103話 秋になって、レインが来た
九月になった。
秋が来た。
朝の空気が、夏とははっきり違う種類の冷たさを持ち始めた。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
今日の空気を確認した。
今日は、秋の空気だった。
去年の秋と同じ空気だったが、今年の秋は少し違った。
レインが来る秋だった。
直接話したいことがある、と言っていた。
その言葉が、今年の秋の空気に混じっていた。
九月の第二週に、レインが来た。
今回も、馬で来た。
午前中に着いた。
エリナが長屋の前で待っていた。
レインが馬から降りた。
「来た」レインが言った。
「来てくれた」エリナが返した。
いつもと同じやり取りだった。
でも、今回は少し違う空気があった。
レインが、何かを持ってきた顔をしていた。
「秋のルシェムだ」レインが周囲を見た。
「そうです」エリナが言った。「今年の秋は、去年より少し違います」
「どう違う」
「直接話したいことがある、と言ってくれたから。それが、今年の秋の空気に混じっています」
レインが少しだけ、エリナを見た。
「そういう言い方をするんだな」
「本当のことだから」
まず、いつも通りの確認をした。
衛生教育の後期の状況。農地の薬草の状態。地方学校への講習の進捗。
ゴードンとレインが、書類を確認した。
一時間ほどで終わった。
「問題ありません」ゴードンが言った。
「こちらも問題ない」レインが頷いた。
「では、今日の仕事の話は終わりですね」エリナが言った。
「そうだ」
ゴードンが「書類の整理をしてくる」と言って、事務室を出た。
エリナとレインが、事務室に残った。
「直接話したいことを、話していいか」レインが言った。
「どうぞ」
「学院との話し合いが、先月終わった」レインが静かに言った。
「どうなりましたか」
「今年の冬に、学院を離れる。師匠が退くのと、同じタイミングだ」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
「今年の冬に」
「そうだ」
「学院を離れた後、どうするつもりですか」
「ルシェムに来る」レインが言った。「フィオナが家を借りたように、俺も場所を作りたい」
「春に、そう言っていましたね」
「あの時は、考えていることとして言った」レインが言った。「今日は、決まったこととして言う」
エリナは少しだけ考えた。
決まったこととして言う。
春には考えていることだった。
今日は、決まったことになった。
「決まったんですね」エリナが静かに言った。
「そうだ」レインが言った。「うまく言葉にできない部分も、まだある。でも、一つだけ確かなことがある」
「何ですか」
「お前がいる場所に、いたい」レインが静かに言った。「それが、決めた理由の、一番のことだ」
エリナは、その言葉を受け取った。
整理しなかった。
分析しなかった。
ただ、受け取った。
「一つだけ、聞いていいですか」エリナが言った。
「どうぞ」
「後悔しませんか。学院を離れることを」
レインが少しだけ間を置いた。
「後悔するかどうかは、離れてからわかることだ」レインが言った。「でも、今は後悔する気がしない」
「なぜですか」
「師匠が始めたことは、続く仕組みができた。地方の先生への講習も、次の人間が引き継ぐ。俺がいなくても、続けられる形になった」レインが言った。「だから、離れられる」
「続けられる形を作ってから、離れる」
「師匠がやったことと、同じだと思っている」レインが静かに言った。「師匠に教わったことの一つだ」
少し間があった。
「フィオナは、知っていますか」エリナが聞いた。
「まだ話していない。今日、お前に先に話した」レインが言った。
「なぜ私に先に話してくれたんですか」
「一番の理由を、一番先に届けたかったから」レインが静かに言った。「お前がいる場所にいたい、という理由を持ってきた。それを、まずお前に届けたかった」
「届きました」エリナが言った。
「受け取ってくれるか」
「受け取ります」エリナが言った。「来てください。ルシェムで、待っています」
「毎回、同じ言葉だな」レインが少し笑った。
「毎回、本当のことだから」
「知っている」レインが静かに言った。「だから、来る」
昼食は、全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。
いつもの顔触れだった。
食事の途中で、フィオナがレインに言った。
「久しぶりだな、秋のルシェムで会うのは」
「去年の秋は来られなかった」レインが言った。
「今年は来た」
「来た」
「冬にも来るのか」フィオナが言った。
「霜の石畳の約束がある」レインが言った。
「そうだな」フィオナが言った。「それと、他にも理由がありそうだが」
レインが少しだけ、フィオナを見た。
「今日、エリナに話した」
「そうか」フィオナが静かに言った。「決まったのか」
「決まった」
フィオナが少しだけ間を置いた。
「良かった」フィオナが言った。
「フィオナは、知っていたのか」
「知らなかった」フィオナが言った。「でも、そうなると思っていた。そうなるといいと思っていた」
「以前も、同じことを言っていたな」レインが言った。
「知っていることと、そうなるといいと思っていることは、違う」フィオナが言った。「今日、そうなった」
マリオが少し声を落として、エリナに言った。
「今日、何かあったな」
「そうです」
「詳細は聞かない」マリオが言った。「でも、顔を見ればわかる」
「どんな顔をしていますか」
「決まった顔」マリオが静かに言った。「以前より、少し落ち着いた顔だ」
「決まったことがあったから、かもしれません」
「そうだな」マリオが頷いた。「決まることが、人の顔を落ち着かせる。迷っている間は、落ち着かない。決まると、落ち着く」
「マリオは、そういうことを見ているんですね」
「七年間、お前の顔を見てきたから」マリオが言った。「変化がわかる」
食事が終わった後、フィオナが来てエリナに言った。
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「どんな気持ちか」
エリナは少しだけ考えた。
「落ち着いています」エリナが言った。
「落ち着いている、か」
「はい。大きな感情が来ると思っていたけれど、来なかった。当然のことが形になってきた、という感じがします」
「当然のこと、か」フィオナが言った。
「七年間、手紙を書き続けた。会い続けた。話し続けた。その先に、今日の話があった。だから、当然のことだと感じます」
「当然のことが、積み重なった先に来た」
「そうです」
「あなたらしい受け取り方だ」フィオナが穏やかに言った。「大きな感情ではなく、静かな確認。それが、あなたのやり方だ」
ルナが、エリナに近づいてきた。
「今日、何かあったか」
「そうです」
「良いことか」
「良いことです」
「そうか」ルナが頷いた。「エリナの顔が、少し違う。だから、聞いた」
「ルナは、毎回顔を見ていますね」
「見ている」ルナが静かに言った。「エリナのことを、ずっと見ている」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」ルナが言った。それから少し間を置いた。「レインが、もっと近くに来るのか」
「そうなります」
「そうか」ルナが頷いた。「それは、良いことだ」
「なぜですか」
「レインが来るたびに、エリナの顔が少し違う」ルナが平坦な声で言った。「それが、良いことだから、もっと近くに来ることも、良いことだ」
夜、セレーナがエリナに言った。
「今日、レインさんと話したのね」
「はい」
「何の話をしましたか」
「レインが、今年の冬に学院を離れることになりました」エリナが言った。「ルシェムに、拠点を作ろうとしています」
セレーナが少しだけ、エリナを見た。
「そうか」セレーナが穏やかに言った。
「驚きませんか」
「驚かない」セレーナが言った。「そうなると思っていた」
「お母さんも、フィオナと同じことを言いますね」
「見ていたから、わかった」セレーナが言った。「あなたとレインさんが、どういう関係かを、長く見てきた。だから、そうなると思っていた」
「どう思いますか」
「嬉しい」セレーナが静かに言った。「あなたが、誰かともっと近くにいられる。それが、嬉しい」
「お母さん」
「何」
「ありがとうございます」
「何に対してのお礼かしら」
「ここに連れてきてくれたこと。ルシェムが帰ってくる場所になったこと。全部に」
セレーナが少しだけ目を細めた。
「私こそ、あなたに引っ張ってきてもらったのよ」セレーナが言った。「あなたが動いてくれたから、ここまで来た」
「お互い様ですね」エリナが言った。
「そうね」セレーナが笑った。「お互い様だ」
その夜、エリナは事務室で一人でいた。
レインへの手紙は、今夜は書かなかった。
レインが今夜、ここにいるから。
代わりに、短いメモを書いた。
今日、レインが来た。
学院を今年の冬に離れる。ルシェムに拠点を作ると言ってくれた。
一番の理由は、お前がいる場所にいたい、と言ってくれた。
受け取った。
当然のことが、形になってきた。七年間の積み重ねが、今日の形になった。
落ち着いている。大きな感情ではなく、静かな確認。それが、今日の私の状態だ。
急がなかったから、来た。続けてきたから、届いた。
それが、今日のことだ。
書いて、引き出しに入れた。
長屋の方から、マリオの声が聞こえた。
ルナが猫と遊んでいる音が聞こえた。
セレーナが台所で何かしている音が聞こえた。
フィオナの家の方向に、灯りが見えた。
レインが今夜、ここにいた。
全員が、それぞれの場所にいた。
ランプを吹き消した。
秋の夜が、窓の外にあった。
今日、決まったことがあった。
落ち着いていた。
当然のことが形になってきた、という感覚があった。
急がなかったから、来た。
続けてきたから、届いた。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、決まったことがあった。
静かに、確かめた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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