7、深夜の決戦・門は開かれた
――沈黙。
環左衛門さんは、石像のように固まっていた。
やがて、彼は震える手でスマートフォンを取り出し、画面を食い入るように見つめた。
「環左衛門さん? どうしたんですか、そんなに震えて。」
(葛藤している? 私の色気と、家訓の間で)
チラリと鴨居の「額装」を見る。だが、彼の視線はそこにはない。私を凝視し、ごくりと唾を飲んだ。
「凛。……落ち着いて聞け」
彼の声は、かつてないほどに深刻だった。
「お前の通ってる学校、そんなにストレスが酷いのか?」
「学校?」
「それとも、部活? 家で何か……」
「あの?」
「今、調べてる。未成年が急に情緒不安定と奇行を繰り返す時の対処法を。……これは俺個人の手には負えない」
「環左衛門さん?」
「凛、お前……。虐待を受けているのか? それとも……変な宗教に?」
「ち、違います! これはアピールでっ!」
「ダメだ。見過ごせない!」
瞳に使命感が灯る。
「な、何を電話してるんですか!?」
「民生委員の田中さん。それと学校のカウンセラー……いや、親父にお祓いも――」
足元では琴音が「こりゃダメだ」とでも言わんばかりの大欠伸。ふすまの奥へ消えていく。
その時。
環左衛門が、スマホを持ったまま、ふと手を止めた。
そして振り返り――私を、見た。
怒っていない。
呆れてもいない。
ただ、本当に心配そうな顔で。
「……凛。お前、しんどいのか」
その一言で、全て崩れた。
(違う)
私は兵法を使っていた。戦術を重ねていた。
なのに彼が見ていたのは、最初からずっと——
策を弄している「女」じゃなくて。
無理をしている「凛」だった。
(……バカみたい)
「いいか、落ち着け、深呼吸しろ」
肩を掴まれるが、そこに期待していた温度はまるでない。
「待ってください!通報だけはやめて!」
「凛! 逃げるな! 話を聞いてやる!」
背後に響く環左衛門の声を振り払い、私は家へと逃げ帰った。
自室に戻り、私はパシパシと自分の頬を叩いた。
鏡に映るのは、少しだけ目が赤い、どこにでもいる十五歳の少女だ。
「……何やってるんだろ、私」
膝の上に置いた『攻略ノート』を見つめる。
付箋だらけの、狂気すら感じるメモの数々。
琴音は、何もせずに撫でられている。
私は、全部やって――通報されかけた。
しんどいのか、と聞かれた。
作戦の話も、兵法の話もしていないのに。
ただの、その一言。
(……ほんと、バカ)
文武両道。剣道三段。
本来なら冷静に状況を見極め、最短で一本を取る。なのに、環左衛門のことになると、素人みたいに振り回されてばかり。
玄関のチャイムが鳴る。
「凛―! 環くんが、忘れ物ですってー!」
追いかけてきたんだ。参考書ごと置いてきたらしい。恥ずかしくて死にそう。
「……凛? 大丈夫か?」
玄関から聞こえてくるのはいつもの穏やかな声。
その一言で、胸がきゅっと締まる。
(ああ……)
落としたかったんじゃない。
ただ、この声の主にとって特別になりたかった。
ノートを閉じる。
もう、余計なものはいらない。
深く息を吸って、玄関へ向かった。
部活帰り。
ガラス越しにカウンターの端で丸くなっている琴音を、じっと見つめた。
環左衛門さんは、作業の手を止めて、私を見ている。
「……凛。寄ってくか? 少しは落ち着いたか?」
その声に、また胸が痛む。
私は、中には入らず欠伸をしている三毛猫を指さした。
「環左衛門さん。私、ずっと、あの子になりたかったんです」
「え?」
「琴音ちゃんみたいに、ただそこにいるだけで、環左衛門さんに撫でてもらえて。言葉なんていらなくて。それが一番の、正解なんだって……」
環左衛門さんは、黙って私の話を聞いている。
「だから、変な本を読んで、変なポーズをして、猫より柔らかくなろうとして。でも、ダメでした。私、あの子にはなれません」
私は顔を上げ、環左衛門さんの目を真っ直ぐに見据えた。剣道の試合でも、こんなに勇気がいったことはない。
「訊いてもいいですか。環左衛門さんにとって、私と琴音ちゃん、どっちが大事なんですか」
それは、愚問だった。
飼い猫と隣の家の女子中学生を比較させるなんて、どうかしている。
でも、どうしても言わずにはいられなかった。
環左衛門は、少しだけ目を見開いたあと、ふっと息をついて笑った。
それは昔から困った時に彼が見せる、少しだけ不器用な笑顔だった。
「バカだな、お前は」
彼はカウンターから歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。
そして、一瞬迷ってから本当に優しく、私の頭に手を置いた。
「琴音は、俺がいないと生きていけない猫だ。でも、凛。お前は……」
彼の手が、私の前髪を少しだけ分ける。
「お前は、俺がいないと、変な本を読んで、雨の中でズブ濡れになって、勝手に関節を外して死にそうになる。猫よりずっと目が離せない、大切な女の子だよ」
「……っ」
「猫と凛、どっちが大切かなんて比べようもないだろ」
その声が、いつもより――少しだけ低かった。
環左衛門の指先が、私の頬に触れた。
その体温は、蜂蜜入りの生姜湯よりも熱く、私の心を溶かしていく。
「門、開きましたか?」
私が尋ねると、彼は肺の中の空気をすべて吐き出すような、長く、重い吐息をついた。
彼の喉の奥から漏れた熱い呼気が、白く震えて消えていく。
◇
「……凛」
ずっと、わかってた。
凛の目が、赤い。
泣いてはいない。でも、隠せていない。
俺は何度、この目を「妹分の目」だと言い聞かせてきたんだろう。
(……もう、無理だ)
体当たりで何度もぶつかってくる、その度に。
少しずつ、内側から削れていた。
◇
「お前が、あんまり体当たりでぶつかってくるからな。閂が、壊れたよ」
環左衛門が、私を見た。
三、四、五……長い。
思わず目を逸らした瞬間、スッと気配が近づく。
え。
まさか。
ぎゅっと目を瞑る。
くる。
今?ここで?
環左衛門の手が、そっと頬に触れた。
肩が、震えた。
ちょっと待って——カフェのお客さんから、見えてる。
「……さくらんぼ」
耳元に、息がかかった。
は?
目を開けると、環左衛門はすでに一歩引いていた。
少しだけ、意地悪な顔をして。
「練習の成果」
——と言いかけて、一瞬だけ目が泳いだ。
さくらんぼ?
「今度、見せてくれよな」
糸目が、いつもの柔らかさに戻る。
そのまま何事もなかったようにカフェへ戻っていく背中。
意味が分かった瞬間、顔から火が噴き出した。
「環左衛門さんっ!!」
カウンターでは琴音ちゃんが「やれやれ」というように尻尾をひと振り。
そのまま店の奥へと消えていった。




