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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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107/120

107話 冬の準備と、二人の時間

 十一月の後半になって、ルシェムは本格的な冬の支度を始めた。


 市場の店々が、軒先に防寒の布を垂らし始めた。道を歩く人たちの服が、一枚また一枚と厚みを増していった。井戸の周りに、凍結を防ぐための藁が巻かれた。そういった小さな変化が、ルシェムの冬の来方だった。エリナは毎朝、台所の窓を開けて今日の空気を確認したが、今月に入ってからは確認するまでもなく、顔に当たる冷たさだけで十分に冬を感じることができた。それでも、窓を開けることをやめなかった。開けることそのものが、習慣であり、この場所との対話だと感じていたから。


 その朝、エリナは窓を開けながら、十二月二十八日という日付を頭の中で確認した。


 レインが来る日だった。今年初めて、ルシェムで年を越すかもしれないと言っていた日だった。残りは、もう一ヶ月を切っていた。それが、今朝の冷たい空気よりも先に体の中に来るものとして、エリナの中にあった。


 台所に行くと、セレーナがすでに湯を沸かしていた。二人で薬草茶を飲みながら、しばらく何も言わなかった。沈黙が不快でないのは、長い時間を一緒に過ごしてきたからだと、エリナは思った。言葉がなくても、お互いがそこにいることで、十分なことがある。それも、続けてきたことが作った形の一つだった。


 午前中、エリナはゴードンが出してくれた三つの家の候補を、改めて確認した。


 候補の一つ目は、長屋から歩いて七分の場所にある石造りの家だった。一部屋と書斎として使えるもう一部屋、それに台所と、南向きの小さな庭があった。前の住人が丁寧に使っていた家で、壁にほとんど傷みがなかった。二つ目は、フィオナの家から歩いて三分ほどの場所にある、少し古い家だった。広さは一つ目より少しあったが、庭の向きが北で、日当たりが良くなかった。三つ目は、市場に近い場所にあって便利だったが、庭がなかった。


 エリナは三つの候補を見比べながら、フィオナが言っていた言葉を思い出した。庭があるところを選んだ方がいい、と言っていた。ルナが植えてくれる薬草が、帰ってきた、という感覚を作ってくれると。それを聞いた時、エリナには迷いがなかった。一つ目の家が、一番良いと思った。


 ゴードンにその考えを伝えると、ゴードンは静かに頷いた。


「一つ目の家は、家賃も適切な金額ですし、状態が良いので修繕の費用もかかりません。レイン殿が来た時に、実際に見ていただいて、最終的に判断してもらえれば良いと思います」とゴードンが言った。


「レインが来た時に、一緒に見に行きます」エリナが答えた。「でも、今のうちに家主に話をしておいてもらえますか。希望があれば抑えておきたい、という段階で」


「わかりました。今日中に連絡してみます」ゴードンが言い、帳簿を持って事務室を出た。


 昼過ぎ、フィオナが長屋に来た。


 今日は特に用事があるわけではなさそうだったが、フィオナはそういう来方をすることが増えていた。以前は、仕事の話がある時に来ていた。今は、来たいから来る、という理由で来ることが自然になっていた。それが、ルシェムが帰ってくる場所になった証拠だと、エリナは思っていた。


「家の候補、決めたか」フィオナが台所の椅子に座りながら言った。


「一つ目が良いと思っています」エリナが答えた。「庭が南向きで、日当たりが良い。ルナが薬草を植えやすい場所です」


「ルナに相談したのか」


「ルナは、会ってから決める、と言っていました。でも、眠りを助ける薬草は絶対に入れる、とも言っていました」


 フィオナが少しだけ笑った。薬草茶を一口飲んでから、窓の外を見た。今日のルシェムは、雲が低く垂れていて、冬らしい空の色をしていた。


「私が来た時も、ルナは同じことを言っていた」フィオナが言った。「あなたが言うには、フィオナさんは疲れていることがあるから、と言って、疲れに効くものを選んでくれた。見ていたから、わかったと言っていた」


「ルナは、いつも見ています」エリナが言った。


「手紙を読んでいた時から、レインのことも見ていたと言っていたな」フィオナが言った。「夜遅くまで考える人間だ、と。だから、眠りを助ける薬草は絶対に入れると言った。直接会ったことがないのに、手紙の言葉から、そういうことがわかる」


「ルナは、言葉の奥にある人間を見ている」エリナが静かに言った。「植物を見るのと、同じようにして」


 フィオナがその言葉を聞いて、少しだけ黙った。それから頷いた。「正確な言い方だと思う」と言った。


 夕方、エリナはベルトの農地の冬支度の報告書を読んだ。


 今年の農地の成果は、ベルトが丁寧にまとめてくれていた。二年目の収量、土の状態の変化、来年の計画、そしてベルトが見つけた新しい薬草の採取記録まで、一行一行が丁寧に書かれていた。山の仕事をしてきた人間が、記録することの大切さを農地で実践している姿が、その文字から感じられた。


 エリナが記録を読み終えたところに、マリオが事務室に顔を出した。


「エリナ、今夜少し話せるか」マリオが言った。いつもと少し違う声の質があった。真剣な話をしたい時の、マリオの顔だった。


「もちろんです。どうぞ」


 マリオが椅子を引いて、エリナの向かいに座った。机の上のベルトの報告書を一瞥してから、少しだけ考えるような顔をして言った。


「俺、最近よく考えることがある」


「何を考えているんですか」


「ルシェムのこれからだ」マリオが言った。「レインが来て、ここに拠点を作る。フィオナさんはもうここにいる。農地も動いている。地方の学校への展開も進んでいる。全部が広がっていっている。それは、良いことだと思っている。でも、広がっていく時に、一番大事なものを守ることを、誰かがしなければならない」


「変わらないものを守る人間が必要だ、と以前言っていましたね」エリナが言った。


「そうだよ」マリオが言った。「お前が話していた言葉を、俺が学んだんだよ。で、俺はそれが俺の仕事だと思っている。市場で顔を作り続けること。マルタさんやグレンさんとの繋がりを守ること。ルシェムの人たちと、商会の間にいること。それが、俺にしかできない仕事だと思っている」


「マリオにしかできない仕事です」エリナが静かに言った。「最初から、そうだった」


「わかってる」マリオが言った。「でも、一つだけ聞いていいか」


「どうぞ」


「俺は、この先もここにいていいか」


 エリナは少しだけ、マリオを見た。七年間、ずっと一緒にいた人間が、そういうことを聞いてきた。聞かなくてもわかることのはずだった。でも、言葉にして確認したかったのだと、すぐにわかった。


「マリオがいなければ、ここはここではありませんでした」エリナが言った。「最初に豆のペーストを食べに来てくれた時から、ずっとそうでした。これからも、ここにいてください。それが、私からのお願いです」


 マリオが少しだけ、目を逸らした。照れているのが、七年間でわかるようになっていた。


「わかった」マリオが短く言った。それから少しだけ間を置いて、「ありがとう」と言った。


「こちらこそ」エリナが言った。「七年間、ありがとうございます」


「七年間の礼を言うな、まだ終わっていないんだから」マリオが笑った。「これからも続くんだから、最後に言え」


「では、最後に言います」


「そうしてくれ」マリオが立ち上がりながら言った。「じゃあ、今夜は帰る。明日、市場に早く行かないといけないから」


 夜、エリナは机に向かった。


 マリオとの話が、まだ温かく体の中にあった。ここにいていいか、と聞いてきた。それを聞かれることが、嬉しかった。マリオは、ここにいることを、当たり前のことではなく、確かめながら続けてきた人間だった。それが、七年間、一緒にいられた理由の一つかもしれないと、エリナは思った。


 レインへの手紙を書き始めた。


「十二月二十八日が近づいています。今日は、マリオと話しました。ここにいていいか、と聞いてきました。マリオがいなければ、ここはここではなかった、と答えました。マリオが、そういうことを言葉にして確かめる人間だということが、一緒にいてきてわかったことの一つです。言葉にして確かめることで、続けられることがある。それは、手紙を書くことと、同じかもしれません。ゴードンさんが、家の候補の一つに話を入れてくれました。庭が南向きで、日当たりが良い家です。来た時に、一緒に見に行きましょう。ルナが、眠りを助ける薬草は絶対に植えると言っていました。あなたのことを、手紙から見ていたからわかる、と言っていました。来るのを、待っています。今月も、毎朝窓を開けて空気を確認しています。その空気が、少しずつ冬になっています。冬になれば、あなたが来ます。だから、今年の冬の空気は、好きです。エリナ」


 書き終えて、封をした。


 自分が書いた言葉を読み返すことは、エリナはあまりしなかった。書いた言葉は、届けるためのものだから、自分のためにとっておく必要がない。でも、今夜だけ、最後の一行を少し読み返した。今年の冬の空気は、好きです、という一行。以前なら、こういうことを手紙に書けなかっただろうと思った。感覚を言葉にすることを、長い時間をかけて学んできた。それが、今夜この一行になった。


 ランプを吹き消す前に、エリナは今日のことを少しだけ振り返った。


 ゴードンが家の候補に話を入れてくれた。フィオナが来て、ルナの話をした。マリオが、ここにいていいかと聞いてきた。全部が、今日の出来事だった。大きなことは何も起きなかった。でも、全部が大事だった。特別でない日が続くことで、特別な日が届く。セレーナが言っていた言葉が、今夜もそのまま当てはまった。


 ランプを吹き消した。


 冬の夜が、窓の外にあった。霜が降りているかもしれなかった。明日の朝、窓を開けて確認する。それが、変わらない習慣だった。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。今夜、マリオがここにいていいかと聞いてきた。ここにいてください、と答えた。それが今夜、一番大事なことだった。

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