23話 弾く音
翌朝には雨も止み、マリーエル達は補給を済ませて拠点船を発った。
海の先を見やりながら、カッテは僅かに険のある瞳を細めた。
「〈海底人〉……ウィパッ、ねぇ」
出航の際に謳歌号の側に現れたウィパッに、カッテはエルベルの船の特徴を伝えていた。しかし、それに対する答えは「判らない」というものだった。
ウィパッ曰く、〈劣ったモノ〉達は見境なく海に在るモノに襲い掛かっているし、〈海底人〉も攻撃されれば反撃するのが当然だ。船の特徴などいちいち覚えていない。と言い放った。
間を取り持ったアントニオでさえ、顔を顰めて少しだけ口ごもった。
「まだ、船に何かあったって決まった訳じゃないから──」
マリーエルがそう言いながら伸ばした手を、無意識に身を捩って避けたカッテは、ハッとして笑みを浮かべた。
「すまないね。マリー様は気に掛けて下さったってのに。大丈夫、船はちゃんと炉の国へ向かってる。マリー様達を無事に送り届けるからさ。今は……少しだけ、一人で考えさせて欲しいんだ」
カッテはそう言って、海の先を睨み続けた。
「……うん。私は、船室に居るね」
マリーエルは船室へと戻り、鏡と向き合うカルヴァスの横に座り込んだ。
唇を弾いたりして音を出していたカルヴァスは、ちらとマリーエルに目をやると、首を傾げた。
「どうした。暗い顔して」
マリーエルは慌てて首を振った。
「ううん、何でもないの。ちょっと色々考え事しちゃって。それより、海底の言葉を習ってるんだよね。どう、覚えられそう?」
何か言いたそうにしながらも、カルヴァスは腕を組んで幾つか音を弾いて見せた。
「ま、今の所こんなもん。挨拶と、敵意はないってのと、疑問、静止……必要そうな言葉だけ覚えたぜ」
『貴方はそうだろうと思っていました』
鏡の中のアントニオは不満そうだ。そうしながらも、マリーエルにじろりと視線を向けた。
『姫様にも、必要最低限の言葉を覚えて頂いた方が良いかと思いますが』
「う、うん……そうだよね」
マリーエルが鏡に向かいアントニオの手解きを受けようと身構えると、隅に蹲っていたカナメがふいに立ち上がった。
「海底語を習得出来た気がする」
船室中の視線が集まる中、カナメは妙に気合の入った顔で鏡に歩み寄った。
「聞いて貰えるだろうか」
鏡の中で目を瞬いたアントニオが、ひとつ頷いた。
『いいですよ。姫様もまずはカナメの力の程を確認しましょう』
アントニオが促すと、カナメはアントニオとほぼ同様に弾く音を発し始めた。耳を傾けていたアントニオも、思わずといった風に頬を緩める。
『素晴らしい。基礎は完璧と言っていいでしょう。まぁ、勿論私が把握している範囲で、ですが。貴方は獣族の言葉も以前に学んだのでしたよね』
「あぁ、ほんの少しだから、話せるというものではないが」
『でしたら、ベッロから教われば獣族の言葉も話せるようになるのではないでしょうか』
アントニオの言葉に、窓辺のインターリの横で丸くなっていたベッロが顔を上げた。狼頭のベッロは、その口の構造から海底語を習得することが難しく、退屈そうに寝て過ごしていた。自分の話が出たことで、嬉しそうに笑顔を浮かべ、尻尾を振る。駆け寄ってくると、ちょいちょいとカナメの足を前足で掻き、期待の瞳で見上げている。
「あぁ、今すぐには難しいが、いずれ獣族の言葉も教えて貰おう。もしかしたら、今後何かに役立つかもしれないからな」
ベッロが「ワウ!」と吠えて答えた。
「そういえば、インターリは何処に居てもベッロの声を聴き分けることが出来るんだったな」
カナメの問いに、インターリは億劫そうに振り向いた。
「まぁね。仕事を熟すのに連携する必要があったからね。そこら辺の狼と聴き分けられないようじゃ使えないし」
「というか、コイツがベッロに執着してるだけだろ。城でインターリに用があるならまずベッロを探した方が早いとまで言われてるんだ」
カルヴァスが茶化すように言うと、インターリは鼻に皺を寄せた。
「そりゃベッロの置かれた状況を考えればそうなるでしょ。全く、精霊人っていうのは、大切なもんを放っておいても盗まれないと思ってるんだから。呆れるね。カルヴァス、お前だって──」
ニヤリと口端を上げて振り返ったインターリは、マリーエルに目を留めて口を曲げた。
「なに。何で笑ってるの、お姫様。僕は何も面白いことなんて言ってないけど」
マリーエルは小さく笑い声を立ててから、カナメとの間に座るベッロの頭を撫でた。
「インターリとベッロがお互いのことを大切に思ってることは知ってたけど、こうして言葉にして聞くのは初めてだなぁと思って」
「……はぁ?」
インターリは思い切り顔を顰めると、ぷいと背けた。窓枠に肘を突いたままその後はどれだけ呼び掛けても答えなかった。それでも、再び横で丸くなったベッロの頭を軽く撫でるその手つきは、酷く優しいものだった。
『さて、姫様。少しで良いですから海底語を理解出来るようになりましょう。そうです、カナメに習得のコツなどがあれば教えて貰っては如何ですか』
アントニオはここの所、教育方法というものを考え直し、誰に対しても最適な方法を見いだせるようにと心を配るようになっていた。
話を振られたカナメは宙に手を惑わせ、首を捻りながら探るように言った。
「こう……海底語とは、その通り海の底の音なんだ。海の底を想像しながら、そこで弾ける泡のように唇を弾いて、その隙間に流れる水を表現する……『ッ』という音は唇のこの辺りを弾くようにして──」
そう言いながら自身の口元を指すが、マリーエルはそれをじっと見つめたまま首を傾げた。
耳を傾けていたカルヴァスが呆れたように言う。
「お前、相変わらず説明下手だな。人の説明は聞いて理解出来るんだから、説明も出来ていいと思うんだけどな。ま、此処はオレに任せろ。こういうのはオレの方が得意だろ。ほら、マリーこっち向けって」
カルヴァスは椅子に横向きに座ると、マリーエルと向き合った。
「オレはカナメ程は扱えないけど、必要最低限は押さえてるからな。要領を得たらカナメから教わってもいいし。まずは、挨拶でいいか。こうやって──」
カルヴァスはカナメと同じように自身の口元を指し、唇を弾いて見せた。
「多分、これが基本の動きだよな」
『そうですね。大抵の音にその動きが含まれています』
「とりあえず、この音を出してみろ」
「う、うん」
マリーエルが〝ッ〟の音を出すと、カルヴァスは腕を組み、眉を寄せた。
「ウィパッの時も何度もやり直しさせられてたもんな。そうだなぁ……」
カルヴァスは自分の指を横向きに咥えて何度か音を弾くと、今度はマリーエルの前に指を差し出した。
「まずは咥えてみて……それで、弾く──もう少しこう唇の先に力を込めて……うーん」
指を抜いたカルヴァスは、マリーエルの唇をなぞり「この辺り」と示した。
「何をやっているんですか、カルヴァス隊長⁉」
突然、アーチェの声が響いた。アーチェはこの船の厨役との相談に出ていた。
怪訝そうに振り返ったカルヴァスが、アーチェの様子に眉を寄せながらも「海底語を教えてるんだけど」とマリーエルを見下ろし、次いで「あ」と声を漏らした。
「……え?」
アーチェのあまりの昂り様に、マリーエルは二人の顔を交互に見比べた。
「あ、あの、本当に海底語を教わっていただけだよ」
息を詰め、じっと二人を見つめていたアーチェは、途端に視線を彷徨わせ始めた。
「カルヴァス隊長……これは、その……」
アーチェの顔は今や羞恥と疑惑に染まっている。
「いや、本当、教えてただけだって。マリーがこんな調子だから──いや、本当何でもない。というか、流石のオレもこんなとこでどうとかないから! むしろなんかいたたまれねぇんだけど!」
動揺したままの二人の間に割り込み、マリーエルは唇を弾いて見せた。
「あ、ほら。カルヴァスが教えてくれたから出来るようになったんじゃない? どう?」
マリーエルが続いて唇を弾くと、冷静さを取り戻したカルヴァスが何度も頷いた。
「ん……あぁ、さっきより随分良くなった。それが出来たら他の音も出来ると思う」
そこで言葉を止め、ガシガシと頭を掻く。
「ちょっと頭冷やしてくる。カナメ、後は頼む」
僅かにムッとした顔をしていたカナメは、カルヴァスがマリーエルの背を押し目の前に座らせたのに目を瞬いた。
「あ、あぁ……俺で教えられるのなら」
「今後の航路について話してくるから暫く戻らない」
そう言うと、カルヴァスは早足で部屋を出て行った。その背を目で追っていたアーチェは、気まずそうな顔をしてからマリーエルの横に腰かけた。
「アーチェ、大丈夫? 本当に教わってただけだよ。何してると思ったの?」
マリーエルの問いに、アーチェは今にも叫び出しそうに口を震わせ、長い息を吐いた。
「いえ、本当に私が勘違いしてしまいました。カルヴァス隊長には悪いことを……あとで謝っておきます。あの、姫様、これ以上は追及なさらないで下さい……」
「え、う、うん」
マリーエルは、アーチェのあまりの落ち込みように今のやり取りを頭から追いやることにした。
アーチェは耐えきれず心の中でカルヴァスに謝罪を繰り返し、最後に「今回の不憫さを生んだのは私」と自責の念に駆られた。
カナメから海底語の手解きを受けるマリーエルの横顔を見つめ、戸惑いはあるものの普段となんら変わった所がないことに首を傾げた。
マリーエルとカルヴァスの間に確かな信頼関係があるのは事実であり、それは仲間というものを超えているのも確かだ。明らかにカルヴァスからの恋心はマリーエルに向いている。しかし、それでも何かそういった話が浮かぶ訳でもない。
──でも、別に家族愛かというとそうでもないし。隊長も何処か余裕というか、副隊長にほいほいマリー様を預けてしまうし。
アーチェは世話役の集まりで〝マリーエル様はどなたを選ぶのか〟という話題が繰り返し上がるのを楽しんでいた。勿論、筆頭に上がるのはカルヴァスとカナメであり、ちらほらとジェーディエの名前が上がることもある。
カナメは以前にアーチェによって恋心というものを意識してから、マリーエルへの態度を僅かに改めたが、それでも今すぐどうにかなるという様子はない。
──やっぱり、精霊と感覚が近いと恋心というものも変わるのかしら。
アーチェはカナメの手解きを受けるマリーエルを見つめ、知らず窓辺で様子を窺っていたインターリに目を留めた。
インターリはたっぷりとアーチェを見た後、馬鹿にしたように鼻で笑う。
ムッとしたアーチェは「お茶をお淹れしますね」と、僅かに顔色の悪くなったカナメに顔を向けた。カナメはそこでハッとしたように胸の辺りを押さえた。
『その性質も相変わらずのようですね』
アントニオの呆れた声が鏡の向こうから聞こえて来た。




