていけばわかるようになると思っている」
「ここに拠点ができれば、毎朝できます」
「そうだ。だから、楽しみにしている」
午前中、エリナは倉庫への今年最後の連絡書類を確認して、ゴードンに渡した。ゴードンは年末の帳簿の最終ページを締めつつあった。一年間の数字が、全部揃っていた。ゴードンの仕事が、今年も正確に完成しようとしていた。
「今年の記録は、どうでしたか」エリナが聞いた。
「良い記録でした」ゴードンが静かに言った。「供給量、供給先の数、農地の成果、名誉回復の記録、師匠の退職、家が決まった日。全部が、今年の記録になっています」
「全部が、一年の中にあったんですね」
「そうです」ゴードンが言った。「でも、今年だけのことではありません。七年間の積み重ねが、今年に集まった。積み上がってきたものが、今年の形になった」
「来年の記録は、何が積み重なるでしょうか」
「わかりません」ゴードンが正直に言った。「でも、積み重なる、ということは確かです。続けていれば、必ず何かが積み重なる。それが、続けることの意味だと思っています」
「ゴードンさんが、そういうことを言うようになりましたね」
「七年間で、学びました」ゴードンが静かに言った。「エリナさんが動いてきたことを、記録し続けてきたから、わかるようになりました。記録していると、積み重なる様子がわかる。その様子を見てきたから、確かだと思えます」
昼過ぎ、マリオが来た。
今日は市場が早く閉まる日だった。大晦日は、ルシェムの市場が午後の二時に閉まる習慣があった。マリオが来た時の顔は、仕事を終えた顔だった。一年分の市場の仕事を、今日で締めた顔だった。
「今年も、市場が終わった」マリオが言った。
「お疲れ様でした」エリナが言った。
「疲れていない」マリオが言った。「でも、終わった。終わったことが、少し嬉しい」
「なぜですか」
「始まりと終わりがあることが、続けているということだから」マリオが言った。「一年が終わって、また一年が始まる。その繰り返しが、続けることだ。今日、終わりを感じているから、明日の始まりが本物になる」
「マリオが、そういうことを言うんですね」エリナが言った。
「七年間で学んだ言葉だよ」マリオが笑った。「お前が教えてくれたわけではないけど、お前と一緒にいて、考えるようになった言葉だ」
午後、フィオナが来た。
今日は、王都への用事も、地方への訪問もなかった。ただ、大晦日だから来た。それだけの理由で、自分の家からフィオナが来た。それが、ルシェムが帰ってくる場所になったことの、今日の形だった。
「今年最後の夕食を、一緒に食べよう」フィオナが言った。「それだけのために来た」
「それだけで十分です」エリナが言った。
「そうだな」フィオナが言った。それから少しだけ間を置いて、「今年は、いろんなことがあった」と言った。セレーナが今朝言っていた言葉と同じだった。でも、フィオナが言うと、少し違う重みがあった。現場を見てきた人間の言葉と、台所で待ってきた人間の言葉が、同じ言葉になる。それが、同じ方向を向いてきたということだった。
「フィオナにとって、今年一番大事なことは何でしたか」エリナが聞いた。
「帰ってきた、という感覚が、完全になった年だ」フィオナが静かに言った。「以前は、来た、と感じていた。でも、今年は帰ってきた、が自然になった。それが、今年一番大事なことだと思っている」
「気づいたらそうなっていた、という形で」
「そうだ」フィオナが言った。「セレーナさんの言葉が、またここでも当てはまった」
夕方、ルナとベルトが作業場から来た。
二人とも、今日の仕事を終えた顔をしていた。ルナが手に、薬草の小さな束を持っていた。
「これは何ですか」エリナが聞いた。
「今夜の薬草茶に使うものだ」ルナが言った。「年の終わりに飲むと良い種類を、選んだ」
「年の終わりに良い薬草があるんですか」
「ある」ルナが言った。「一年の疲れを穏やかにして、新しい年に向けて体を整えるもの。毎年、この時期に使う」
「毎年、用意してくれていたんですか」
「そうだ」ルナが平坦な声で言った。「毎年、同じことをしている。それが、続けることだ」
「知りませんでした」エリナが言った。
「言わなかったから」ルナが言った。「でも、今年はレインがいる。だから、話した。新しい人間に、続けてきたことを伝えることが、大事だと思ったから」
夕食の準備が整った頃、全員が台所に集まった。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。八人が、テーブルを囲んだ。大晦日の夜だった。
テーブルに、料理が並んだ。セレーナが朝から準備していた料理だった。豆のスープ、ラム肉の煮込み、香草のパン、根菜の甘煮、それにルナの薬草茶が、全員分用意されていた。豆のスープが、一番最初に並んだ。最初に豆のペーストを作った台所から続いてきた、変わらないものの一つだった。
マリオが言った。
「乾杯しよう」
「何に乾杯しますか」エリナが言った。いつもの問いかけだった。毎年、誰かが乾杯を提案して、エリナが問いかける。
「今年に」マリオが言った。
「今年に」フィオナが言った。
「続けてきたことに」ゴードンが静かに言った。
「届いたことに」セレーナが穏やかに言った。
「育ったことに」ルナが言った。
「変わったことと、変わらなかったことに」ベルトが短く言った。
レインが、全員を見てから言った。
「来られたことに」
エリナが最後に言った。
「続けることが繋がることだったから、今夜ここにいられることに」
全員が湯呑みを合わせた。声が、揃っていた。練習なしに揃った。毎回言ってきたから、体に入っていた言葉の、今夜の形だった。
食事が始まった。
全員が、それぞれのことを話した。今年あったこと、来年やりたいこと、最近気づいたこと。大きな話ではなく、小さな話が多かった。ベルトが農地の土の話をした。ルナが薬草の来年の計画を話した。マリオが市場の来年の変化を予想した。ゴードンが来年の記録の計画を話した。フィオナが来年訪問したい地域を話した。セレーナが来年作ってみたい料理を話した。
レインが、少し間を置いてから言った。
「来年、春になったら、庭に花が咲く」
「そうだな」ルナが言った。「四月頃に咲く種類を選ぶつもりだ」
「四月か」レインが静かに言った。「待つことと続けることは、似ているかもしれない、というメモを、エリナからもらったことがある」
「覚えていてくれましたね」エリナが言った。
「荷物の中に入れてきた」レインが言った。「花が咲くのを待つ四月まで、その言葉を持っていようと思っている」
「その言葉は、どこから来たんだっけ」マリオが聞いた。
「ルナが言っていた言葉から来た言葉です」エリナが言った。「植物は、帰ってくる人を待っている、というルナの言葉から」
「そうか」マリオが言った。「ルナの言葉が、メモになって、レインの荷物に入った。そういう繋がりがあったんだな」
「言葉が、人から人へ渡っていく」フィオナが静かに言った。「それが、続けることの形の一つだ」
食事が終わった後、全員がしばらくテーブルに残った。
いつもは、食事が終わったら帰る人間が帰り始める。でも、今夜は誰も帰ろうとしなかった。年を越す夜だから、というよりも、今夜のこの時間が、帰るには惜しかったから、だとエリナは思った。そういう時間が、自然にできていた。それも、続けてきたことの形だった。
日付が変わる少し前に、マリオが言った。
「もうすぐ、年が変わる」
「そうですね」エリナが言った。
「来年も、続ける」マリオが言った。「それだけ言おうと思っていた」
「来年も、続ける」フィオナが繰り返した。
「来年も、続ける」ゴードンが静かに言った。
「来年も、続ける」ルナが言った。
「来年も、続ける」ベルトが短く言った。
「来年も、続ける」セレーナが穏やかに言った。
レインが、少しだけエリナを見てから言った。
「来年も、続ける」
エリナが最後に言った。
「来年も、続けます」
全員の言葉が、また揃った。
年が変わった。
台所の外から、ルシェムの夜の音が聞こえてきた。遠くで、誰かが声を上げていた。新しい年を祝う声だった。台所の中は、静かだった。でも、静かだから空虚なのではなかった。何かが続いている静かさだった。レインが言っていた言葉の、今夜の形だった。
少しして、全員が帰り始めた。マリオが「また来年」と言って出た。ゴードンが静かに頭を下げて出た。ベルトが「来年も、記録する」と短く言って出た。フィオナが「帰ってくる」と言って自分の家に向かった。セレーナが台所の片付けを始めた。
レインが帰る前に、エリナと少しだけ話した。
「今年が終わりましたね」エリナが言った。
「終わった」レインが言った。「良い終わり方だった」
「来年は、荷物を置く日が来ます」
「来る」レインが静かに言った。「荷物を置いて、実感が来て、春になって、花が咲く。その順番が、来年の形だ」
「楽しみにしています」エリナが言った。
「一つだけ」レインが言った。「今年最後に、届けたいことがある」
「どうぞ」
「来年も、手紙を書く」レインが静かに言った。「ここに拠点ができても、手紙を書き続ける。直接会える距離になっても、書き続けたい。手紙を書くことが、考えたことを言葉にする時間だから。それをやめたくない」
「私も、書き続けます」エリナが言った。「直接話せる距離になっても、手紙を書きたいと思っています。書くことで、言葉になることがある。それが、七年間で学んだことだから」
「二人とも、書き続ける」
「そうです」エリナが言った。「形が変わっても、続けることは続く。ルナが言っていた言葉です」
「そうだな」レインが言った。「場所が変わっても、続けることは続く。そういうことだ」
レインが宿に向かって歩いていく姿を、エリナは見送った。
新しい年の最初の夜の道を、レインが歩いていた。今年の最初の道は、学院からルシェムに向かう道だった。来年の最初の道は、ルシェムの宿から長屋に来る道になるだろう。その次の年は、自分の家から来る道になる。道が変わっていく。でも、来ることは変わらない。それが、続けることの形だった。
見えなくなってから、エリナは台所に戻った。セレーナがまだ片付けをしていた。
「来年も、続きますね」エリナが言った。
「そうね」セレーナが振り返って言った。「続くことが、一番大事なことよ。私は、ずっとそう思ってきた」
「お母さんと一緒に、続けてきた」
「そうよ」セレーナが穏やかに言った。「続けてきたから、今夜があった。来年も続けるから、来年の今夜がある。それだけのことよ」
「それだけのことが、全部だ」エリナが言った。
「そうね」セレーナが笑った。「全部だわ」
台所の片付けが終わってから、エリナは机に向かった。
今夜は、長いメモを書いた。
大晦日の夜。全員が揃った。セレーナが作った豆のスープが、最初に並んだ。マリオが乾杯を提案して、全員がそれぞれの言葉で言った。年が変わった。全員が「来年も続ける」と言った。レインが「手紙を書き続ける」と言った。私も書き続けると言った。道が変わっても、来ることは変わらない。続けることが、全部だ。そう思える夜だった。
書いて、引き出しに入れた。
ランプを吹き消した。
新しい年の最初の夜が、窓の外にあった。霜が降りていた。静かだった。何かが続いている静かさだった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳の最後の夜が終わって、まだ十六歳の最初の朝が来ようとしていた。来年も、窓を開ける。今日の空気を確認する。それが、変わらない習慣だった。
それが今夜、一番確かなことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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