105話 秋の深まりと、それぞれの準備
十月になった。
秋が深まった。
朝の空気が、指先に刺さるような冷たさを持ち始めた。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
今日の空気を確認した。
今日は、冬が近づいている空気だった。
霜が降りるのは、もう少し先だった。
でも、その予感が、空気の端にあった。
冬が近づくということは、レインが来る時期が近づくということだった。
十月になってから、それぞれが準備を始めた。
準備の形は、それぞれ違った。
でも、全員が何かに向けて動いていた。
ゴードンは、記録の整理を始めた。
「今年の記録を、年末に向けてまとめています」ゴードンが言った。
「今年は、記録することが多かったですね」エリナが言った。
「そうですね」ゴードンが静かに言った。「名誉回復の決定。宮廷資料への記録。農地の二年目の成果。地方学校への講習の開始。師匠の退職の準備。全部が、今年の記録になります」
「全部が、一年の中に入っていたんですね」
「そうです」ゴードンが言った。「でも、一気に起きたのではない。一つずつ、積み上がってきた結果が、今年に集まった」
「積み上がってきた結果が、今年に集まった」エリナが繰り返した。
「そういう年があります」ゴードンが静かに言った。「準備してきたものが、一度に形になる年が。今年が、そういう年だったと思います」
ルナは、薬草の冬の保管を始めた。
「今年も、冬の保管に切り替えます」ルナが棚を見ながら言った。
「毎年、同じことをしているんですね」エリナが言った。
「同じことが大事だ」ルナが言った。「毎年、同じようにすることで、毎年同じ品質が保てる」
「変わらないことが、品質を守る」
「そうだ」ルナが頷いた。「変わることと、変わらないことが、両方必要だ。変えるべきことを変えて、変えてはいけないことは変えない」
「何を変えて、何を変えないか、どうやって判断しますか」
「植物を見ればわかる」ルナが静かに言った。「植物は、正直だから。うまくいっている時は、ちゃんと育つ。変えすぎた時は、育ちが悪くなる。それが、判断の基準だ」
ベルトは、農地の冬の準備を始めた。
「冬になると、農地の仕事が変わる」ベルトが言った。
「どう変わりますか」
「育てることから、守ることに変わる」ベルトが短く言った。「夏は育てることが仕事だ。冬は、育てたものを守ることが仕事だ」
「守る、というのは」
「霜から守る。雪から守る。寒さで根が死なないようにする」ベルトが言った。「育てることより、守ることの方が、気を使う」
「育てることと守ることが、両方必要ですね」
「そうだ」ベルトが言った。「どちらも、続けることの一部だ」
マリオは、冬に向けた市場の準備を始めた。
「冬になると、市場の動きが変わる」マリオが言った。
「毎年、同じですね」エリナが言った。
「でも、毎年少し違う」マリオが言った。「今年は、農地からの薬草が増えた。だから、薬草薬の取り扱いを増やす店が増えた。それが、去年との違いだ」
「市場が、変化に合わせて動いている」
「そうだよ」マリオが言った。「市場は、正直だ。需要があれば、自然にそっちに動く。誰かが命令しなくても、動く」
「自然に広まるものは、強い、と以前マリオが言っていましたね」エリナが言った。
「言ったな」マリオが笑った。「覚えていたのか」
「大事なことは、覚えています」
フィオナは、次の地方訪問の計画を立てていた。
「来月、もう一度地方に行こうと思っている」フィオナが言った。
「先月と同じ三カ所ですか」
「違う場所だ」フィオナが言った。「ダリウスの人脈を使って、新しい三カ所を開拓する。そこに、衛生教育を届けられるかどうかを確認しに行く」
「範囲が広がっているんですね」
「そうだ」フィオナが言った。「最初は三カ所だった。次は、また別の三カ所。それが積み重なれば、届く場所が増える」
「フィオナが動いてくれているから、広がっていく」エリナが言った。
「私が動けるのは、ルシェムが帰ってくる場所だからだ」フィオナが静かに言った。「それと、ダリウスが地方の人脈を持っているから。一人では動けない」
「一緒に動いているから、広がる」
「そうだ」フィオナが頷いた。「それが、今の形だ」
エリナも、準備をしていた。
冬に向けた供給の調整。学院への今年度最後の供給の確認。農地の冬の管理計画の確認。ベルトが見つけた新しい薬草の記録整理。
それと、もう一つ。
レインが来た時に、拠点となる家をどう探すか。
フィオナが「慌てないで選んだ方がいい」と言っていた。
候補をいくつか、ゴードンに確認してもらうことにした。
「レインさんが来る前に、候補をいくつか出しておきます」ゴードンが言った。
「お願いします」
「どういう条件が必要ですか」
「庭があること」エリナが言った。「フィオナが言っていました。庭があると、ルナが薬草を植えてくれる。それが大事だと」
「庭付きで、どのくらいの広さが必要ですか」
「フィオナの家と、同じくらいか少し広いくらい」
「わかりました。来週中に、候補を出します」ゴードンが言った。
「ありがとうございます」
「それと、エリナさん」ゴードンが静かに言った。
「何ですか」
「今日、この話をしていて、少し思ったことがある」
「どういうことですか」
「最初に採用してもらった時、エリナさんは一人で石鹸を作っていた」ゴードンが言った。「それが今日、レインさんが来る時に備えて、家を探している。変わったことと、変わらないことが、両方ある。でも、ここまで来た」
「ゴードンさんが一緒に来てくれたから、ここまで来ました」エリナが言った。
「いつものことですが」ゴードンが静かに言った。「でも、今日は少し違う言い方をしてみます。ありがとうございます」
「こちらこそ」エリナが言った。
十月の半ばに、レインから手紙が来た。
エリナへ
「全員が、違う言葉で、あなたを迎えた」という手紙を受け取った。
帰ってから、その言葉を何度か読んだ。
来るたびに、それが確かめられる。そして、また来たくなる。それが、繰り返されてきた。
師匠が、先週、正式に退く日を決めた。十二月の末だ。
俺が学院を離れるのも、同じ時期になる。
十二月の終わりに、ルシェムに行く。そのまま、年を越すかもしれない。
待っていてくれるか。
レイン
エリナはレインの手紙を読んで、「そのまま、年を越すかもしれない」という一行を少しだけ見た。
年を越す。
これまで、レインがルシェムで年を越したことはなかった。
今年が、最初になるかもしれない。
『レインへ
十二月の終わりに来てください。年を越してもいいです。
師匠が正式に退く日が決まったこと、受け取りました。師匠が退く時に、一緒にいてあげてください。
こちらでも、準備を始めています。ゴードンさんが、家の候補をいくつか出してくれます。庭があるところを探しています。フィオナのアドバイスです。
冬が近づいています。霜が降りる前の、今の空気が好きです。霜が降りることを、少し楽しみにしています。
待っています。
エリナ』*
手紙を書いた後、エリナはフィオナの家に行った。
今日は、エリナから行った。
フィオナが驚いた顔をした。
「どうした、珍しい」
「レインが、十二月の終わりに来て、年を越すかもしれないと言っていました」エリナが言った。
「そうか」フィオナが穏やかに言った。「初めての年越しだな、ルシェムで」
「そうですね」
「どんな気持ちか」
「嬉しいです」エリナが言った。「それと、少し実感が出てきました」
「何の実感ですか」
「レインがここに来て、ここが拠点になる。それが、少し実感として感じられてきました」
「実感が出てきたか」フィオナが笑った。「それは良かった。決まったことと、実感が伴うことは、少し違う。両方がある時が、本物だ」
「フィオナが拠点を作った時も、そうでしたか」
「そうだった」フィオナが言った。「荷物を運んだ日に、初めて実感が来た。書類が整ったより、荷物が来た時の方が、本物になった気がした」
「レインも、荷物を運んできた時に、実感が来るかもしれませんね」
「きっとそうなる」フィオナが言った。「荷物の中に、学院から持ってくるものがある。それが、ここに置かれた時に、本物になる」
台所で、フィオナの庭の薬草で作ったお茶を飲んだ。
「この薬草が、ここにあることが、いつも少し嬉しい」フィオナが言った。
「どういう意味ですか」
「ここが自分の場所だ、という証拠が、庭にある」フィオナが静かに言った。「毎日、水をやる。育っていることを確認する。それが、ここにいることの実感になっている」
「レインの庭にも、ルナが薬草を植えてくれるといいですね」
「ルナに頼んでみるか」フィオナが言った。
「後で、聞いてみます」エリナが言った。
「今から行くか」フィオナが笑った。「ルナは、こういう話に乗ってくれる人間だから」
「そうですね」エリナが笑った。「ルナに聞きに行きましょう」
作業場に行った。
ルナが薬草の整理をしていた。
「ルナ」エリナが言った。
「何」
「レインが冬にルシェムに来て、拠点を作ります。その家に、庭があれば、薬草を植えてほしいのですが」
ルナが少しだけ考えた。
「植える」ルナが静かに言った。
「ありがとうございます。どんな薬草を選びますか」
「レインが何を必要としているかを、見てから決める」ルナが言った。
「見てから、ですか」
「会って、見ないとわからない」ルナが言った。「フィオナの時は、見てからわかった。レインも、同じだ」
「レインが来た時に、見てくれますか」
「そうする」ルナが頷いた。「でも、一つだけ先にわかることがある」
「何ですか」
「レインは、夜遅くまで考える人間だ。それは、手紙を読んでいた時からわかっていた。だから、眠りを助ける薬草は、絶対に入れる」
フィオナが少しだけ笑った。
「ルナは、ちゃんと見ているな」
「見ている」ルナが平坦な声で言った。「ずっと見ている」
夜、エリナは机に向かった。
今日のことを、短いメモに書いた。
十月。秋の深まり。
全員が、それぞれの準備をしていた。
ゴードンさんが記録を整理した。ルナが冬の保管を始めた。ベルトが農地の冬の準備を始めた。マリオが市場の準備を始めた。フィオナが次の地方訪問の計画を立てた。
私は、レインが来る時の準備を始めた。
全員が、違う準備をしていた。でも、全部が同じ冬に向かっていた。
そして、冬に、レインが来る。
年を越すかもしれない。
ルシェムで、初めての年越しになるかもしれない。
それを、楽しみにしている。
書いて、引き出しに入れた。
ランプを吹き消した。
秋の夜が、窓の外にあった。
冷たかった。
でも、布団は温かかった。
全員が、それぞれの準備をしていた。
それが、同じ冬に向かっていた。
冬が来る。
レインが来る。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、全員が準備をしていた。
それぞれ違う準備が、同じ冬に向かっていた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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