104話 翌朝と、それぞれへの言葉
翌朝、エリナは五時半に目が覚めた。
秋の夜明け前だった。
窓の外が、まだ薄暗かった。
でも、空の端が少しずつ白くなっていた。
台所に行って、湯を沸かした。
薬草茶を作った。
窓の外を見ながら、一口飲んだ。
秋の朝だった。
今日も、レインがここにいる。
昨日決まったことが、今朝も本当のことだった。
六時頃に、セレーナが台所に来た。
「早いわね」
「目が覚めました」エリナが言った。
「昨日のことを、考えていたか」
「少し」
「どんなことを」
「昨日決まったことが、今朝も本当のことかどうかを、確かめていました」エリナが言った。
「本当のことだったか」
「本当のことでした」
「そうね」セレーナが穏やかに言った。「本当のことは、朝になっても変わらない。それが、本物の証拠だ」
「お母さんも、昨夜そう思いましたか」
「そうよ」セレーナが言った。「昨夜、あなたの顔を見て、これは本物だと思った。だから、安心して眠れた」
「お母さんが安心できるなら、良かった」
「私が心配することは、何もない」セレーナが言った。「あなたが、ちゃんと見ていてくれる。それがわかっているから」
七時頃に、レインが来た。
「おはようございます」エリナが言った。
「おはよう」レインが言った。
「よく眠れましたか」
「眠れた」レインが言った。「昨日話せたから、落ち着いた」
「私も、同じです」
「そうか」
レインが席に座った。
セレーナが薬草茶を出してくれた。
「ありがとうございます」レインが言った。
「どういたしまして」セレーナが言った。「ゆっくりしていってくださいね」
「もう一日だけ、いていいか」レインがエリナに聞いた。
「いてください」エリナが言った。「急ぐ理由がないなら」
「急がない」レインが言った。
「では、もう一日」
朝食の後、マリオが来た。
「今日も、いるのか、レイン」
「もう一日いる」レインが言った。
「それは良かった」マリオが言った。「昨日、話せなかったことがある」
「何だ」
「昨日の食事の時、何か大事なことが決まった、というのはわかった」マリオが言った。「でも、詳細を聞かなかった。今日、聞いていいか」
レインがエリナを見た。
エリナが頷いた。
「話してください」エリナが言った。
「今年の冬に、学院を離れる」レインが言った。
「そうか」マリオが少しだけ止まった。
「ルシェムに、拠点を作ることを考えている」
「フィオナさんみたいに」
「そうだ」
マリオがしばらく黙った。
それから言った。
「良かった」マリオが言った。「本当に」
「マリオも、そういう言葉を言うんですね」レインが言った。
「フィオナさんも言ったか」
「言っていた」
「あいつと俺は、違うことを考えて、同じことを言う」マリオが言った。「でも、どちらも本当のことだから、同じになる」
「違う人間が、同じ言葉になる」レインが静かに言った。
「そうだよ」マリオが頷いた。「それが、ここが良い場所だということだと思う」
ルナが作業場から出てきた。
エリナとレインが外にいるのを見て、近づいてきた。
「今日も、いるのか」ルナがレインに言った。
「もう一日いる」
「そうか」ルナが頷いた。「農地の記録を見てほしいものがある。時間があれば」
「後で、見せてくれ」
「わかった」ルナが言った。それから少しだけ間を置いた。「それと、ベルトが見つけた薬草の件だが」
「師匠から報告が来たと聞いている」
「そうだ」ルナが言った。「師匠が退いた後も、私が続ける。でも、学院側の確認も続けてほしい」
「それを、俺に頼むのか」
「学院を離れた後でも、繋がりは続くだろう」ルナが静かに言った。「学院にいるかどうかと、学院との繋がりは、別のことだ」
レインが少しだけ、ルナを見た。
「そういうことを言うのか、ルナは」
「当然のことを言っているだけだ」ルナが平坦な声で言った。「場所が変わっても、続けることは続く」
午前中、レインとルナが農地の記録を確認した。
エリナはその場に同席した。
ゴードンも来た。
四人で、今年の農地の記録を見た。
「二年目の成果が、明確に出ています」ゴードンが言った。
「どこが改善しましたか」レインが聞いた。
「腐葉土を混ぜた種類の成長速度が、一年目より三割早くなっています」ゴードンが言った。「収量も、見込みより多い」
「来年の栽培計画は、どうなりますか」
「規模を少し広げる予定です」ゴードンが言った。「ベルトさんが、来年の計画を既に考え始めているとのことです」
「ベルトが考え始めているのか」レインが少し驚いた顔をした。
「そうです」エリナが言った。「ベルトさんは、やると決めたら、準備が早い」
「山の仕事と、同じだな」レインが言った。「山では、準備不足が命取りになる。だから、準備する習慣がある」
「そうだと思います」エリナが言った。
昼食の後、フィオナが来た。
「今日も、いるのか、レイン」
「もう一日いる」
「良かった」フィオナが言った。「昨日、話せなかったことがある」
「何だ」
「ルシェムに拠点を作ることを決めた、と聞いた」フィオナが言った。「一つだけ、アドバイスをしていいか」
「聞く」
「家を選ぶ時は、慌てないで選んだ方がいい」フィオナが静かに言った。「私は、三つの候補から選んだ。それぞれに、良いところと悪いところがあった。慌てて選ぶと、後で後悔する」
「そうだな」レインが頷いた。
「それと、庭があるところを選んだ方がいい」フィオナが言った。
「なぜですか」レインが聞いた。
「ルナが、庭に薬草を植えてくれる」フィオナが言った。「それが、帰ってきた、という感覚を作ってくれる。私が経験したことだ」
「フィオナが、そういうアドバイスをするのか」レインが少し笑った。
「私も、七年間いろいろ学んだ」フィオナが言った。「ルシェムで、何が大事かを学んだ」
「庭と、薬草が大事だということか」
「庭と薬草と、帰ってくる場所がある、という感覚が大事だということだ」フィオナが静かに言った。
午後、ゴードンがレインに言った。
「一つだけ、お聞きしていいですか」
「どうぞ」
「学院を離れた後、どういう仕事をされるつもりですか」
「まだ全部は決まっていない」レインが言った。「でも、一つだけ確かなことがある」
「何ですか」
「この商会に関わり続けたい」レインが言った。「衛生教育の展開、農地の薬草の研究、ベルトが見つけた新しい薬草の確認。そういうことに、学院の外から関わる形を考えている」
「学院の外から関わる、というのは、具体的にはどういう形ですか」
「まだ設計中だ」レインが言った。「でも、ゴードン殿と一緒に考えたいと思っている。数字の人間と、研究の人間が一緒に設計すれば、良い形ができる気がする」
「それは、嬉しいことです」ゴードンが静かに言った。
「ゴードン殿が嬉しい、と言うのは、珍しいですね」レインが言った。
「今日は言えました」ゴードンが言った。「それだけのことが、積み上がってきたから」
夕方、ベルトが農地から戻ってきた。
レインを見て、短く言った。
「まだいたのか」
「もう一日いた」レインが言った。
「そうか」ベルトが言った。「農地の記録を見たか」
「見た。二年目の成果が、明確に出ていた」
「来年は、もっと出る」ベルトが短く言った。
「なぜそう思うのか」
「土が変わってきているからだ」ベルトが言った。「一年目より、土が薬草に合っている。二年目で変わった。三年目は、さらに変わる」
「土が変わる、というのは」
「育てることで、土が変わる」ベルトが静かに言った。「植物が育った場所は、植物が育ちやすい土になる。それが積み重なることだ」
「育てることで、育てやすくなる」レインが繰り返した。
「そうだ」ベルトが短く言った。
レインがエリナに言った。
「ベルトが、また大事なことを言った」
「そうですね」エリナが言った。
「育てることで、育てやすくなる。それは、人間にも当てはまるかもしれない」
「どういう意味ですか」
「続けることで、続けやすくなる」レインが静かに言った。「最初は難しかった手紙も、続けることで、届けたいことが自然に言葉になるようになった。それが、土が変わることと同じかもしれない」
「あなたらしい見方ですね」エリナが言った。
「ベルトから学んだ」レインが言った。
夕食を、全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。
いつもの顔触れだった。
食事の途中、マリオが言った。
「今日、一日どうだった、レイン」
「いろんな人と話した」レインが言った。
「誰と何を話したか、一言ずつ言えるか」マリオが言った。
「マリオと、良かったと言い合った。ルナと、農地の記録を見た。フィオナと、家の選び方を聞いた。ゴードンさんと、これからの仕事を話した。ベルトと、土の話を聞いた」レインが言った。
「全部が、大事な話だな」マリオが言った。
「そうだ」レインが頷いた。
「ここに来るたびに、そういう話ができる」マリオが言った。「それが、ここが良い場所だということだ」
「来るたびに確かめられる」レインが静かに言った。「手紙で知っていたことが、来てみると、また違う形でわかる」
「それが、また来たくなる理由だな」マリオが言った。
「そうだ」
食事が終わった後、フィオナが帰る時に、エリナに言った。
「今日、全員がレインと話したな」
「そうですね」
「全員が、それぞれの言葉で、同じ方向のことを言っていた」フィオナが静かに言った。「良かった、と。ここが良い場所だ、と。続けられる、と」
「全員が、違う言葉で、同じことを言う」エリナが言った。
「それが、ここが本物の場所だということだと思う」フィオナが言った。「一人が言うのではなく、全員が自然にそう思っている。だから、本物だ」
翌朝、レインが帰った。
見送りに、全員が出た。
「また来ます」レインが言った。
「冬に来てくれますね」エリナが言った。
「霜の石畳の約束がある」レインが言った。
「それと、もう一つ」エリナが言った。
「何だ」
「拠点を作る話が、冬に進みますね」
「そうなる予定だ」レインが言った。
「楽しみにしています」エリナが言った。
「待っていてくれるか」
「毎回、同じ答えを返します」エリナが言った。「待っています」
マリオが言った。
「レイン、また来い」
「来る」
「マルタさんとの約束も、まだ生きているからな」
「生きている」レインが言った。「秋に来られなかったから、冬に来た時に、マルタさんに会いに行く」
「それは、マルタさんが喜ぶ」マリオが笑った。
ルナが静かに言った。
「来る時に、薬草のサンプルを持ってきてほしい。師匠に渡したものとは別のサンプルを、次の確認者に渡したい」
「次の確認者というのは、師匠の後を引き継ぐ人間か」
「そうだ」ルナが言った。「レインが、その人間を知っているか確認してほしい」
「確認する」レインが言った。
「頼む」ルナが頷いた。
ベルトが短く言った。
「来年の農地、また報告する」
「待っている」レインが言った。
「土が、さらに変わる」ベルトが短く言った。
「楽しみにしている」
馬が動き出した。
レインが少しだけ振り返った。
手を上げた。
全員が手を振り返した。
見えなくなった。
マリオが言った。
「冬に来るな」
「来ます」エリナが答えた。
「今度は、もっと長くいるかもしれないな」
「そうなるかもしれません」
「そうなったら、また準備する」マリオが笑った。「俺の仕事だから」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」マリオが言った。「でも、言ってくれると嬉しい」
「わかっています」
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書いた。
『レインへ
今日、帰りましたね。見送りました。
昨日と今日で、全員があなたと話しました。マリオが「良かった」と言いました。ルナが「場所が変わっても続けることは続く」と言いました。フィオナが家の選び方を教えてくれました。ゴードンさんが一緒に設計したいと言いました。ベルトが「育てることで育てやすくなる」と言いました。セレーナが「本物のことは朝になっても変わらない」と言いました。
全員が、違う言葉で、あなたを迎えました。
冬を楽しみにしています。霜の石畳と、拠点の話と、全部を。
待っています。毎回本当のことです。
エリナ』*
書いて、封をした。
「全員が、違う言葉で、あなたを迎えた」という一行を書いてから少しだけ見た。
違う言葉で、同じ方向を向いていた。
それが、ルシェムという場所の形だった。
ランプを吹き消した。
秋の夜が、窓の外にあった。
レインが帰った夜だった。
でも、冬に来る。
その前に、手紙が届く。
それが、変わらない形だった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、全員がレインを迎えた。
そして、見送った。
また来る、と知っている別れは、寂しくない。
それが今夜、一番確かなことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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