40話 慈雨の領主アジス
大渡の港へと戻ると、そこでは既に影憑きの襲来によって傷ついた者達の手当てや、船の修繕に人々が駆け回っていた。
「あぁ、マリーエル様! ご無事のお戻りで……。先程、強い力が海中から放たれた際は、肝を冷やしました……」
幾分か顔色の悪いムシカが、飛ぶように潜水船まで駆け寄って来ると、マリーエルの手を取って下船させた。
海上にも影憑きは多数現れ、戦闘が起きていたようだ。それらも全てマリーエルの力によって祓われ、今この周辺の気の流れは、人々の喧騒とは反対に鎮まっている。
「姫よ、〈力在る者よ〉。感謝する」
潜水船の横に顔を出したウィパッが言った。そうしてから、マリーエルに続いて下船していたカルヴァスを見やり、ムシカに視線を留めた。
「精霊姫を、よく休ませてくれ。この港はお前の……いや、貴方の管理する地であるのだろう。海底国の者として、それを願いたい。そして、貴方達華発の国の方々の協力にも感謝する。此度のことを踏まえ、また後程詳しく話し合いがしたい」
じっと耳を傾けていたムシカは、誇らしげにひとつ頷いた。
港では、騒動を治める為に多くの資材と人材を持ち込んだ隣領地──慈雨の町領主が、この場を治めようと奮闘している。
海底国との関係を望みはせずに静観を決め込んでいた領地だが、こうして争いが起き、様々な資材が必要となった今、折よくそれを持ち込み、一連の出来事に深くまで潜り込むつもりなのだと考えられた。
「まずは、海底国の方々も傷を癒し、場を整えることが先決でしょう。我が華発の国ジョイエルス王直属のこのムシカが率いる隊に、全てお任せ下さい。──このように、薔薇の装飾を施した手巾を持っていますから」
そう言って手巾を掲げ見せたムシカは、突然上がった叫び声に振り向いた。
同じくそちらに気を取られたマリーエルは、聞き馴染みのある声に、カルヴァスやカナメと目を見交わしてから、声の聞こえた方へと走った。
声のした先では、ベッロが地に倒れ伏し、その横に屈みこんだインターリが、目の前に立つ男を鋭い視線で睨み付けていた。
ずんぐりとした小柄の男は、目を丸くしながら、言い訳のように何事かを喋っていたが、マリーエル達と共に駆けて来たムシカの姿に気が付き、安堵したように表情を緩めた。
「アジス殿。一体、何事ですか?」
「あぁ……ムシカ殿。いえ、こちらの方の飼われている狼が、突然苦しみだし倒れたのです。誓って、私は何もしておりません。ですが、こちらの方には信じて頂けず……」
慈雨の領主アジスは、心底困ったようにムシカに訴えたが、その瞳の奥は抜け目ない光を灯し、マリーエルに向けられていた。
カルヴァスがマリーエルの前に歩み出て、アジスに向き合った。
「私は、精霊国精霊隊隊長のカルヴァス・ルクトルです。あの者達は我が隊に属する者。何が起きたのか、知らねばなりません」
そう言いながら、カルヴァスは先程から黙り込んでいるインターリにちらと視線を向けた。
いつもなら、目の前の男は激高したインターリに組み伏せられている筈だが、そうはしない理由があるようだった。
「いえ、本当に何もしていません。そちらの狼が私の姿を見た瞬間、急に震えだしたのです」
困惑していると大仰に語るアジスの姿を見つめたカルヴァスは、僅かにその衣に目を留めた。それに、目ざとくアジスは気が付き、得心いったように頷いた。
「あぁ、もしかしたら、これのせいかもしれませんね」
そう言って、衣の上に羽織っている毛皮を示して見せた。
「獣からしたら、毛皮は恐ろしいものでしょう。もし自分も剥がれたら、と考えて恐怖にとらわれても可笑しくはありません。勿論、他人様の飼い狼に手など出しません! それに、実は、私のこの毛皮は特別なもの……あの獣族の毛皮なのですよ。──あぁ、ご心配なく、ムシカ殿。狩猟規制が入る前の代物ですから。違反はしておりません。正しき物売りから最近購入したものですから」
アジスは上機嫌にそう語った。
アジスが話す間に立ち上がったインターリが、ベッロの体を背負い宿へと歩き出した。アーチェが慌てて後を追い、ベッロの尾を持ち上げる。不安そうな視線をマリーエルへと向け、マリーエルが小さく頷いて応えると、これに同じように応えてからインターリと共に宿へと歩き去った。
それを動揺した瞳で追っていたアジスは、カルヴァスの前にそそくさと歩み寄った。
「──精霊隊長様。誓って、私は何もしておりません」
アジスは、許しを請うように深々と頭を垂れた。カルヴァスはちらとムシカを見やってから、アジスに顔を上げるように言った。
「私も何事が起きたのか理解している訳ではありません。あの者に話を聞くことにしましょう。私達は精霊国よりこの華発へと訪れた身。後のことはムシカ殿にお任せすることとします」
カルヴァスが言うと、ムシカは恭しく頭を垂れた。
「ええ、お任せを。勿論、アジス殿が精霊隊の方々に何事かの企てをしたと考えてはいませんが、今は何事も慎重にならねばなりません。──皆様は宿へとお戻りになり、今日の所はお休み下さい」
ムシカの言う通り、カルヴァスはマリーエルの背を押して宿へと歩き出した。
その後ろ姿を、アジスの抜け目ない瞳が追っていた。




