6、相似の戦略的解釈
ふすまの隙間から。
まるで月明かりをその身に宿したかのような足取りで。
神代家の真の主、三毛猫にして凛のライバルである。
(琴音ちゃん!)
琴音は、私のような計算された流し目なんて使わない。
昼間は、ガラス玉みたいに光を弾く鋭い瞳。世界を値踏みするような、あの無機質な強さ。
――なのに。
今、こちらを見たその黒は、まるで別物だった。
光を飲み込んで、しっとりと滲むような黒の深さ。
夜の水面みたいに揺れて、覗き込めばそのまま引きずり込まれそうな、柔らかな闇。
ちらり、と一瞥。
それだけで、心臓の奥を撫でられたみたいにざわつく。
そして琴音は、おもむろにテーブルの中央に横たわり――
何の迷いもなく、その豊満な腹をさらした。
(何この、圧倒的な『オンナ』感!)
「あ、こら琴音。邪魔だろ」
環左衛門さんが苦笑しながら手を伸ばす。
すると。彼女はしなやかに背中を逸らし、彼の指先を自分のふっくらとした喉元へと誘い込んだ。
「ふにゃぅ」
吐息。
それは、どんなラノベのヒロインも出せない、全肯定の甘い調べ。
彼女は環左衛門さんの手のひらに、その柔らかそうな肉体をこれでもかと預け、恍惚の表情で「むにむに」を享受している。
(……エロス。これこそが、エロスの極み!)
握りしめたシャーペンがミシリと音を立てた。
兵法が、浮かばない。
初めてだった。
何かに向かう時、頭の中はいつも作戦で埋まっていたのに。
今は、ただ——
(……撫でて欲しい)
それだけしか、出てこない。
琴音は、ただそこに寝転がっているだけ。
なのに、環左衛門の理性も、家訓も、いとも容易く無効化していく。
(あの、重力に従って広がる完璧なフォルム。無防備な柔の極致!)
「凛、どうした?般若みたいな顔になってるぞ」
「環左衛門さん。私は、自分の無力さを知りました」
「はぁ?そんなに難しかったか?」
「勝てる気がしません……」
「そ、そんなに?俺の説明に問題があるな!」焦る環左衛門。
(違う、違うんです!)
琴音が一瞬だけ片目を開けて私を見る。ふいっと尻尾で私の参考書を撫で、また環左衛門の手に鼻先を押し付ける。
本当に知りたいことは教科書にも参考書にも載っていない。
(完全敗北だ!)
琴音ちゃんの喉が鳴る音が、夜のリビングに響き渡った。
◇
環左衛門は、参考書に落ちた凛の視線を、横目で追っていた。
さっきから、問題を解く手が止まっている。
数学が苦手なわけじゃない。それはもう分かっていた。
では、何のために来たのか。
――聞けない。聞いたら、たぶん、神代家の家訓とは別の何かが、壊れる。
◇
「凛、そろそろ時間だろ。家まで送ってろう」
環左衛門が立ち上がる。
「待ってください、まだ(愛の戦術が)何もできていません」
「でも、ワークもあっという間に解いて……」
(しまった、もっとゆっくりやるはずが!)
いつもの癖で、質問する間もなく全集中で問題を解いてしまった。
相似証明は終わった。だが、私の戦いはここからが本番だ。
脳内では、古びた『愛の必勝兵法』と、最新の『禁書』が核融合を起こし、新たな禁忌の戦術を生成していた。
(相似比を無視し、合同へと至る最終奥義。見せてあげるわ!)
「待ってください!まだ、伝えていない『公式』が残っています」
私はガタッと立ち上がると、まずは昭和・耐え忍ぶ乙女モードを起動した。
三歩下がって、着物の裾を直すような仕草(※制服です)。
「夜風が、少し、冷たいですね」
消え入るような声で囁く。
「三里(約十二km)先まで、あなたの足跡を数えて歩きたい気分です……」
「は?お前の家、そこ(隣)だろ」
環左衛門が引き気味にツッコむ。だが、私の追撃は止まらない。
(相似のまま終わるつもりはない。……合同まで、持っていく)
証明の手順は、頭に入っている。
あとは——踏み込むだけだ。
「私は今すぐこの場で熱を出して、あなたのベッドに転がり込む準備もできています! さあ、私の制服を透かして、看病という名の監禁を!」
「ちょ、待て。何を言ってるんだお前は!!」
環左衛門さんは椅子を蹴らんばかりに飛び退いた。
しかし、混乱の極致にある私の脳は、さらに斜め上の統合を開始する。
「いっそ、このまま二人で、心中という名の、ハッピーエンドを迎えませんか!? 私の首筋、いつでも噛んでいいんですよ!? 吸血鬼的な意味でも、未亡人的な意味でも!」
「……っ!!」
環左衛門の手が震えている。
「……凛。お前……」
その切れ長の黒い瞳が揺れる。
手応えあり!
私は一気に間合いを詰める。伏し目がちに、かつ上目遣いで。彼のシャツの袖を掴んだ。




