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精霊国物語  作者: 夢野かなめ
第三部 水底の王国

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7話 知の洪水

 王の間を出たマリーエル達は、その足でアントニオの自室へと向かった。控えていた世話役が顔を上げ、中へとマリーエル達を案内する。


「姫様?」


 部屋に入ると、体を起こしたアントニオが驚いたように言った。


「アントニオ! 起きてて大丈夫なの?」


 マリーエルの声に、アントニオは恥じらうように目線を下ろした。


「ええ……先程までは、また〝知の洪水〟に呑まれていたようですが。思うようにお役に立てず、歯痒いばかりです」


 アントニオは、やつれた顔で溜め息を吐いた。


 〝知の洪水〟は意図せず突然表出する為、アントニオは日常生活を送るにも苦労をしていた。最初こそ、それでもと知の者としての役目を果たす為に働いていたが、倒れ伏し自室へと運ばれるのを繰り返すうちに、自室で過ごすようになっていた。


 寝台横に置かれた卓には、食べかけの果実と、書き連ねた紙片が積まれている。それを手に取ったカルヴァスは、訝しげに紙面を見つめた。


「で、結局これって何なんだ」


 そこには、何か意図のようなものは感じるが、決して文字や絵などとは言い表せないものが書きこまれていた。


「……判りません」


 口惜しそうにアントニオは呟いた。


 マリーエルは、カルヴァスの手元を覗き込んでから言った。


「これって、文字でもないし、絵でもないんだよね」


「ええ。私の中に流れ込む知識の……言わば〝音〟ですね。それを何とか形にしてみたのですが、あまり意味はないかもしれません」


「そっかぁ……」


 そう相槌を打つと、アントニオが気落ちしたように項垂れたので、マリーエルは慌てて付け加えた。


「で、でも、時が経てば全てを理解出来るようになるんでしょ? だったら──」


「いえ、どうでしょう。これは確かに〝知の洪水〟ではあります。ですが、何処か戸惑いのようなものも感じられるのです。随分と長く時が掛かっていますし、この知は……いえ、憶測ばかりでも仕方ないですね。それより、姫様方はエランの祭に参加されていたのでは? 何があったのです?」


 マリーエルが事情を説明すると、アントニオは眉間に皺を寄せながら考え込んだ。


「底……でしたら、やはり私の中に流れ込んでくるこれらは海底の……? ですが、もし海底に所謂文明と呼べるものがあったとして、今までそれらを私を含め知の精霊が捉えることの出来なかったのはおかしな話です。となると……」


 深く考え込んだアントニオに、カルヴァスが「まぁ、待て」と声を掛けた。


「お前、本当に酷い顔色だぞ。厨に寄って飯持って来たからまずはそれを食べろよ」


「……え、あぁ、そうですね」


 カルヴァスが持って来ていた包みを開くと、アントニオは僅かに呆れたような顔をした。包みの中の肉を見つめ、小さく首を振る。


「貴方達は……本当に、肉が好きですね」


「え?」


 マリーエルが目を瞬くと、アントニオは「いえ」と首を振った。


「カルヴァスと、クッザール様ですよ。クッザール様は城に戻られた際は此方を訪れて下さるのですが、いつも『肉を食べろ』と笑顔で。勿論、兵の体を作るのはこうしたものでしょうが、肉が全てを解決する訳ではありませんから」


「なんだよ、文句あるならオレが全部食べちまうぜ」


「本当に肉ばかり食べているな、という感想です。寄越しなさい、食べますから」


 マリーエルが二人のやり取りに思わず笑い声を漏らすと、アントニオがふっと笑みを浮かべ、次いで心配そうな顔をした。


「姫様の体調は如何ですか。滞在を切り上げられたのであればお疲れでしょう。私のことは気にせず、お体をお休め下さい。私から今の所お話出来ることは全てお伝えしましたから」


 その言葉に、マリーエルはふるふると頭を振った。


「勿論、アントニオに話を聞きに来たのもそうだけど、ちゃんと心配もしてるんだよ。アントニオだって寝てばかりいたら気分も塞いじゃうと思うし。だから、今は一緒に食べよ。エランであったことも色々話すね」


 マリーエルが手に手を重ねると、アントニオは嬉しそうにその手を握り返した。


「有難うございます、姫様。私は──」


 そう言い掛けたアントニオの瞳が、ふっと虚ろに宙を映した。


 繋がれた手から強い力が駆け上り、マリーエルの意識を引き込んでいく。


「アン、トニ……オ」


 マリーエルは自分の言葉が凄まじい速度で意識の奥に流れていくのを感じていた。それを認識しきる前に、次々に言葉や歌、景色、光景、あらゆるものが頭の中を駆け巡っていく。


 ──駄目だ。


 咄嗟にそう感じるも、意識も体も何の反応も出来なかった。


 あらゆるモノが駆け抜け、自分というモノすら書き換えていく。


「……あ、あぁ……」


 ──痛い。でも、痛いって何が……。


「姫様!」


 声が響き、マリーエルは強い力で弾き飛ばされた。背に温かい感触があり、耳元で「マリー⁉」という声が聞こえる。


 ぼんやりとする頭でゆっくりと考えれば、それはカナメの声だった。


「カナ、メ……」


 声に出した途端、激しく咳き込んだマリーエルは、背に温かい手の感触を感じながら滲む瞳で寝台の上に目をやった。


 怯えたような顔をしたアントニオが、カルヴァスに支えられていた。


「姫様……あぁ……」


 アントニオは寝台を滑り降りると、伸ばした手をハッとした顔をして引っ込めた。


「何が起きた? お前は〝知の洪水〟に呑まれた、んだよな?」


「……えぇ」


 乱れた息のまま、アントニオは愕然とした様子で、マリーエルを見つめながらカルヴァスの問いに頷いた。


「マリーもそれに呑まれたってことか?」


「そう、でしょうね。ですが、姫様は精霊を導くことは出来ても、その力を全て受け入れるまでには成っていない……。知の精霊の力であれば尚更です。私のように呼び掛けを受けた者ならまだしも、他の者では、姫様であっても身が耐えられないでしょう……あぁ……」


 そこで震える息を吐いたアントニオは、マリーエルの顔を窺い見た。


「姫様、意識はハッキリしていますか。ご自分のことが判りますか」


「う、うん……。大丈夫、有難う。少し驚いちゃった」


 そう言ってマリーエルが伸ばした手を、アントニオは大げさともとれる仕草で避けた。


「駄目です。〝知の洪水〟が収まるまでは私に触れてはなりません。恐らく、姫様であればこそ、精霊の力と共鳴してしまったのだと思います。他の者はこのようなことにはなりませんでしたから」


 はぁ、と再び溜め息を吐いたアントニオに、マリーエルは胸を締め付けられるような思いになって俯いた。


 アントニオが咄嗟に伸ばし掛けた手を引っ込め、眉を寄せる。


「近くに居るだけなら何も起きない筈です。このようなことになってしまい、申し訳ございません」


 アントニオの代わりに、カルヴァスの手がマリーエルの頭をわしゃわしゃと撫でた。その手をアントニオの鋭い目が射抜いたが、しかしすぐに頭を振ってアントニオは寝台へと戻った。


「少しでも早くお役に立てるよう、今はこうして〝知の洪水〟を受け入れるしかありません。姫様、そのようなお顔をなさらないで下さい。私のことを想って下さるのなら」


 口を引き結んだマリーエルは、笑顔を浮かべると小さく頷いた。


「うん、そうだね」


「それにしても、よくマリーを押し返せたな。〝知の洪水〟に呑まれている間は何も出来なくなるって聞いてたけど」


 カルヴァスの言葉に、アントニオは眉を寄せた。


「身の内を駆ける知の中に、姫様の感情や気の流れを感じたのです。姫様の苦しみや痛みも……」


 気遣うようなアントニオの言葉に、マリーエルは額を押さえた。


「確かに……頭の中がぐちゃぐちゃになったような感覚になって……。今も少し頭が重いかも」


「でしたら、お部屋にお戻りください」


 アントニオがカルヴァスに目配せすると、カルヴァスがマリーエルの腕を引いた。「待って」とその手を押さえると、アントニオは眉間に皺を寄せた。


「これ以上お話出来ることはありません。中途半端に〝知の洪水〟を抑えてしまった今、いつまた先程のようになるか判りません。今は、姫様も体を休まれた方がよろしいかと」


 その言葉に、マリーエルは緩く首を振った。その拍子に頭が痛み、顔を(しか)める。


「違うの。〝知の洪水に〟呑まれた時、視えたんだ……。流れる水が。それと、歌のようなもの。あれは、きっと……水の中のような」


「だとしたら、やはり此度のことは海底が関係しているのだろうか」


 難しい顔をしたカナメにマリーエルが頷くと、カルヴァスが再び腕を引いた。


「多分、その可能性は高いんだろうけど、今は休むのが先だ。〝知の洪水〟が終われば全て判るんだからな。ほら、行くぞ」


「う、うん……。じゃあ、アントニオ、また来るね」


「えぇ」


 マリーエルは自室に戻ると、どっと疲労を感じ寝台に横になった。


 エランへの往復に、この国で起きていることに対して成さねばならないこと、考えねばならないことは山積みだった。


 体も心も疲れを溜めていた。


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