5、合法的住居侵入・許可証
女子中学生に許された唯一の合法的侵入許可証――『勉強教えてください』。
本当は数学は得意中の得意。これなら、全神経を環左衛門に集中できる。
環左衛門は、少しだけ面倒そうに眉を寄せたが、私の必死な顔を見て、ふっと息をついた。
「はぁ。わかったよ。バイトが終わってからだぞ。親父たちも旅行でいないから、リビングなら貸してやる。ただし、変なポーズは禁止だぞ」
(――勝機が、見えた!)
夕食。大好きな銀鮭の塩焼きを完食し、私は音速で食器を片付けた。
キッチンでは、母親がのんびりと食後の茶を啜っている。
「お母さん。私、これから隣の環左衛門さんのところへ行ってくる」
あくまでもさりげなく。なんでも無いことのように。
「……数学を教えてもらうの」
「あら、環くんに? いいわよ、彼なら安心だしね」
幸いお隣とは付き合いが長いので、母親はまるで警戒していない。
(安心? 甘いわ。お母さん)
今夜、私は『隣の妹』から、一人の『女』に昇格するのだ。
「でも、凛」
ふと眉をひそめる母。
ドキッ。
「あんまり環くんを困らせちゃだめよ? この前も、庭で変なポーズしてたでしょ」
「あ、あれは、心身の統一を図っていたの!」
母親の苦笑いを背中に受け、私は重たい参考書を抱えて玄関を飛び出した。
一歩外に出れば、そこは夜の静寂。わずか数メートルの距離にある「お隣さん」の玄関が、今はラスボスの居城のように構えている。
私はブレザーの襟を正し、一度だけ深呼吸をした。
(いい、凛。まずは勉強を教わる健気な後輩を演じるの。それからタイミングを測って禁書にあったように『うっかり手が触れる』のよ!)
私は意を決して、神代家のインターホンを押した。
石畳が敷かれた玄関先。
手入れの行き届いた植栽の隙間から、雨樋を伝う水滴の音がする。
「はい」
スピーカーから聞こえる、少し低くなった彼の声。
「佐倉です。約束の、数学の指導を仰ぎに参りました」
「おう、上がれよ。今、リビング片付けたから」
木製の引き戸が、カラカラと滑らかな音を立てて開く。
だが、リビングの入り口で足が止まった。
久々に入るせいか、神代家のリビングは記憶よりちょっとだけ敷居が高く見える。
足元を見ると、鏡みたいに磨かれた廊下が奥まで続いている。曇りひとつない。
「これ、環左衛門さんが?」
「ああ。朝晩の雑巾掛けな、今でも俺もやってる」
何でもない顔。でも分かる。
この広さを、腰を浮かせて一気に拭き上げる重さを。
(なるほど)
あの無駄のない動き、安定した重心。
見せかけじゃない、積み上げた体幹だ。
「流石です。雑巾掛けという名の『動禅』ですね」
「ただの掃除だ。早く入れよ」
彼は素足で音もなく進む。
そこで気づく。床の間もどきの鴨居の上に、筆文字で堂々と書かれた「額装」。
『神代家家訓:みだりに異性に触るべからず。節度を持って、一線を守るべし』
(なに、これ!)
三年前、勉強を見てもらっていた頃には、こんな張り紙はなかった。
「ああ、それ」
環左衛門は、少し気まずそうに目を逸らしながら、お茶の入ったコップをテーブルに置いた。カツリ、と小さな音が、静かなリビングに響く。彼の喉仏が、一回だけ、窮屈そうに上下した。
「去年、じいさんが勝手に貼っていったんだよ。別に、俺の趣味じゃないからな」
「そ、そうですか。流石、環左衛門さんのご祖父様。古風で、素敵ですね」
(ぜんっっっ然、素敵じゃないっ!)
(――難攻不落)
環左衛門は「いいから座れよ」と、テーブルの向かい側を指さした。
そう。「隣」ではなく、「向かい側」。
◇
目の前に、凛が座った。
(近い、な)
向かい側のはずなのに。
視線が一瞬、鴨居の額装へ逃げる。
『神代家家訓:みだりに異性に触るべからず。節度を持って、一線を守るべし』
じいさんの字は、相変わらず太い。
(助かった)
環左衛門は教科書を開いた。
◇
環左衛門は、想像以上に高く、堅牢な城壁で守られていた。
(私の恋の兵法が試されている!!)
環左衛門がシャーペンで図形を指し示す。
その指先が動くたびに、私の視界には火花が散っていた。
「で、三角形の相似か」
「はい。本日はよろしくお願いいたします」
環左衛門が、教科書の三角形を二つ指さした。大きさの違う、同じ形の三角形。
「合同は『ぴったり重なる』だったけど、相似は違う。形は同じで、大きさが違う。――拡大と縮小の関係だ」
(拡大と縮小、なんと残酷な真理!)
私は脳内で、環左衛門の隣に立つ自分を想定した。
「この辺が1に対して、こっちは2。この1対2って比率が、二つの三角形のスケールを決めるんだ」
(1対2。高校生と中学生。彼の一歩が、私の二歩。)
「でもな。サイズが違っても、角度だけは全部等しくなきゃいけない。ここがズレたら、相似とは呼べないぞ」
(そう!たとえ歩幅が違っても)
見つめる角度、見据える未来の『角度』さえ一致していれば。
私たちは、同じ形をしているっていうことよね。
「一番よく使う条件がこれだ。二つの角さえ同じなら、もう『相似』の確定だ」
二組の角。
一つは、今、同じ教科書を見ている私たちの視線。
そしてもう一つは――。
環左衛門が私の頭に手を置いて、見下ろした時の、あの角度!
「よし、条件成立。よって、この二つの心は、相似である……」
口に出てた。
「凛?」
環左衛門が呆れ顔で私を見る。
「三角形の相似、な。なんで今、俺の顔を見て『条件成立』って言ったんだ。目が猛禽になってるぞ」
「ふ、二人の、いえ、二つの角度が重要だと、深く感銘を受けただけです!」
「角度の話はそうだけどな。お前、数学を宗教にしてないか」
呆れ顔で、環左衛門が私のノートを覗き込む。
彼の少しクセのある黒髪が目の前に迫る。
(サイズは違っても、角度は同じ。)
いつか、この比率を1対1に。
私は教科書の相似記号を、うっとりと見つめた。
その時。
静謐な勉強会の空気を、音もなく、しかし確実に支配するモノが現れた。




