第四章「旧火新煙」
夜風が吹き抜ける、港湾会社の建物の外。
リンは暗がりの中でタバコを取り出し、火を点けた。そしてスマホを取り出し、短縮ダイヤルを発信する。
『……何かありましたか』
電話に出たのは先生だった。
『セーフハウスを提供した協力者が、偽の拠点に私を誘導し、チンピラを使って殺そうとしていました』
リンは淡々と事実を説明する。しかし先生は少しの間の後、気遣うような声で尋ねた。
『……声が震えていますが、大丈夫ですか?』
リンはタバコを口から離し、大きく煙を吐き出す。そして再び咥えて答えた。
『……大丈夫です』
『……それならいいのですが。話を戻しましょう』
リンの強がりを察し、先生は深く追及しなかった。
『ありがとうございます。どうやら予感が当たっていたようです。敵は我々が思っていた以上に強大か、あるいは……組織内に裏切り者がいるのかもしれません』
リンの言葉に、先生は電話の向こうでしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
『いくつか、確認したいことがあります』
『なんでしょうか』
『あの事件の夜。香港の取引現場で、あなたが何を見たか。それを詳しく教えてほしいのです』
リンは記憶を遡る。
『血まみれの現場と、幾つもの死体。そして、その場にいたボスに連れられて積み重なったコンテナのある場所へ案内され……そこで取引されるはずだった大量の銃器を見ました』
『……見たのは、それだけですか?』
『それだけです』
『……なるほど』
先生は考え込むように答えた。電話の向こうで、深い沈黙が続く。
『……先生?』
『あなたはこれから、現地組織を通して他の協力者たちに接触して情報を得るつもりですか?』
『ええ。そのために、私は海を渡ってきたのですよ』
『……彼らとの接触は控えた方がいい』
先生の強い口調に、リンは目を見張る。
『何か、思い当たることが?』
『……引っかかることがある、という程度で、まだ口にできる段階ではありません。だから念のため、私が確信を持てるまで、あなたは身を隠すべきです』
『調査を止めたら、ボスに何か言われるのでは?』
『予想外の事態が起きて、その対策を講じるためとでも言っておけばいいでしょう。実際その通りですし』
だがリンは、肺に溜めた煙をゆっくりと吐き出すと、タバコを携帯灰皿にしまった。
『先生、私のために色々考えてくれているのはありがたいことです』
リンの空いた左手には、田所のデスクから抜き取ってきた家族写真が握られていた。
『しかし私には、行くべきところができた。……身を隠すのは、それからです』
『……止めても無駄ですか?』
『はい。もう決めたことですから』
先生は、電話越しでも聞こえるため息を吐いた。
『私が言えたことではありませんが……無理だけはしないでください』
リンはそれに返事をせず、『何かあれば、また連絡します』とだけ言って通話を切った。
◇◇◇
電話が切れたことを確認すると、先生はスマホを机の上に置く。
そして椅子の背もたれにもたれかかり、天井を見つめた。
『……言えませんでしたね』
手で目を覆い、呟く。
『不可解な取引、そしてそのための調査を行なった者が協力者を殺害。細かいところは違うが大まかなところが似通っている』
――そう、あの子を拾った十三年前の抗争、その始まりと。
十三年前、今ほどこの組織が大きくなく、またシマも別の組織と二分しており、たまに衝突を起こしていた頃。
香港に勢力を広げようとしていると噂が出ていた外国の組織の仕業と考えられたある取引が発覚した。
突如の共通の脅威が出現したことにより、争っていた二つの組織は一時的に手を組み、合同の調査チームを設置し、ことの真偽を確かめようとした。
そのうちこの件の証人たちが次々と殺害される事件が起きた。
犯人はすぐさま判明した。調査チームの一員、向こうの組織の人間だった。
彼女は言った。『証人として話を聞こうとしたら突如襲われ命を狙われた。そのためにやむを得ず反撃したと』。
向こうの組織は彼女の話を信じたが、こちらは外国の組織に取り込まれて調査をうやむやにして、こちらを取り込もうとしているのではという考えが広まった。
そのため調査チームは組織間で分裂し、言い争いが頻繁に起こった。
そしてとうとうチーム内で争いが発生し、死者が出た。どちらが先に手を出したのかそれはわからない。しかし互いに相手が先に手を出したと言い張り、譲ることはなかった。
そしてそれは街の一区画丸ごとを巻き込んだ抗争へと発展することになった。
こちらの組織が勝利を収め、相手の組織をシマごと吸収することになる。
そしてその抗争で、外国組織に関する真相は全てうやむやとなってしまった。
後から思えば、結局外国の組織の影すら捉えられなかったことを含め、不審な点が余りにも多い。しかしあの頃は新たな脅威に対する焦りやその後の感情的な衝突などで、誰にも深く考える余裕がなかった。そしてそれが事態をエスカレートさせたと言っていいだろう。
しかしそれら全てが意図的に誘導されたものであったとしたら?
そして今もそうだ。事件が起こり調査が行われる。そして調査を行う主人公が協力者に命を狙われたという。
――あの時と同じことが引き起こされようとしていたら、私に何ができるだろうか。リンが殺し屋になることを止められなかった自分が、あの子を守ることができるのだろうか。
リンが初めて人を殺した時のことを思い出す。
知らせを受けてすぐにボスであるライファの部屋へと駆けつけた時、ちょうどリンが人を殺したとライファに報告していた。
『これで先生や孤児院には手出ししないんですよね』
銃を片手に必死の形相で訴えていたのはまだ幼いリンだった。
ライファには、その姿を先生に見せつける意図があったようだ。ライファは悪意に満ちた笑みを浮かべながら、じっとこちらを見つめていた。
だが、先生はその光景を見て、すぐにリンを抱きしめると謝罪した。
『私が無力なばかりにこんなことをさせてしまってすみません』
そしてこの時彼女はようやく思い知ったのだ。組織の幹部という後ろ盾があろうと、自分では彼らを守れないと。
回想から戻った先生は、机の上の書類に目を通す。
それは自身が運営する孤児院の権利書だ。
自分は組織内で理解不可能な存在として警戒されている。理由があればいつ排除されてもおかしくない存在だ。もしそうなれば孤児院はどうなるか。組織の捨て駒として利用されるか、最悪彼らも巻き添えで粛清される可能性もある。
それを防ぐために行政に引き渡すための準備を水面下で進めていた。さすがの組織も行政の管理下に置かれれば手出ししにくいと考えてのことだ。
何十ものダミーや実在する団体を通しているから、これがマフィアのものだったとは発覚することはまずないだろう。
先生は一人つぶやく。
『いつかくる時のためと思っていたが、その時が近づいているかもしれない』




