32話 新たに生じた精霊
うねる水の力が裂け目を覆おうと、流れ出るより強く満ち渡る。
裂け目の下には、深い混沌が広がっている。
満ち渡る精霊の力が、高い音を立てながら結晶化し、裂け目を塞いでいく。
「あと、少し……」
呑まれそうになる程強大な力を導くマリーエルの体を、何かに気が付き舌打ちしたカルヴァスが強く引いた。マリーエルはそれに身を任せ、精霊の力を導きながら様子を探った。
カルヴァスが火の力を滾らせ、沸き立つ水を海底から吹き上がらせて、マリーエルへと近付いて来ていた澱みを吹き遠ざけた。
剣は海底に突き刺しているから振るえない。
苦しげな声を漏らしながらも、カルヴァスは火の精霊の力を扱い、沸き立つ水を生じさせ、澱みを遠ざけていった。
抗うように数を増した澱みに対処していたカナメが、ハッと視線を移した。
ウィパッ達の戦いから泳ぎ逃れた稚魚が、引き込まれる力に体を取られ、小さな悲鳴を上げながら裂け目へと軽々と引き込まれていく。
咄嗟にカナメが手を伸ばしたが、その腕をルワァの棘が掠めた。
「カナメッ──」
「お前は塞ぐことに集中しろ!」
その声に意識を戻され、マリーエルは裂け目へと再び意識を向けた。
引き込む力は僅かに緩んだが、稚魚の力ではこちらに戻ることは出来ない。必死に抗い泳ぐ姿に、マリーエルは水の精霊の力をより強く自身の中に取り込み、求めた。
「姫よ、これ以上は姫の身が──」
「いいから、使って!」
叫ぶような呼び掛けに、水の精霊の力が一段と強くなる。流れ来る力に、マリーエルの意識は揺さぶられた。
──駄目。塞がなくちゃ。もっと力を……!
その想いに応えるように、水の精霊の力が強くなり、裂け目を塞ぐ結晶が大きく膨らんでいく。
その時、大型の輪郭が勢いよく泳ぎ来ると、稚魚を抱え上げた。勢い余って裂け目へと至ったが、既に塞がりつつあった裂け目に、その巨躯は流れ落ちなかった。
ナヴァが稚魚を抱えながら、叫んだ。
「この子は僕が……!」
流れ落ちずとも、裂け目の引き寄せる力はまだ強い。海底に手を突き、ナヴァは堪えながらマリーエルを見つめた。
マリーエルは頷き、結晶を育てる為、グラグラとする感覚の中で、より強く力を込め満たした。
一層高まった音を立て、結晶はついに裂け目を完全に塞いだ。引き込む力が消え去り、遠く争うウィパッ達の立てる音しか聞こえない。
「カナ、メ……は⁉」
マリーエルが声を絞り出すより先に、カルヴァスはマリーエルを抱えたまま地を蹴っていた。
蹲るカナメは、肩口の傷から血を押し流そうとしていた。
素早くカナメの横に降り立ち、袖を捲り上げたカルヴァスが、その傷口に唇を当てると、吸い取った血を吐き出した。何度かそれを繰り返し息を吐く。
「お前、本当……ビビらすな」
「すまない。君こそ、鼻から血が」
「いつものだ。──なぁ、アイツの毒って」
ナヴァを振り返ったカルヴァスは、訝しげに眉を寄せた。海底から生え出た結晶に触れたまま、ナヴァと稚魚はまるで夢見るような表情を浮かべている。
「カルヴァス、マリーが……!」
カナメの声に意識を引き戻されたカルヴァスは、腕を引いていたマリーエルを見下ろした。
「限界か?」
マリーエルはその様子をぼんやりとした意識で見つめていた。
遠く、そして近く、新たな力がうねり始めていた。
「うた……が」
「歌⁉」
──そう、歌が聴こえる。煌めく歌が。胸の奥から、水の流れに乗って……。
水の精霊を振り返ったカルヴァスだったが、精霊もマリーエルと同じようにぼんやりと揺蕩っている。
「歌、だ。新たな……歌が」
「どういうことだ⁉ くそっ、海上に戻るには──」
カルヴァスの声が遠くなり、意識は歌にだけ向けられる。
力が溢れ、満ち、喜びが広がる。
力強い歌が響き渡ると、水がうねり、青年の姿を形作った。その姿は、海底人によく似ていた。
「海底の……精霊」
海底の精霊が水の精霊に頭を垂れる。ほうと息を吐いた水の精霊は、その額に手を翳した。
「新たに、我の司る力より生まれたモノよ」
水の精霊が誘うように手を振ると、海底の精霊の後ろに魚影が躍った。それは、魚の精霊だった。以前よりもずっと強靭な様子で、鱗を煌めかせている。
「姫を海上へと戻す為、この海を乱すモノを排せよ」
海底の精霊と、魚の精霊が再び水の精霊へと頭を垂れ、マリーエルの許へと泳ぎ来ると、順繰りに額を合わせた。
「姫よ。今暫し耐えよ」
水の精霊の言葉に、マリーエルは頷いた。
気の流れが身の内に流れ込み、海底の精霊と、魚の精霊が争うウィパッ達の許へと泳ぎ行く。
マリーエルはカルヴァスにしがみついたまま、それを見上げた。
「大丈夫なのか? アレは……?」
「う、ん……。水の精霊に連なる新たな精霊が生まれて、魚の精霊もより強い力を得た……そうだよね?」
マリーエルの言葉に、水の精霊が流れ来ると頬を撫でた。
「そうだ。姫が我の力を強く導いたことで、新たな精霊が成った。精霊界で沸き起こっていた力の予兆はあれだったのだ」
そう言って、ふと意識を取り戻したナヴァと稚魚に目を向ける。
「海底に住まうモノ達のこともあるだろう。あれらが裂け目によって知識を得た。それによって形作られた力に、姫の器を通して我の力が高まったことで、今それが開いたのだ」
海底の精霊は魚の精霊を伴い泳ぎ、ウィパッと争うルワァの体を吹き飛ばした。形勢を立て直そうとするルワァを追い立て行く。
「今の間に姫を海上へ。もう力は持つまい」
水の精霊はマリーエルへと寄り沿うようにすると、ナヴァを呼び寄せた。
「お前が海上へと姫を運ぶのだ。あの結晶より得たのだろう、知識を?」
ナヴァは静かに頷くと、稚魚を放した。不安そうに後退った稚魚の頭をナヴァが優しく撫でる。
「此処で待っておいで。直にウィパッが……」
そう言いながら、柔らかい笑みを浮かべ、顔を上げる。
傷つき、疲れ切った顔をしたウィパッが、魚の精霊と共に戻ってくると、裂け目の結晶とマリーエルを見比べ、頭を垂れた。そして、ナヴァへと怪訝そうな顔をする。
「お前は……」
「その話は後だ。今は僕達の恩人を陸へと帰そう」
ナヴァがマリーエル達を腕に抱き込み、ヒレを動かした。
「ウィパッ」と幼い声が言うのが聞こえてくる。ナヴァの肩越しに見やれば、稚魚が弾く音を使わずにウィパッへと呼び掛け、ウィパッは驚いたように目を瞬いていた。
その様子が、遠ざかっていく。
「あの結晶は、裂け目程ではないが僕達に知識を与えたみたいだ」
マリーエルは、水の流れを感じながら息を呑んだ。
「そんな……折角裂け目を塞いだのに……このままじゃ……」
ナヴァがゆるゆると首を振る。そうして、マリーエルに寄り沿う水の精霊に視線を移した。
「恐らく、こうして僕達のようなものが知識を得ること、そのことに意味があるのだろう。これが、世界樹の意思……というものだろうか。──僕は視た。この世界の記憶と呼べるものを。そして、それを得たからには、今までのようには生きられない」
水の精霊がひとつ頷いた。
「だからこそ、精霊がまた成ったのだ。お前達海底に住まうモノは、この世界に根差し受け入れられた」
「ならば〈力在る者〉──精霊姫、といったね。マリーエル、君の導きを僕達も受けたい」
「でも……」
「あぁ、大げさな言い方になってしまったね。記憶とは……知識とは厄介なものでもあるのか。僕が願い出たいのは、この世界での他のモノとの関りだ。この世界は、巡り還るもの、なのだろう? 僕達は混乱の中でこの世界へと受け入れられた。それならば、どう生きるべきか。教えて欲しい。勿論、ウィパッとも話し合って。──今は、君達を陸へと届けるのが先だ。あぁ……陸とは、どのような場所だろう。垣間見ることはしたんだ。君達のような人々が──」
嬉しそうに語っていたナヴァは、ハッとして遠くを見やった。ずっと遠い先に、こちらを窺う魚影が見えた。




