108話 十二月が来て、準備が整う
十二月になった。
ルシェムに、本格的な冬が来た。朝の霜が厚くなり、日が暮れるのが一年で一番早くなり、市場に出てくる人たちが防寒着の襟を立てて歩くようになった。エリナは毎朝、台所の窓を開けた。今日の空気を確認した。今日も冬の空気だった。でも、十一月の冬とは少し違う種類の冷たさがあった。十二月の冬は、重みがあった。重いが、嫌いではなかった。レインが来る月だったから。
十二月の最初の週に、ゴードンが報告に来た。
机の上に一枚の紙を置いた。候補に挙げていた家の、家主からの返事だった。
「一つ目の家の家主から、連絡がありました」ゴードンが言った。「レイン殿が来られた時に、実際に見ていただいた上で判断していただいて構わない、とのことでした。それまでの間、他への話は断っておく、とも言っていただきました」
「それは、助かります」エリナが言った。「家主の方は、どういう人ですか」
「七十代の女性です」ゴードンが言った。「長年、織物の仕事をされていた方で、最近は体の都合で仕事を減らされているとのことです。家を大切にしてくれる人に使ってほしい、とおっしゃっていました」
「大切にしてくれる人に使ってほしい」エリナが繰り返した。「それは、レインに合っていると思います」
「私もそう思いました」ゴードンが静かに言った。「家主の方に、どういう人が来るかをお伝えしたところ、学院の魔法師だった方が、ここに拠点を作りたいと思っている、とお伝えしました。すると、「魔法師の方が、こういう小さな家に来るのですか」とおっしゃっていました」
「どういう意味で言っていたんですか」
「驚かれていました。でも、悪い驚きではなかったと思います」ゴードンが言った。「「それは、面白い話ですね」と言っておられましたから」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。面白い話ですね、と七十代の家主が言った。それは、正確な言葉だと思った。学院の魔法師が、小さな家の庭に薬草を植えて、ルシェムに拠点を作る。確かに、面白い話だった。そして、その面白い話が、七年間かけて積み上がってきたことの延長線上にあった。
同じ週に、フィオナが地方から戻ってきた。
今回の訪問は、前回とは違う三カ所だった。ダリウスの人脈を使って開拓した新しい場所で、前回の経験を活かして動いていた。長屋の前に馬で帰ってきたフィオナは、前回より少し疲れた顔をしていたが、目の中に何かを持ち帰ってきた顔もしていた。
「帰ってきた」フィオナが馬から降りながら言った。
「帰ってきましたね」エリナが答えた。「今回は、どうでしたか」
「前回より、難しかった」フィオナが正直に言った。「前回訪問した場所は、すでに衛生教育への意識が高かった。今回は、そうでない場所もあった。石鹸を使うことが、なぜ大事なのかから説明しなければならなかった」
「それは、大変でしたね」
「大変だったが、必要なことだった」フィオナが言った。「意識が高くない場所こそ、届けることが大事だから。意識がある場所にだけ行っていれば、楽だ。でも、それでは広まらない」
「フィオナらしい考え方ですね」エリナが言った。
「あなたから学んだ考え方だ」フィオナが言った。「届けるべき場所に届けることが目的だ、と言っていたのは、あなただ。その言葉を、今回も持っていった」
翌日、フィオナが体を休めてから、長屋で報告をした。
ゴードンが記録のために同席した。
「今回の三カ所の状況を、正直に言う」フィオナが言った。「一カ所目は、農村の小さな学校だった。先生が一人で全学年を教えている場所で、衛生教育を加えることへの関心はあったが、時間がないという問題があった。これは、教える内容を極限まで絞る必要がある」
「どのくらいまで絞れますか」ゴードンが聞いた。
「手を洗うこと、傷の手当てをすること、この二つだけに絞れば、十五分で教えられる」フィオナが言った。「それだけでも、やらないよりははるかに良い。始まりは、十五分でいい」
「二カ所目は」エリナが促した。
「漁村の学校だった」フィオナが言った。「こちらは、ジルカさんが届けている消毒液が、すでに村の一部で使われていた。先生が、消毒液のことを知っていた。だから、説明が早かった。知っていることが一つあると、次の一つが届きやすくなる」
「繋がっていた」エリナが静かに言った。
「そうだ」フィオナが頷いた。「ジルカさんが届けてきたものが、現場での説明の基盤になっていた。一人の仕事が、別の人間の仕事を助けることがある。これがその例だった」
「三カ所目は」
「山の近くの村だった」フィオナが少しだけ間を置いてから言った。「ここが、一番難しかった。先生が、外から来る知識に対して、少し壁を持っていた。自分たちのやり方がある、という意識が強かった」
「どう対応しましたか」
「押しつけなかった」フィオナが静かに言った。「壁がある時に、力で突破しようとすると、壁が厚くなる。だから、先生が大事にしているものを、まず聞いた。先生が大事にしていることを、こちらが尊重していることを、言葉ではなく態度で示した。その上で、一つだけ提案した。まずは、石鹸を使ってみることだけ、試してほしいと」
「結果は」
「まだわからない」フィオナが言った。「でも、帰り際に先生が「考えてみます」と言ってくれた。それで十分だ。考えてみる、という言葉が出たということは、壁が少し開いたということだ」
「フィオナが、そういう動き方をするようになったんですね」エリナが言った。
「あなたが言っていた言葉だ」フィオナが言った。「急がない、でも止まらない。壁がある時こそ、急いではいけない」
十二月の第二週に、ルナが珍しいことを言った。
作業場で薬草の整理をしていたエリナに、ルナが近づいてきて言った。
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「レインが来た時、私が一緒に家を見に行ってもいいか」
エリナは少しだけ、ルナを見た。ルナが、こういう申し出をするのは珍しかった。ルナは、自分から動くことより、求められて動くことの方が多い人間だった。
「もちろんです。なぜですか」
「庭を見たい」ルナが平坦な声で言った。「どういう庭かによって、何を植えるかが変わる。実際に見ないと、正確に判断できない」
「そういう理由ですか」
「それだけではない」ルナが少しだけ間を置いてから言った。「レインに、直接会いたい。手紙の言葉から見てきた人間に、実際に会って確かめたい」
「確かめたい、というのは」
「手紙で見えていたことが、実際に会うと、もっとよく見える」ルナが言った。「フィオナの時もそうだった。手紙で知っていたより、実際に会った方が、もっとよくわかった。レインも、そうなると思う」
エリナは、ルナの言葉を受け取った。手紙の言葉から見てきた人間、という表現が、ルナらしかった。ルナはずっと、言葉の奥にある人間を見てきた。植物を見るように、人間を見てきた。その目が、レインを実際に見たいと言っていた。
「一緒に来てください」エリナが言った。「ルナが見てくれた方が、良い庭になります」
「わかった」ルナが短く頷いた。それから少しだけ付け加えた。「ベルトも連れて行っていいか」
「ベルトさんも、ですか」
「ベルトは、土を見る目がある」ルナが言った。「庭の土の状態を見てもらえれば、何を植えるかの判断が正確になる」
「では、ルナとベルトさんと一緒に、家を見に行きましょう」エリナが言った。
十二月の半ばに、レインから短い手紙が届いた。
エリナへ。十二月二十五日に、師匠が最後の日を学院で過ごす。二十八日に、俺が学院を出る。荷物は、多くない。でも、大事なものは全部持っていく。ルシェムまでの道は、二日かかる。三十日か、早ければ二十九日には着く。年を越す準備は、しなくていい。俺が行く前から、ルシェムはちゃんとルシェムだから。レイン。
エリナはその手紙を読んで、「俺が行く前から、ルシェムはちゃんとルシェムだから」という一行を少しだけ見た。年を越す準備はしなくていい、という言葉の意味が、その一行の中にあった。特別な準備をしなくても、ルシェムはルシェムとして存在している。そこに来ることが、準備の完成だ、という意味だとエリナは受け取った。
『レインへ。師匠の最後の日を、一緒に過ごしてあげてください。二十九日か三十日に、待っています。年を越す準備はしないでおきます。でも、一つだけします。窓を開けておきます。毎朝開ける窓を、あなたが来る日の朝も開けます。それが、私の準備です。エリナ。』
手紙を封じてから、エリナはセレーナに声をかけた。
「お母さん、レインが二十九日か三十日に来ます。年を越すかもしれないと言っていました」
セレーナが少しだけ手を止めて、エリナを見た。それから穏やかに言った。
「そうか。では、大晦日の食事は、少し手の込んだものを作ろうかしら」
「年を越す準備はしなくていい、とレインが言っていました」
「あら」セレーナが笑った。「それは、レインさんがそう言っているだけで、私は私のしたいことをするわよ。あの子が来て、一緒に食卓を囲む。それは、大事なことだから、大事なように準備する。それだけのことよ」
エリナは、母の言葉を受け取った。自分のしたいことをする。レインが準備はいらないと言っても、セレーナは自分が大事だと思うことをする。その独立した温かさが、七年間変わらずにあった。
「ありがとうございます」エリナが言った。
「礼はいらない」セレーナが言った。「あなたにとって大事な人が来る。それが、私にとっても嬉しいことだから、するだけよ」
十二月の後半に入ると、ルシェムの空気がさらに変わった。
霜が朝だけでなく、日中も少し残るようになった。フィオナの庭の薬草が、ルナの手当てのおかげで、冬の寒さの中でも枯れずに緑を保っていた。ベルトの農地は、冬の管理体制に切り替わって、春の芽吹きに向けた準備が静かに進んでいた。マリオは市場での顔作りを、冬の間も変わらず続けていた。ゴードンは年末の記録整理を、几帳面に進めていた。
全員が、それぞれの場所で、冬を続けていた。
続けることに、理由はなかった。続けてきたから、続けていた。それが、続けることの一番自然な形だと、エリナは思っていた。
十二月の二十四日の夜、エリナは机に向かった。
明日、師匠が最後の日を学院で過ごす。二十八日に、レインが学院を出る。そして、二十九日か三十日に、ルシェムに来る。そこまでが、残り五日の出来事だった。五日は、長くなかった。でも、短くもなかった。その五日の間にも、ルシェムは動き続けていた。
エリナは短いメモを書いた。
十二月。レインが来る月。師匠が退く月。全部が動いている。でも、いつも通りも続いている。それが、この冬の形だ。来る日を楽しみにしながら、今日を続ける。それが、今の私の一番の仕事だ。
書いて、引き出しに入れた。それから、机の引き出しの中のレインからの手紙を少しだけ見た。何百通と積み上がってきた手紙が、今年も増え続けていた。一番下に、九歳の頃に届いた最初の手紙がある。一番上に、今週届いた短い手紙がある。それだけの時間が、この引き出しの中にあった。
ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度窓の外を見た。冬の夜空に、星が出ていた。冷たい空気の中で、星は鋭く光っていた。あと五日で、レインが来る。来年の冬も来る約束がある。その次の冬も来るだろう。毎年、同じ約束が続いていく。それが、続けることだった。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。あと五日で、レインが来る。その前から、もう準備は整っていた。整えてきた七年間が、準備だったから。それが今夜、一番確かなことだった。
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