第五章「闖入凶刃」
「ただいまー」
玄関の扉が開き、軽快な声と共に女子高生の娘――田所しおりが帰ってきた。
制服姿のままリビングに向かうと、そのままソファにドサリと倒れ込み、クッションへ顔を埋める。
遅れて車を駐車場に停めてきた母親が家に入り、ソファで寝っ転がる娘の肩を呆れたように優しく叩いた。
「帰ってきて早々ゴロゴロしないの。制服がシワになっちゃうでしょ」
「だって部活で疲れたんだもん」
しおりはクッションに顔を押し当てたまま、気だるげに答えた。
「大会が近いから張り切っているのはわかるけどね」
「うん。今年はみんな、去年の雪辱を何としても果たそうとしてるから。……もちろん、あたしも勝つ気でいるし」
母親は目を細めて頷き、キッチンの方へと歩き出す。
「はいはい。一生懸命なのはわかっているから、さっさと着替えてきなさい。晩御飯にしちゃうから」
「はーい」
しおりは億劫そうに身体を起こし、ふと気になって尋ねた。
「お父さんは、まだ帰ってこないの?」
「うん。今日、急に大変なお仕事が入ったって連絡があったから」
「えー」
不貞腐れたように呟くしおりに、母親は困ったような笑みを浮かべる。そこには夫を案じる思いと、家族としての温かな絆が滲んでいた。
「お父さんの会社は零細だからね。取引先に振り回されるのも仕事のうちなのよ」
「……何それ」
しおりは母親に聞こえないように小さく苛立ちをこぼし、自室へ着替えに向かおうとした。
その時、インターホンが鳴った。
母親がモニターを確認すると、そこには見慣れない運送会社の制服を着た女が映っていた。
「夜分遅くに申し訳ありません。田所様へのお届け物です」
「わかりました。ただいま出ますね」
玄関に向かおうとする母親に、しおりが声をかける。
「こんな暗くなってから宅配? なんか遅くない?」
「最近は配達の人も人手不足で大変だって聞くしね……」
そう答えながら、母親は玄関へと向かっていった。
「すみません、お待たせしました」
扉を開いた母親を、帽子の下から冷徹な瞳で見つめる配達員の女。
彼女は両手に抱えていた段ボールを、ふいに手放した。
ゴトッ、と無造作に荷物が落ちる。
「え?」
母親が疑問の声を漏らした直後、視界の端に女が握るナイフの煌めきが映った。
リビングにいたしおりの耳に、玄関の方から「ドサリ」という重たい音が届いた。
「お母さん?」
声をかけるが、返事はない。
嫌な予感に胸をざわつかせながら廊下を覗き込んだしおりは、息を呑んだ。
リビングの入り口に、配達員の女が立っている。その制服は赤黒い血を吸って濡れそぼり、右手には凶悪な刃渡りのナイフが握られていた。
「え……?」
理解が追いつかず、しおりの足が床に縫い付けられたように止まる。
女が無表情のままナイフを振りかぶり、しおりへと踏み込んできた。刺される――。
しおりが目を瞑った、その瞬間。
背後から突風のように現れた黒い影が、女の襟首を力任せに掴み、玄関の方向へと乱暴に投げ飛ばした。
「きゃっ!?」
すかさず、しおりは強引に足を払われ、床に引き倒される。背中に重たい膝が乗せられ、無理やり床に縫い付けられた。
恐怖で視線を上げると、そこには男物の背広を着た長身の女――リン・インが、しおりを庇うように立ち、玄関の暗がりへ向けてサイレンサー付きの拳銃を構えていた。
「だ、誰……っ!?」
パニックに陥るしおりに、リンは視線すら向けずに短く言い放つ。
「後で説明する。死にたくなければ、そのまま伏せていろ」
◇◇◇
――リンは田所と別れた後、奪った車でこの家へ急行した。しかし、最悪なことに一足遅かった。
倒れ伏す母親と、娘に刃を向ける殺し屋が目に入り、間一髪で強引に割って入ったのだ。
リンは体勢を立て直そうとする殺し屋へ向けて、躊躇なく引き金を引いた。
しかし殺し屋は起き上がるのを途中でやめ、そのまま床を転がるようにして銃弾を回避する。動きが明らかにプロのそれだった。
相手が次の動作に移るより早く、リンは床を蹴り、弾丸のようなタックルを見舞った。激しく壁に叩きつけ、足を絡めてマウントを奪う。
殺し屋が下からナイフで脇腹を狙ってくるが、リンはそれを銃床で強打して軌道を逸らし、そのまま相手の右肩を正確に撃ち抜いた。
「がっ……!」
短い苦悶の声と共に、殺し屋の手からナイフがこぼれ落ち、床に乾いた音を立てる。
リンは抵抗の術を失った女の額に、冷え切った銃口をねじ込んだ。
「……誰に雇われた」
低く、殺意を孕んだ声で問い詰める。
室内に、耳鳴りがするほどの静寂が落ちた。
伏せていたしおりが、恐る恐る顔を上げる。
彼女の目に最初に飛び込んできたのは、リンたちの向こう側、玄関の三和土に広がるどす黒い血溜まりと、そこに倒れ伏したままピクリとも動かない母親の姿だった。
「あ……お母さん……?」
しおりは虚ろな瞳のままフラフラと立ち上がり、リンたちの横を通り抜けようとする。しかし、その足先が、殺し屋の落としたナイフに触れた。
リンが口を割らない殺し屋に見切りをつけ、引き金に力を込めようとした、その時。
「よくも……お母さんをッ!!」
悲痛な絶叫が響いた。
リンが視線を鋭く巡らせると、しおりが両手でナイフを逆手に握りしめ、顔を涙と怒りでぐしゃぐしゃにしながら、殺し屋に向かって振り下ろそうとしていた。
「ダメだッ!!」
リンは叫ぶと同時に腕を伸ばし、ナイフを持つしおりの腕を掴んで手首を捻り上げる。
「くっ……!」
苦悶の声とともに、しおりの腕からナイフが落ちる。
「離して! こいつ、こいつがっ!!」
半狂乱になったしおりは、それでも空いた方の手でナイフを拾おうと足掻く。
「……ちっ!」
リンは短く舌打ちをすると躊躇を捨て、しおりの後頭部へ銃床を正確に振り下ろした。
気絶したしおりの体は、力の抜けた人形のように崩れ落ちて床へと倒れ込んだ。




