4、三毛猫の挑発と究極のパワーヨガ
「フニャアアアーーーン!!!」
突如、足元から鳴り響く宣戦布告。
「いい雰囲気にしてんじゃねえぞ、この泥鼠!」と言わんばかりに、私の濡れた足首をベシベシと肉球で叩いている。
「琴音ちゃん!どうしてここに?」
神代家の飼い猫・琴音だった。
彼女はその豊満な三毛の体を環左衛門のスネに擦りつける。
「おっと。おいおい琴音、危ないだろ」
環左衛門さんの視線が、私から完全に逸れた。
それどころか彼はしゃがみ込み、柔らかい表情で琴音ちゃんの顔周りを撫で上げた。
爆音で喉をグルグル鳴らす琴音。
さらに。
あろうことか。
これ以上ないほど無防備に。
その場でゴロンと腹を見せた。環左衛門はそのお腹に手を伸ばす。
「この子はなー、ご機嫌な日は腹まで触らせてくれるんだ」
お腹を「むにむに」し始める環左衛門。
ゴロゴロと、勝利の凱歌をあげる琴音。
「………………」
熱かったはずの顔が、一気に凍りついた。
私が必死で演じている「弱さ」と「可憐さ」を、この三毛猫は、ただ寝転がるだけで完璧にこなした。それどころか、もふもふの見た目、手触り、天然っぷりは私を遥かに凌駕している。
(この猫。デキる!)
環左衛門は、猫を撫でながら私を振り返った。
「ちょうどいい。琴音、凛を温めてやれ!」
「ナァーン」
琴音は、アルミシートの隙間から私の胸元に潜り込み、私をさらに蒸し焼きにし始めた。
「本当に、朦朧としてきました」
「温まってきたな。よし、もう一杯おかわりだ!」
あと数秒あれば、何かが起きていたかもしれない。
(おのれ琴音ちゃん……! 貴様、やはり環左衛門さんの門番か……!)
結局、「甘い看病」どころか、「過酷なサウナ修行」のような時間を過ごすことになった。
『反省メモ:環左衛門の優しさは、常に「生存本能」の直撃である』
◇
柔軟性は可憐さの象徴。
猫が美しいのは骨がないからじゃない。しなやかだからだ。
(そうよ。琴音ちゃんが『むにむに』されるのは柔らかいから。なら――)
私がその柔軟性を身につければ、彼の指先は自ずと私の……っ!
正気が危うくなった。
図書館で借りた『究極のパワーヨガ』を読み込み、稽古の合間に関節の限界へ挑む。
すべては、環左衛門を私の曲線美でこじ開けるため。
午後のカフェ『えもん』。
客のいないテラスの隅で、私はスポーツウェア姿でポーズを取っていた。
(来た)
「凛? なんでそんなとこで、ひっくり返ってるんだ?」
驚きで声が裏返っている。見せつけるチャンスだ。
背中で手を組み、首を限界まで反らし、片足で立った。
『昇天する孔雀のポーズ』。
「ヨガです」
プルプルと筋肉が震えるのをなんとか抑え、微笑んだ――つもり。
◇
(顔は、普通に、綺麗なんだよな)
なのに、なんで――こうなんだ、いつも。
環左衛門は眼鏡を押し上げ、溜息を一つ落とした。
困っているのか、笑いたいのか、自分でも分からない。
ただ。
(目が、離せない)
それだけは、はっきりしていた。
◇
「内臓の配置替えでもしてるのか? 骨、大丈夫か」
「違います。私のしなやかな体を見――」
そこへ再び、琴音がぬるっと現れた。
前脚を伸ばし、背を美しく反らし、あくびを一つ。
そのまま体を反転、片足を天に突き上げたまま毛繕い。
(!?)
完璧すぎる。
一瞬私に眼を遣る。そしてまたペロペロ。
「どうした、琴音。寂しくなっちゃったのか?」
環左衛門さんが、琴音の背中を優しくなぞる。
(……っ!!?)
その光景に、対抗心が爆発した。
「私だって! 見てください!」
無理やり足を頭の後ろへ回す。
だが鍛え上げた筋肉は、想定外の方向へ反発した。
「ぬ、抜けない!」
「凛!? 首にロックかかってるぞ! 待て、外す!」
「い、嫌です! 自分でやります。環左衛門さんは、琴音ちゃんと遊んでればいいじゃないですかっ!」
情けなさと、猫への嫉妬。
(……ただ、撫でてほしいだけなのかな、私)
その考えが浮かんだ瞬間、思考が焼き切れそうになる。
足が絡まったまま、ついに本音がこぼれた。
「俺が、琴音とばかり遊んでるからか?」
「だって私より猫の方が大事、なんですよね」
静寂。
環左衛門は、足を絡めて悶絶している凛を見つめたまま、動けなかった。
猫への嫉妬。
それが分かった瞬間、何かが胸の奥で音を立てた。
おかしい話だ、と思う。琴音は猫で、こいつは隣の妹分で、比べること自体が――
(……なんで、笑いそうになってるんだ、俺は)
「凛。お前な……。猫と、お前。比べようがないだろ」
その言葉に、私は動きを止めた。
(え? 比べようがない? それって、つまり?)
環左衛門が、おもむろに手を伸ばす。
また「救急処置」か、あるいは「フォーム指導」か。
だが、彼の大きな手は、私の絡まった足ではなく、熱を持った私の頭に、そっと置かれた。
「お前の方が、手が掛かるんだよ。昔から」
カッと、頬が熱くなる。
環左衛門さんの視線が、初めて「剣道の後輩」や「隣の妹」ではない、別の温度を含んで私を射抜いた――。
ような気がした。
足のロックはまだ外れていないが、私の心は、しなやかに解けていた。
「とにかく、凛。その、絡まった足をどうにかしろ。家まで送ってやるから」
「い、いえ! この程度、武道家にとっては『休め』の姿勢も同然ですっ」
私は顔を真っ赤にしながら、バキバキと音を立てて強引に足を解いた。全然、可憐じゃない。
でも、今の私の脳内は、すでに「次への作戦」へ移行していた。
「ところで、環左衛門さん。別件でお願いがありまして」
「なんだよ。また変な修行の付き合いならお断りだぞ」
「違います! あの……実は、今度の定期考査の範囲がやばくて。数学、得意でしたよね?」
いよいよ難攻不落の城(実家)への潜入である。




