109話 師匠の最後の日と、レインが来た夜
十二月二十五日、師匠が学院で最後の日を過ごした。
エリナはその日、ルシェムにいた。師匠の最後の日に立ち会うことはできなかったが、レインが後で手紙に書いてくれると思っていた。だから、その日のルシェムのことを、丁寧に過ごすことにした。師匠が学院で最後の仕事をしている時、エリナは作業場で石鹸の型を確認していた。ルナが薬草の棚を整理していた。ベルトが農地の冬の記録をまとめていた。マリオが市場で顔を作っていた。ゴードンが年末の帳簿を締めていた。フィオナが自分の家の庭の薬草に水をやっていた。全員が、いつも通りのことをしていた。それが、師匠の最後の日に、ルシェムができることだった。
十二月二十八日、レインが学院を出た。
その日も、エリナはルシェムにいた。学院がどこにあるかは知っていた。王都の東側、石の塀に囲まれた建物の中に、霜の降りる石畳があって、光の入る図書室があって、レインが七年以上過ごしてきた廊下があった。その廊下を、今日レインが最後に歩いた。エリナはその景色を、想像することしかできなかった。でも、想像できた。手紙を通じて、あの場所のことを、自分の目で見てきたように知っていたから。
その日、エリナはレインへの短い手紙を書いた。
『レインへ。今日、学院を出ますね。どんな朝だったか、来た時に教えてください。あなたが歩いた廊下の冷たさと、最後の石畳の音を、聞かせてほしいです。待っています。エリナ。』
送ることはできなかった。レインは今日、出発しているから、手紙が届く前に来てしまう。だから、この手紙は引き出しの中に入れた。来た時に、直接渡すことにした。
十二月二十九日の朝、エリナは四時半に目が覚めた。
いつもより二時間近く早かった。窓の外は、まだ完全に暗かった。霜が降りているかもしれない、と思って窓を開けた。冷たい空気が一気に入ってきた。霜が、今年一番厚く降りていた。地面が白く輝いていた。街灯の明かりを受けて、霜の粒がそれぞれ光っていた。エリナはしばらく、その景色を見ていた。今日、レインが来るかもしれない。この霜が降りている朝に、ルシェムに向かって馬を走らせているかもしれない。その実感が、四時半の暗い空気の中で、静かに確かなものとして体の中にあった。
台所に行って、湯を沸かした。薬草茶を作った。セレーナはまだ眠っていた。ルナも、マリオも、まだ来ていなかった。朝早い長屋の台所に、エリナ一人がいた。薬草茶の温かさを両手で感じながら、今日という日を少し考えた。今日か、明日、レインが来る。来たら、何かが変わる。変わることと変わらないことが、また少し動く。でも、大きな感情は来なかった。当然のことが、当然の形でやってくる、という静かな確かさがあるだけだった。
午前中から、ルシェムはいつも通りに動いた。
マリオが市場に行った。ルナが作業場で薬草を確認した。ゴードンが年末の記録を続けた。ベルトが農地から帰ってきて、今日の記録を書いた。フィオナが庭の薬草を確認してから、長屋に来た。エリナは各町への年末の供給確認を進めた。誰もが、特別なことをしなかった。でも、全員が、今日か明日レインが来ることを知っていた。その知識が、いつも通りの仕事の背景に、静かに置かれていた。
昼頃、マリオが市場から戻ってきた。
「マルタさんが聞いていた」マリオが長屋に入りながら言った。「レインさん、今日来るのかって」
「どうして知っているんですか、マルタさんが」エリナが少し驚いて言った。
「俺が話したわけじゃない」マリオが言った。「でも、マルタさんは、市場の空気で何かがわかるんだよ。今日のエリナの顔が、いつもと違うと言っていた。そういう顔をしている時は、何かあると、マルタさんは言っていた」
「また顔の話ですか」エリナが言った。
「顔が正直だから、みんなが見るんだよ」マリオが笑った。「で、今日来るかもしれない、と伝えたら、マルタさんが「そうかい、じゃあ石鹸を一つ多めに取り置きしておくよ」と言っていた」
「石鹸を取り置きする理由が、よくわかりませんが」エリナが言った。
「マルタさんなりの歓迎の仕方だよ」マリオが言った。「誰かが来る時に、その人が使うものを準備しておく。それが、マルタさんのやり方だ」
午後の三時を過ぎた頃、窓の外から馬の蹄の音が聞こえてきた。
エリナは作業場にいた。ルナと一緒に、薬草の棚の最終確認をしていた。蹄の音は、ゆっくりとした速さで近づいてきた。疲れた馬が、最後の力で歩いているような音だった。エリナは手を止めた。ルナが棚から目を離さないまま、静かに言った。「来たんじゃないか」
エリナは作業場を出た。
長屋の前に、馬が止まっていた。馬の上に、レインがいた。厚手の外套を着ていて、顔に旅の疲れがあった。でも、目はいつものレインの目だった。エリナを見た瞬間、その目が少し変わった。
「来た」レインが言った。
「来てくれた」エリナが返した。
いつもと同じやり取りだった。でも、今回は少し違う重みがあった。学院から来た、ということが、その二言の中にあったから。
「寒かったですか」エリナが言った。
「寒かった」レインが馬から降りながら言った。「でも、悪くなかった。冬の道は、静かだ」
「霜が、今年一番厚かったです。今朝」
「学院の石畳も、厚かった」レインが言った。「最後に歩いた」
「音は」
「した」レインが静かに言った。「今年で一番の音だったかもしれない」
マリオが長屋から出てきた。
「いらっしゃい、レイン」マリオが言った。「寒そうな顔をしているな」
「寒かった。でも、着いた」
「着いたなら、それでいい」マリオが言った。「荷物を降ろすのを手伝うよ。馬は、俺が預けてくる場所を知っている」
「助かる」レインが言った。
馬の鞍に、いくつかの荷物がつけられていた。多くはなかった。でも、それぞれの荷物が、丁寧に包まれていた。一番上に、小さな布の包みがあった。エリナの目がそこに止まると、レインが言った。
「それが、メモだ」
「引き出しに入れてきたメモですか」
「そうだ。荷物の一番上に入れた」レインが静かに言った。「最初に取り出せる場所にした」
ルナが作業場から出てきていた。
少し離れた場所に立って、レインを見ていた。じっくりと見ていた。植物を見る時の目で、人間を見ていた。レインがその視線に気づいて、ルナを見た。
「ルナ殿」レインが言った。
「初めて、直接会う」ルナが静かに言った。
「そうだな。手紙でのやり取りはあったが、直接は初めてだ」
「見ていた」ルナが言った。「手紙の言葉から」
「どんな人間だと思っていたか」
ルナが少しだけ間を置いた。考えているというよりも、確認しているような間だった。
「言葉が少ないが、正確な人間だと思っていた」ルナが言った。「実際に会って、そうだとわかった」
「それは、ルナ殿も同じだ」レインが言った。
「そうか」ルナが静かに頷いた。「庭を見に行く。明日、一緒に行っていいか」
「聞いていた。一緒に行こう」
「ベルトも来る」ルナが言った。「土を見る目がある」
「それは、助かる」
夕方、セレーナが台所で食事の準備を始めた。
約束通り、手の込んだ料理を作っていた。豆のスープだけでなく、ラム肉の煮込みと、焼いた根菜と、セレーナが得意な香草のパンも焼いていた。台所に良い匂いが広がっていた。レインが台所の入り口に立った時、セレーナが顔を上げて言った。
「来てくれましたね、レインさん」
「来ました」レインが言った。「今年もお邪魔します」
「今年は、もう少し長くいるんでしょう」セレーナが穏やかに言った。
「そうなります」
「それは、良いことですよ」セレーナが言った。「ゆっくりしていってください。急かすつもりは、まったくないから」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」セレーナが言った。「来てくれることが、嬉しいから、料理を作っているだけですよ」
夕食は、全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。今夜は八人だった。テーブルが少し狭くなった。でも、誰も気にしなかった。
食事が始まってしばらくして、マリオが言った。
「師匠の最後の日は、どうだったか」
全員が、レインを見た。レインが少しだけ間を置いてから、話した。
「静かだった」レインが言った。「師匠は、特別なことを何もしなかった。朝、いつもの時間に来て、いつもの部屋で、いつものように仕事をした。夕方になって、片付けをして、帰り際に言った。「お疲れ様でした、と言いたかったが、疲れていないから言えなかった」と」
「師匠らしい言い方だ」フィオナが静かに言った。
「そうだ」レインが言った。「俺が「先生、ありがとうございました」と言ったら、「礼はいらない。お前が続けることが、礼だ」と言って帰っていった」
「お前が続けることが礼だ、か」マリオが静かに繰り返した。「それが、師匠の最後の言葉だったのか」
「そうだ」
テーブルが、少しだけ静かになった。誰かが何かを言う前に、ルナが言った。
「植物も、同じだ」
「植物も、ですか」エリナが聞いた。
「育てた人間がいなくなっても、根があれば育ち続ける」ルナが平坦な声で言った。「師匠が言ったことと、同じことだ。続けることが、育てた人間への礼になる」
誰も何も言わなかった。でも、全員が頷いていた。
食事が終わった後、フィオナが帰り際にレインに言った。
「家を探しているんだろう。明日、庭を見に行くと聞いた」
「そうだ。ルナとベルトが一緒に来てくれる」
「ゴードンさんが候補を出してくれているから、そちらも見ておくといい」フィオナが言った。「それと、一つだけアドバイスをいい」
「聞く」
「初めて荷物を置いた時に、実感が来る」フィオナが静かに言った。「書類が整った時でも、家を見た時でもなく、荷物を置いた瞬間に、本物になる。だから、焦らなくていい。荷物を置く日まで、続く実感があればいい」
「そうか」レインが言った。「フィオナがそういうことを言うのか」
「私も、経験したから言える」フィオナが言った。「七年間で、いろんなことを経験した。それが言葉になる。それが、続けてきたことの形だ」
全員が帰った後、エリナとレインが事務室に残った。
今夜、レインは宿をとっていた。マリオが手配してくれていた。でも、帰る前に、少しだけ話す時間があった。
「来てくれましたね」エリナが言った。
「来た」レインが言った。「道は長かったが、悪くなかった」
「冬の道が、静かだったんですね」
「そうだ」レインが言った。「ルシェムに近づくにつれて、静かさの質が変わった。王都の近くの静かさと、ルシェムの近くの静かさが、違う」
「どう違いますか」
「王都の静かさは、何かが止まっている静かさだ」レインが静かに言った。「ルシェムの静かさは、何かが続いている静かさだ。その違いが、近づくにつれてわかった」
「何かが続いている静かさ」エリナが繰り返した。
「そうだ。ここでは、みんながそれぞれのことを、静かに続けている。その続いているものが、静かさを作っている」
少しだけ間があった。エリナは、引き出しから手紙を取り出した。十二月二十八日に書いた手紙だった。渡せなかった、送れなかった手紙だった。
「これを、渡したかった」エリナが言った。
レインが受け取って、開けた。読んだ。
「どんな朝だったか、来た時に教えてください、と書いてある」レインが言った。
「教えてください」
「霜が、今年一番厚く降りていた」レインが静かに言った。「石畳が、全部白くなっていた。歩くと、音がした。今年で一番の音だった。最後に歩いた廊下は、霜で少し滑った。でも、転ばなかった」
「転ばなかった」エリナが言った。「それは、良かったです」
「そうだな」レインが少しだけ笑った。「転んでいたら、情けなかった」
「でも、もし転んでいたとしても、それを手紙に書いてくれたと思います」
「書いていた」レインが言った。「本当のことしか書かないから」
レインが宿に向かう前に、長屋の前で少しだけ話した。冬の夜の空気は、冷たかった。息が白くなった。でも、二人で立っていると、その冷たさが気にならなかった。
「明日、家を見に行きます」エリナが言った。
「ルナとベルトと一緒に」
「そうです。庭が南向きの家が、一番良いと思っています」
「庭が南向きだと、薬草が育ちやすい」レインが言った。
「そうです。ルナが、来てから何を植えるかを決めると言っていました。でも、眠りを助ける薬草は絶対に植えると言っていました」
「そうか」レインが静かに言った。「ルナは、手紙から見ていたのか」
「見ていました。ずっと」
「そうか」レインが繰り返した。「それは、少し、ありがたいことだな」
「ルナは、大事なものを見ている人間だから、見られていることは、大事にされているということだと思います」
「また来ます」レインが歩き出しながら言った。
「今夜の宿から、ですか」エリナが言った。
「明日」レインが言った。「庭を見に行くために。それと、荷物を置く日のために。フィオナが言っていた、荷物を置いた時に実感が来ると」
「来る前から、準備は整っていましたよ」エリナが言った。
「知っている」レインが静かに言った。「でも、俺自身の実感が、まだここまで来ていない。荷物を置いた日に、来ると思っている」
「楽しみにしています」エリナが言った。「その実感が来る日を」
「もうすぐだ」レインが言った。
エリナは、レインの背中が夜の道の中に消えていくのを見た。今夜は、宿に帰る背中だった。でも、もうすぐ、ルシェムに置かれた荷物のある場所に帰る背中になる。その背中を見ながら、エリナは少しだけ、その日を想像した。想像して、良かった、と思った。
部屋に戻って、短いメモを書いた。
今日、レインが来た。石畳の音が、今年一番だったと言っていた。転ばなかったとも言っていた。何かが続いている静かさが、ルシェムにはあると言っていた。明日、庭を見に行く。荷物を置く日は、もうすぐだ。それを、楽しみにしている。
書いて、引き出しに入れた。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。今日、レインが来た。来ると言ったから、来た。それが、続けてきたことの形だった。それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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