29話 ナヴァ
海藻に絡まるその姿を見たマリーエルは、声にならない声を上げた。
咄嗟に岩を蹴り距離を取る。稚魚達がわらわらと周りに集まり、泡を立てる。
それは、人だった。
澱みに侵され、影憑きとなった器のなれの果て。所々崩れた肉体が水の流れにさらわれそうになる。
しかし、それでも、マリーエルにはその衣で精霊国の──エランの民であることが判った。
見れば、辺りの岩陰などに船の残骸が沈んでいる。海底の裂け目は少しずつ海水を引き込み、海に沈んだモノをも流れ落とそうとしていた。
そして、かつて命在るモノであった器達は、裂け目から湧き出る澱みに侵され、死して尚世界樹へと還れずに影憑きとなる。
それは、〈海底人〉や〈劣ったモノ〉も同じだった。海で死したモノは裂け目へと引き寄せられ、その過程で影憑きとなる。
マリーエルは、海藻に絡まり身を捩る影憑きを見つめるうち、あることに気が付いた。その風貌は、崩れていても記憶を刺激した。
「エル……ベル、船長……」
その名を呟いた瞬間、それに反応したものか、エルベルと思われる影憑きは手で強く水を掻いた。呼吸をする為でなく開かれた口からは、もう泡が上がることはない。すっかり水に沈んだその体から発せられた声は届かない。
ガクリ、とエルベルの体が傾ぐと、その体の上半分がちぎれて分かれ、海藻の中を這い寄った。
マリーエルは視界が滲み、息が苦しくなるのを感じていた。
──こんな事って……。
影憑きは祓わなくてはならない。しかし、それでも、目の前で這いずるその凄惨な姿に、身がすくんでいた。
「姫よ」
水の精霊がマリーエルの体を包んだ。
「姫の役目は、こうしたモノを祓い、世界樹へと導くこと。歪んだ存在は、この者自体を苦しめる」
「……うん」
ガボガボと泡を立てながら、エルベルがマリーエルへと飛び掛かった。マリーエルは水の精霊の力を使いその体を包み込んだ。エルベルの肉体が水の流れに押されて流されていく。
「ごめんなさい……カッテ……」
マリーエルは涙を流しながらエルベルの身の内に潜んだ影を祓い、世界樹へと還れるよう祈った。
その時、裂け目からひと際強い水流が押し寄せ、エルベルの体を引き込もうとした。澱みが流され、戦っていたカルヴァスやカナメ、ウィパッが岩棚にしがみつく。マリーエルの目の前で、エルベルの体が流されていく。遅れて、海藻に絡んでいた下半分も、片割れを追うように海藻を離れ水流へと乗った。
その足先が稚魚の一匹の体に触れた。
か細い音を漏らし、稚魚が水流に呑まれていく。
「いけない!」
マリーエルは咄嗟に水の精霊の力を使い稚魚を引き寄せた。それと同時に裂け目への水流が弱くなり、エルベルの体が底へと落ちる。再び影に纏わり憑かれたエルベルは、マリーエルの許へと地を這い寄り始めた。
しかし、その横に降り立ったカナメの細剣が、エルベルの体を斬り上げた。影が裂かれ、動かぬただの肉塊となったエルベルの体は、ふわりと海中を漂うと、再び裂け目へと流れていった。
「あれは……エルベル船長、だよな」
剣を収めたカルヴァスがマリーエルの許へと歩み寄ると、支えるように腕に触れた。
「……うん。あのカッテと同じ海色の瞳……間違いないと思う。随分と、その──」
言い淀んだマリーエルの頭を、カルヴァスは無言で抱えた。
「影は祓ったし、裂け目へと落ちれば世界樹へ還ることは出来る。それだけは、喜ぼうぜ」
「うん、そうだね……」
辺りを見回っていたカナメが静かに降り立ち、マリーエルを見やった。
「少し休んだ方がいいんじゃないだろうか」
「でも……」
マリーエルは水の精霊を見上げた。
「力を使ったとはいえ、まだ余裕はある。見よ、一度弱まった水流がまた強くなった。この場を離れた方がいいだろう」
「休むのなら、岩場を貸そう」
その声に、マリーエル達は顔を向けた。見れば、ウィパッが稚魚達を抱え見下ろしていた。
「言葉が……?」
ウィパッは裂け目を指差した。
「あれに触れると視え聞こえると言っただろう。先の戦いの際に、私はまた視たのだ。記憶……というものか。ともかく、今は近付かない方が良い。恐らく澱みとの戦いの際に刺激してしまったのだろう」
すらすらと口から繰り出される言葉にマリーエルが驚いていると、ウィパッは呆れたように顔を歪め、その体を岩場の間へと滑り込ませた。
少しだけ考える素振りをしたカルヴァスがそれを追い、マリーエルとカナメが続いた。水の精霊は緩やかな流れとなってマリーエルの周りを漂い行く。
岩場は洞窟のように続き、時折開いた穴から海藻の放つ淡い光が漏れ注ぐ。
突然開けたその先に、すり鉢状の空間が広がっていた。
「此処は、私達が寝床としていた場所だ」
ウィパッの言う通り、幾つもある穴からは稚魚や海底人が顔を覗かせていた。マリーエル達の姿を不審そうに眺め、その答えを待つようにウィパッを見つめる。
ウィパッは弾く音を辺りに響かせた。海底人達は、それをきっかけにゆっくりと穴蔵を出てくると、少しの距離を保ったままマリーエル達を見上げた。
『客人だと言っていましたね』
アントニオの声に、ウィパッが頷く。
「そう、客人だ。私達にそのような価値観はなかったが……それを得た」
『成る程、道理で』
鏡の向こうでアントニオが納得したように言った。
「ウィパッ……あぁ、何処に行っていたんだ。さっき渦に呑まれそうになって急に言葉が──」
その時、すり鉢状の空間の上から、ウィパッよりはひと回り程小さな海底人が泳ぎ来ると、訝しげにマリーエル達を見やった。
「この者は〈力在る者〉だ。──姫よ、これはナヴァ。私が此処を離れた際に稚魚達を任せている」
ナヴァはまじまじとマリーエルを見つめると、鼻先をマリーエルの腹部に擦り付けた。ウィパッとは少し深みの違う色の鱗が煌めく。
ぐいと押されたマリーエルの背をカルヴァスが支え、ナヴァはカルヴァスの腹にも鼻を擦り付けた。
「えーと、こういう時は『初めまして』で合っているかい」
鋭い牙を見せながらニコリと笑い、カナメへと近づいたナヴァの肩を、ウィパッが引いた。
「挨拶はそれで合っているが、海上の者達は私達のように鼻先を擦らない。それは視なかったのか?」
「あぁ、言葉だけ。何故だろう、君の言葉とは少し響きが違うね。僕の発音方法がおかしいのかな」
ナヴァは唇を動かし、首を捻ってから海底の言葉で会話をすると、考え込んだまま頷いた。
「まぁ、通じているようだからいいか。それで〈力在る者〉が此処に居るということは、あの裂け目は塞がったのかい。僕としては、様々なことを知ることが出来るのは嬉しいのだけど……でも、あれに呑み込まれたら危ないしねぇ」
何処か間の抜けたように話すナヴァに呆気に取られつつも、マリーエルは頭を垂れた。
「初めまして、ナヴァ。私はマリーエル・グラウス・ディウス」
『精霊国の姫様です』
アントニオが付け加えるように言うと、ナヴァは瞳を輝かせて鏡を見つめた。
「なんだいそれは? いや、知っている。鏡だ。鏡の中に、これまた君達のような人が居る。あぁ、判った。これも海上の人達か。鏡人かい?」
その言葉に、眉を寄せたウィパッは、ナヴァの頭を小突いた。
「どうにも得た知識に偏りがあるらしい」
『そのようですが……この方は好奇心が旺盛のようですね。とても好ましいです』
「好奇心……」
ウィパッは興味深そうに鏡を観察しているナヴァを見つめ、続けた。
「ナヴァ、お前にはこの寝床……いや、城を任せよう」
「城?」
ウィパッはそれ以上言葉を続けず、考え込みながら「とにかく、この者達を休ませたい。良い寝床へ」とナヴァへ命じた。
「そうか、君達は疲れているのか。なら、とびきりの寝床を用意しよう」
そう言うと、ナヴァはマリーエル達の後ろから抱え込むように腕を広げて泳ぎ始めた。




