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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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110/120

110話 庭を見て、家を決めた日

 十二月三十日の朝、エリナは五時に目が覚めた。


 窓の外がまだ暗かったが、空の端が少しずつ白くなり始めていた。昨日レインが来た。今日、庭を見に行く。その二つの事実が、目が覚めた瞬間から体の中にあった。大きな感情ではなかった。当然のことが、当然の順番でやってくる、という静かな確かさだった。エリナは布団の中でしばらくその感覚を受け取ってから、起き上がって台所に向かった。


 湯を沸かして薬草茶を作っていると、セレーナが来た。


「今日、家を見に行くのね」セレーナが言った。


「そうです。ルナとベルトさんと、レインと一緒に」エリナが答えた。


「良い日になりそうね」セレーナが穏やかに言った。特別なことを言うわけでもなく、感情を大げさにするわけでもなく、ただそう言った。その言い方が、セレーナらしかった。七年間、こういう言い方をしてきた人だった。


 九時に、レインが長屋に来た。


 昨日より顔の疲れが取れていた。宿で一晩休んだことで、旅の疲れが少し抜けたようだった。でも、目の中に何かがあった。今日という日を、ちゃんと受け取ろうとしている目だった。


「おはようございます」エリナが言った。


「おはよう」レインが言った。「今朝も、霜が降りていた」


「そうですね。今日は昨日より少し薄かったですが」


「霜の厚さを、毎朝確認しているのか」レインが言った。


「毎朝、窓を開けて空気を確認します。それが、習慣になっています」エリナが言った。「霜は、その確認の一部です」


「そうか」レインが静かに言った。「手紙に書いていたな。毎朝、窓を開けて今日の空気を確認する、と」


「覚えていてくれましたね」


「手紙に書いてあることは、全部覚えている」レインが言った。「それが、続けてきたことだから」


 ルナとベルトが来た。


 二人とも、いつも通りの顔をしていた。特別なことをしに行く、という感じではなく、仕事をしに行く、という顔だった。ルナが布の袋を持っていた。


「何が入っているんですか」エリナが聞いた。


「土を入れる袋だ」ルナが言った。「庭の土を少し持ち帰って、確認したい」


「確認する、というのは」


「土の質によって、植えられる薬草が変わる」ルナが言った。「酸性かどうか、水はけが良いかどうか、日当たりとの組み合わせで、最適な植物が違う。庭の土を見れば、何を植えるかが決まる」


「ベルトさんは、何を持ってきましたか」エリナが聞いた。


「何も持っていない」ベルトが短く言った。「目で見るだけで十分だ。山では、道具より目が大事だ」


「そうですか」


「でも」ベルトが少しだけ付け加えた。「スコップは一本借りていい」


「どうぞ」


 四人でルシェムの通りを歩いた。


 候補の家は、長屋から歩いて七分だった。道の途中で、マルタの店の前を通った。マルタが外で荷物の整理をしていて、四人を見て声をかけてきた。


「おや、みんなで揃って、どこに行くんだい」


「家を見に行きます」エリナが答えた。


「家というのは、レインさんの家かい」マルタが言った。エリナが答えた覚えもないのに、マルタはすでに状況を把握しているようだった。七年間、市場を見てきた人間の目は、説明がなくても多くのことを読む。


「そうです」エリナが言った。


「そうかい」マルタが言った。「ここに来てくれるのは、いいことだよ。大事にしてやりな」そう言って、また荷物の整理に戻った。大事にしてやりな、という言葉が、簡単な言葉だったが、重かった。マルタが言う言葉は、いつもそうだった。


 候補の家は、石造りの小さな家だった。


 壁が丁寧に積まれていて、窓枠が少し古びていたが、きれいだった。前の住人が大切に使ってきたことが、外観からわかった。玄関の前に、小さな石段があった。レインがその石段に手を置いた。石の感触を確かめるようにして、少しだけ時間をかけてから、玄関の扉を開けた。


 中に入ると、一部屋と、もう一部屋、台所が繋がっていた。窓は二つあって、一つは南向きで、もう一つは東向きだった。南向きの窓から、今日の冬の光が差し込んでいた。床は石張りで、冷たかったが、傷みが少なかった。壁は白く塗られていて、所々に年月の跡があったが、むしろそれが温かみを持っていた。


 レインが、一部屋を歩いた。歩きながら、壁を触った。床を踏んだ。窓から外を見た。特別なことは何も言わなかった。でも、目が動いていた。場所を記憶しようとしている目だった。


 庭に出た。


 南向きの、そこそこの広さがある庭だった。今は冬で、何も育っていなかったが、春になれば良い場所になりそうだという予感があった。ルナが庭に入って、最初に地面を見た。それから、しゃがんで土を少し手に取った。匂いを嗅いだ。指で握って、水分を感じた。それから立ち上がって、四方の壁の高さを確認した。冬の今、どこからどのくらいの光が入るかを、自分の体で測るように確かめていた。


 ベルトがスコップで、庭の端の土を少し掘った。十センチほど掘ってから、掘り起こした土を手で確かめた。深い場所の土質を見ていた。山で長年土を見てきた目が、庭の土に向かっていた。


 二人が確認している間、レインとエリナは庭の端に立っていた。


「どうですか」エリナが言った。


「良い庭だと思う」レインが言った。「春になったら、どうなるかを想像しようとしているが、想像できる。それが、良い庭の条件の一つだと思っている」


「どんな庭を想像していますか」


「薬草が育っている」レインが静かに言った。「ルナが選んだものが、育っている。朝、出かける前に確認できる庭だ」


「毎朝、窓を開けて空気を確認するように、庭を確認する」エリナが言った。


「そうだ」レインが言った。「お前が窓を開けるのと、同じことを、俺は庭でやりたい。それが、ここにいることの習慣になると思っている」


 ルナが戻ってきた。


「どうでしたか」エリナが聞いた。


「良い土だ」ルナが言った。「水はけが良くて、南からの光が十分に入る。フィオナの庭より、条件が良い」


「フィオナの庭より、ですか」


「そうだ」ルナが言った。「フィオナの庭は、北側の壁が少し高い。だから、午後になると日が当たらない時間がある。ここは、午後も日が当たる」


「ベルトさんは」エリナが言った。


「悪くない」ベルトが土を払いながら言った。「深い場所の土も、良い状態だ。根が張りやすい。フィオナの庭でうまく育たなかった種類も、ここなら育つかもしれない」


「それは、確かな判断ですか」


「確かとは言えない。土を見てわかることには、限界がある」ベルトが正直に言った。「でも、悪くないことは確かだ。良い可能性が、高い」


「ルナは、何を植えますか」エリナが聞いた。


 ルナが少しだけ考えた。答える前に、レインを見た。植物を見るような目で、しばらく見た。それから言った。


「眠りを助けるもの。頭が疲れた時に効くもの。それと、集中を助けるもの」ルナが言った。「レインが夜遅くまで考える人間だということは、手紙からわかっていた。そういう人間に必要なものが、わかる」


「集中を助ける薬草も、ですか」レインが言った。


「そうだ」ルナが頷いた。「集中している時間を、長く保てるようにする。それが、仕事をする人間には必要だ」


「俺のことを、考えてくれていたんだな」レインが静かに言った。


「見ていたから、わかった」ルナが平坦な声で言った。「それだけだ」


 四人が中に戻ってから、レインがもう一度部屋を見た。


 今度は、最初に見た時とは少し違う目で見ていた。最初は、この場所を記憶しようとしていた。今は、この場所にいることを想像しようとしていた。朝、この部屋で起きる。この窓から、朝の光が入る。外に出て、庭の薬草を確認する。そういう日常を、この部屋の中で想像していた。


「決めたか」エリナが言った。


「決めた」レインが静かに言った。「ここにする」


「理由を聞いてもいいですか」


「庭が良かった」レインが言った。「ルナが良い土だと言った。ベルトが根が張りやすいと言った。南からの光が十分に入る。そういう条件が揃っている。でも、一番の理由は、それではない」


「何ですか」


「春になった庭を、想像できた」レインが言った。「薬草が育っている庭を、はっきりと想像できた。想像できた場所が、自分の場所になる。そういうものだと思っている」


 帰り道、ルナが少しだけエリナに言った。


「レインは、良い目を持っている」


「どういう意味ですか」


「見えないものを見ようとする目だ」ルナが言った。「春の庭を、今の冬の庭から想像した。それが、良い目の使い方だ。植物を見る時も、今の状態だけでなく、これからの状態を想像する目が必要だ。レインは、そういう目を持っている」


「ルナが、そういうことを言うんですね」エリナが言った。


「見ていたから、わかった」ルナが繰り返した。「今日、直接会って、さらにわかった」


「フィオナの時も、同じことを言っていましたね」


「同じことだから、同じことを言う」ルナが言った。「毎回本当のことだから、毎回言う」


 長屋に戻ってから、ゴードンに伝えた。


「一つ目の家に決めました。家主に連絡してください」


「わかりました」ゴードンが静かに言った。「正式な契約は、年明けになりますが、今日中に家主に決定の旨をお伝えします」


「よろしくお願いします」


「一点だけ」ゴードンが言った。


「何ですか」


「記録に残しておきます。何がいつ決まったかを」ゴードンが言った。「今日、家が決まった。それを、正確に記録しておきます」


「ありがとうございます」


「記録は消えない」ゴードンが静かに言った。「今日決まったことは、今日決まったこととして、ずっと残ります」


 マリオに伝えると、短く言った。


「そうか、決まったか」


「そうです」


「良かった」マリオが言った。「場所が決まると、本物になる。フィオナさんも、場所が決まってから、本物になった。レインも、そうなる」


「フィオナが言っていましたね。荷物を置いた時に、実感が来ると」


「そうだな」マリオが言った。「でも、荷物を置く前から、もう動いている。今日、庭を見に行って、決めた。それが、始まりの一歩だ」


「始まりの一歩」エリナが繰り返した。


「そうだよ」マリオが言った。「豆のペーストから始まったのと、同じだ。最初の一手が、全部の始まりだ」


 夜、全員で夕食を食べた。


 今夜のセレーナの料理は、昨夜より少し温かみがあった。大晦日に向けた料理の準備が始まっているからか、台所から出てくるものに、少し丁寧さが増していた。テーブルに着いた全員が、今日家が決まったことを知っていた。でも、誰かがそれを特別に取り上げることはなかった。当然のことが当然の形になった、という空気が、テーブル全体にあった。


 食事の途中、ルナが言った。


「薬草の種類を、決めた」


「もう決めたんですか」エリナが少し驚いて言った。


「庭を見たから、決められた」ルナが言った。「眠りを助けるもの、頭の疲れに効くもの、集中を助けるもの。それに加えて、もう一種類」


「何ですか」


「春に花が咲くもの」ルナが平坦な声で言った。「薬草としての効能はない。でも、花が咲くと、庭に来たいと思うようになる。庭に来たいと思うと、庭の変化を見るようになる。見るようになると、植物との関係ができる。それが必要だと思った」


「花が咲くものを、植えてくれるんですか」


「そうだ」ルナが頷いた。「レインは、見えないものを見る目を持っている。花が咲いた時に、その目がより良くなると思った」


 レインが少しだけ、ルナを見た。


「ありがとう」レインが言った。


「どういたしまして」ルナが言った。それから少し間を置いて付け加えた。「花の世話は、自分でするように」


「わかった」レインが言った。


「自分で世話をした花は、特別に見える」ルナが静かに言った。「それが、庭を自分の場所にすることだ」


 食事が終わった後、エリナとレインが事務室で少し話した。


「今日、決まりましたね」エリナが言った。


「決まった」レインが言った。「春の庭が、今から楽しみだ」


「来年の春に、花が咲きます」


「その頃には、荷物を置いた後になっているはずだ」レインが言った。「フィオナが言っていた、荷物を置いた時に実感が来ると。その後で、花が咲く春が来る」


「順番が、良いですね」エリナが言った。


「そうだな」レインが静かに言った。「順番が、ちょうど良い。急がなかったから、この順番になった」


「急がないで、でも止まらない」


「それが、俺たちのやり方だから」レインが言った。


 少しだけ間があった。外から、冬の風の音が聞こえた。それ以外は、静かだった。何かが続いている静かさだった。


「一つだけ、届けたいことがある」レインが言った。


「どうぞ」


「師匠が退く時に、最後に言った言葉がある」レインが静かに言った。「お前が続けることが礼だ、という言葉だ。それを聞いて、俺も同じことを思った」


「何をですか」


「お前が続けてきたことが、俺が来られた理由だ」レインが言った。「七年間、続けてきたから、今日がある。急がなかったから、ここまで来た。それが、一番届けたかったことだ」


 エリナは、その言葉を受け取った。整理しなかった。分析しなかった。ただ、受け取った。


「私も、同じことを思っています」エリナが静かに言った。「あなたが続けてきたから、今日がある。二人が続けてきたから、今日がある」


「そうだな」レインが言った。「二人が続けてきたから、だ」


 その夜、エリナは机に向かった。


 今日のことを、短いメモに書いた。


十二月三十日。家を見に行った。レインが決めた。春の庭を想像できた、と言っていた。ルナが花を植えると言った。自分で世話をするように、とも言った。ゴードンさんが記録した。マリオが始まりの一歩だと言った。二人が続けてきたから、今日がある。それが、今日の全部だ。


 書いて、引き出しに入れた。それから、もう一枚、紙を取り出した。レインへの手紙を書いた。今夜は、宿に帰ったレインに向けて。


『レインへ。今日、家を決めましたね。春の庭が楽しみです。花が咲く頃には、あなたの庭になっています。ルナが言っていました。自分で世話をした花は、特別に見える、と。その言葉が、正確だと思います。明日、大晦日です。セレーナが、少し手の込んだ料理を準備しています。年を越す準備はしなくていい、と言っていましたが、セレーナは自分のしたいことをします。それが、この場所の形です。待っています。エリナ。』


 ランプを吹き消した。


 冬の夜が、窓の外にあった。明日は大晦日で、明後日が元旦で、その頃にはレインの家が決まっていて、荷物を置く日を待っている。そういう冬の、今夜だった。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。今日、家を決めた。春の庭を想像できた、という言葉を受け取った。二人が続けてきたから、今日がある、という言葉も受け取った。それが今夜、一番大事なことだった。

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