26話 水の精霊
冷たい海水が全身を包み、物凄い勢いで海中へと引き込まれていく。
マリーエルは開きそうになった口を固く閉じ、その拍子に鼻に入り込んだ海水が染みるのに目が痛むのを感じていた。
海の底の暗闇に引き込まれていく中、自身の周りに浮かぶ小さな泡の群れを割って、カナメがその手を伸ばした。
──カナメ!
手を伸ばすと、海中でも温かな手がすぐに握り返した。二人してウィパッの引くまま海中を引き込まれていくと、海面の方で泡が立った。
火色が暗く沈む海中で映える。
その時、カナメがマリーエルを拘束するウィパッの手を斬り付けた。驚きに開かれたウィパッの手から逃れ、マリーエルはカナメと共に上の方で手を伸ばすカルヴァスの許へ向かって水を蹴った。
──あと少し……!
しかし、今度はウィパッの尾に囚われ、マリーエルは海底へと再び引き込まれていった。カルヴァスとカナメがウィパッの尾に取りすがる。
引き込まれた際に口を開いてしまったマリーエルは、口に流れ込んだ海水を飲み込み、しかし吐き出すことも出来ずに悶えた。
視界の中でカルヴァスとカナメの必死の顔が滲んでいく。
その時、耳の奥で歌が聴こえた。
──水の……精霊の歌……。
マリーエルは霞んでいく意識の中で、水の精霊に呼び掛けた。
歌が高鳴り、マリーエルは水の精霊の力に包まれた。
激しく咳き込み、顔を上げる。
体は水に包まれていたが、息が出来るようになっていた。
「これ、は……」
「姫よ。我の力に溺れるとは嬉しい限りだが、しかしそれで命を保つことは出来なかろう」
すぐ目の前に水の精霊の顔があった。朦朧とする意識の中、マリーエルはハッとして尾にしがみ付く二人を見上げた。
「カルヴァス、カナメ……!」
二人は苦しそうにもがき、今にも意識を手離してしまいそうだった。
「二人を助けて!」
「二人……」
水の精霊はゆったりと揺蕩うように微笑むと、水の流れを操りカナメの体を引き寄せた。指を振るって水をまとわせると、カナメは激しく咳き込み、驚いたように息を吐いた。
「カルヴァスも──」
「そちらは気にする必要ない、姫よ」
その言葉通り、カルヴァスの周りで激しく泡が立つと、苦しそうな顔をしていたカルヴァスが咳き込んだ。
「何をしておる、我の器よ。辺り一面水ではないか。我に断りなく世界樹へと還るつもりか」
カルヴァスの口を使い、火の精霊が声を上げる。
「ほらな。──久しいのぅ、火の」
「お前は……」
火の精霊がチッと舌打ちする。
「あの……この間も言ったけど、オレの口を使って喧嘩しないで貰えますか」
カルヴァスの声に、火の精霊が不機嫌そうに再び舌打ちする。
「仕方なかろう。此処では我は姿を現わせん。お前を代に現れているだけに過ぎんのだ。それも直に難しくなろう。──水の、判っておるな。我の器を失うことは避けろ」
火の精霊の言葉に、水の精霊はクツクツと笑う。
「それならば、我がその器の中に入ることとなるが、お前はそれで良いのか。勿論、お前の器に呼び掛けなどするつもりはないが」
ぐぅ、と呻いた火の精霊は「それも致し方ない」と苦々しげに言った。水の精霊はそれに微笑んで応えると、カルヴァスの体を水の力で引き寄せ包み込んだ。
「さて、限界までは火の奴に頑張って貰うとして……これは海底に住まうモノのようだが。何故、姫は潜っている。確か、栗鼠の奴が言うには潜水船という面白いものに乗り込み海底へと訪れるのだと聞いていたが」
マリーエルは自身の胴体に絡みついたウィパッの尾を見下ろし、マリーエルと水の流れで繋がるカルヴァスとカナメに目を向けた。
「さっきウィパッは『もう待てない』って言ってた」
「もう待てないって……それでこんな強引な手に出たってのか?」
カルヴァスが睨むようにして言った。
その様子を笑んで見ていた水の精霊は、じっと海底を見つめ、ふむと唸った。
「まぁ、『もう待てない』のは確かだな」
「え?」
マリーエルの声に、水の精霊はうっすらと笑みを浮かべたまま続けた。
「底に裂け目が出来ているのは知っているだろう。そこから我の力が流れ出ている。栗鼠の奴から精霊姫であるお前がその対処の為に此方へ向かっていると聞いたので待っていたが、これ以上遅くなるようでは、手遅れとなる前に我が姫を迎えに行くつもりではあった」
「そんなに、酷いことになっているの?」
水の精霊は考えるように押し黙ったが、それでも笑みを浮かべたままだった。
「我の力それ自体は無事だろう。この世界から流れ出たとして、世界樹を巡り再び還るのだから。しかし、それで困るのは命世界の命在るモノ達であろう。そして、我の気に掛かるのはあれら、海の者達。そして混沌より生じる渦」
ついと指で示した先には、海底より渦巻く水の柱があった。
「あれが、今海上で生じてる渦……やっぱり底に開いた裂け目が原因なんだね」
マリーエルが真剣な顔で言うと、静かに水の流れるに身を任せていたカナメが、マリーエルの腹部を見て口を開いた。
「あの……それは痛くないのか。随分とキツそうなんだが」
ウィパッは、ぴたりと胴体に手を付けて体をくねらせ、マリーエルの様子には目もくれず海底へと急いでいる。
「痛いと言えば痛いけど……でも、今止めてと言っても伝わらなそうだし」
「……待ってろ」
鋭い目をしたカルヴァスがウィパッの体を辿ろうとするのを、水の精霊が止めた。
「お前が行く必要はない」
水の精霊はプクプクと笑うと、水の流れでウィパッを包み縛った。驚きに体を捻ったウィパッの尾からマリーエルの体が解放され、流水が柔らかく包む。
「さて、海底に住まうモノよ。お前が粗雑に連れ込もうとしているのは、我等が精霊姫。何が理由だろうが手荒に扱うのは許されない」
ウィパッは周囲に生じた渦に泡を吹き、身を捩る。
「我とて裂け目は気懸りだ。お前に協力しよう。その為に姫の力を借りよう。しかし、好き勝手に成すのは許さぬ」
水の精霊が手を振ると、ウィパッの周囲から渦が消えた。ウィパッはその場で漂い、窺うような瞳をマリーエルに向け、訝しげに水の精霊を見上げた。
口を開きかけたマリーエルを背の後ろに隠し、カルヴァスがウィパッを見下ろした。
「オレ達は、お前に協力するつもりで動いてた。目的は同じだからな。だが、お前はそれを裏切り、マリーを危険に晒した。もし、水の精霊がその力を与えなければ、マリーは命を失っていたかもしれない。それにも気が付かずにお前は海底へと向かったな。これは、許されることじゃない」
カルヴァスの言葉に、ウィパッはたじろいだ。
「これ以上勝手に行動するつもりなら、オレ達はお前とは共に行かない。それでも裂け目を塞ぐという目的は同じだ。ただ、それが終わり地上へ戻ったら、オレはお前達〈海底人〉を敵対生物として伝える。お前達の生態は知らないが、その知識を得て、地上のオレ達がどれだけの技術を持っているか理解しているだろ」
カルヴァスが言い終えると、ウィパッは俯き、ゆっくりと身をくねらせて泳ぎ寄った。
マリーエルの前に立ち塞がっていたカルヴァスとカナメが緊張に顔を強張らせる。
「スマナイ」
ウィパッはそう言うとカルヴァスを見つめた。露のように輝く瞳は、今は海の暗さで揺れていた。
「ヒメノ、力を……カシテ、欲しい」
マリーエルはウィパッの前に寄ると、その頬を撫でた。
「うん。最初からそのつもりだよ。でも、私達には私達のやり方があって、そして貴女のように水の中を生きることが出来ないの。こうして水の精霊の力を借りなければ。まずは、それを知って欲しいな」
「ワカった……」
項垂れるウィパッを見つめ、マリーエルは笑みを浮かべた。




