第45話 ◆小森裕子 惚れて、嫌って、巻き込まれる(後編)
田辺は笑いのツボにはまってしまったのか、息も絶え絶えで笑い続けている。
そういえば、笑い上戸な人だった。
『田辺さん!! 何ッスか? ねえ、教えてくださいよ!!』
そんな太田も意外にしつこい。
話題を変えたいのも然り、聞きたかった事を尋ねる事にする。
「太田、今日の歓迎会って……平居さんは知っているの?」
『え? 平居さんスか? んー、知らないと思うッスよ。 今夜するって、今朝決まったから……』
「え、今朝? ……店だけじゃなくて、日取りも急だったの?」
そんな急な集まりに、これだけの人数を招集できる福田チーフの人脈に、改めて驚嘆する。
しかし、なぜこんなに急いで宴を開く必要があったのだろうか。連絡を受けた時からずっと思っていた謎を太田に問う。
『いやぁ、たぶん……平居さんの出張が、急に決まったからだと思うんスけど……』
……相変わらず、意味がわからない。
普段から太田には、もう少し日本語を勉強してほしいと願っていた。
ここでもそう思っていたら
『つまり、それって……平居さんが歓迎会に来れない日を狙った……って事だよね?』
太田の話を理解できる事にも驚いたが、それ以上に、その説明内容に仰天した。
しかも、太田が頷いている。
「え、どういう事? ちょっと! なんでそんな酷い事するのよ!」
思わずテーブルに手をついて、太田に詰め寄る。
藤井の歓迎会はいつなんだ?……と、ほぼ毎日聞いてくるほど、平居はこの会を楽しみにしていたのだ。これが事実なら、あんまりの仕打ちだ。
『いや、ここだけの話ッスけど……どうやら藤井の希望らしいッス。 アイツ、平居さんが苦手っぽいッスよ。……いや、もう、嫌ってますね。あれは……』
二人とも、太田の意見に固まってしまった。今さっき、平居の恋心を確認したばかりなのに……。
『……ホントに?』
『……ほんとッスよ。福田チーフが困ってましたもん』
田辺も信じられなかったらしく、思わず聞き返していた。
「……ねえ、なんで平居さんが嫌いなの?」
『いやぁ……理由まではわかんないッスけど……。あ、ちょっとコレ見て下さいよ』
そう言って、太田がお尻のポケットから紙を取り出し、テーブルに広げた。見ると、レポート用紙に漢字がびっしりと書かれている。
「何……コレ?」
『この前、4階事務所のゴミ箱で拾ったんッスけど……この美文字、藤井ッスよね』
……たしかに。4階でこんな綺麗な文字を書けるのは、藤井ぐらいだ。
『俺がもらったメモと同じ字だ。……そうか、これ、藤井さんの文字なんだ』
田辺も興味をもったらしく、熱心に覗き込んでいる。
『うわ!』
その田辺が、驚きの声を上げた。視線の先を辿ると、そこに平居が居た。……鼻毛付きである。
「え! これ……平居さんだよね?」
間違いないとは思ったが、とりあえず太田に確認を入れる。
『……はい、たぶん。 あまりの上手さに、ドン引きッスよね』
太田が否定する事もなく、まともな意見を述べた。
キャピキャピ女子が言っていたように、平居の似顔絵は特徴を掴んでいてそっくりだった。
しかし、バカボンパパ並みの鼻毛が、その顔を見事に台無しにしている。
……こ、これは、あんまりだよ。
平居は大好きなタバコを止めるほど、惚れているのに……。その藤井に、鼻毛を描かれるほど、嫌われているなんて……。
……ふ、不憫すぎる。
『とりあえずこの紙、俺が預かるよ。平居さんに見つかったりしたら、とんでもないから』
言われたままに太田が頷く。確かにそれはマズイ。
『あのう……それで相談なんッスけど……今日の事、平居さんになんて説明したらいいッスかね?』
そうだ。……それが問題だ!
内緒で歓迎会を済ませましたなど、絶対に言えないじゃないか。
『やっぱり、正直に言うしかないッスかね?』
『それはダメだよ!』
「ダメに決まってるでしょ!」
慌てて二人で、太田を口止めする。 そんな事をしたら、平居が暴れ出すかも知れない。
『そうッスよねぇ……。チョー怒りますよねぇ』
しかし、秘密にしているのも無理がある。ここにいる誰かが話してしまえば、それで終わりなのだ。
どうしようもない状況に、頭を抱えてしまう。 そんな重い空気を破ったのは、田辺だった。
『プレにしてしまえば……いいんじゃないかな?』
……プレ?
田辺の意見に、太田と顔を見合わせる。
『例えば、今日の歓迎会は有志の集まりにしてさ……本番を4階の社員で、急ぎもう一回するんだよ。もちろん、平居さんも参加してね』
『田辺さん、すげぇ! チョー頭いいッス! それで行きましょう!』
なるほど、それならすべてが丸く収まる。皮肉にも、この場に参加している4階の社員は、私と太田ぐらいだ。今夜の事が平居の耳に入る前に、正式な場を作ってしまえばいいのだ。
先が見えて安心したせいか、陽気になった三人でグラスを合わせる。
美味しいお酒を飲みながら、今後の事を詰めていると、それを邪魔するかのように田辺の携帯に着信が入った。表示を確認して、田辺が明らかに苦い顔をする。
『……平居さんからだ』
「えええ!!!」
『マジッスか!?』
あまりのタイムリーな相手に、太田と二人で驚いた。
田辺も通話を始める前に、こちらに確認をとってくる。
『先程の打ち合わせどおりで……』
二人とも強く頷き返した。
田辺が立ち上がって座敷を出て行く。外で通話するようだ。
見送っていると、不意に後ろから声を掛けられた。
『あの……』
振り返ると、本日の主役がビール片手に、私の真後ろに控えていた。
その気配に全く気付かなかったので、びくりとしてしまう。
『ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。……どうぞ』
私のグラスに注ごうとする手を慌てて止める。
「あ、4階の宴会は、そういうのナシなの。平居さんが嫌がるから、覚えておいて」
『え? あ、はい! 失礼しました!』
藤井が素直に頷き、頭を下げながらビール瓶をテーブルに置く。少し後ろに下がったと思うと、いきなり額を畳につけた。
……え?!
『ワタクシ、一生懸命頑張りますので、これからもどうぞ、よろしくお願いいたします!』
その大きな声に、慌てふためいたのは言うまでもない。周りの視線を一斉に集め、プチパニックになる。私が藤井に土下座させているようにしか見えないからだ。
「ちょっと!! やめて! わかったから! 頭上げて! 大丈夫、ちゃんと見守るから!」
それを聞いて安心したのか、藤井が頭をあげた。バカ丁寧なのも、場合によっては困りものである。座敷ではなおさらだ。
『ありがとうございます!!』
「いや……はい」
本人に悪気がないので注意ができない。非常にもどかしく思う。
それより、聞いておきたい事があった。
「ねえ、藤井って、喘息なの?」
その言葉に、藤井が太田をジロリと睨んだ。 余計な事を言うな……と言いたげである。
もちろん太田は、素知らぬ顔でタバコをふかしている。
『……あの……その、小児喘息だったんです。でも、売場にご迷惑はかけません。POP室でもお休みした事はありませんでしたし、そもそも発作だってずっと起きてませんから……。あの……それでもダメですか?』
どうも、喘息であることを咎められていると勘違いしたようだ。 慌てて誤解を解く。
「責めてるわけじゃないの。ただ、売場やバックヤードはホコリが多いから、気をつけて欲しいと思って……」
『だ、大丈夫です! 私の部屋も、綺麗ではありませんから!』
喘息なんだから、掃除しなさい。 ……という助言は飲み込む。 本人が平気だと言うのだから、余計なお世話だろう。
「そ、そう。……まあ、とりあえず、頑張ってね」
『ハイ!!』
その元気な返事で終わらない事を願ってしまう習慣が、すでに出来つつある自分に苦笑した。
『……太田君』
その声に振り返ると、戻ってきた田辺が太田に呼びかけていた。
『平居さんが、昨日のクレームの件をすごく心配してるんだけど……。簡単に報告してくれる?』
そう言いながら、太田に携帯を渡している。
『あ、了解ッス』
受け取った太田は、めんどくさがりな気質のせいか、座敷の端で通話を始めてしまった。
『太田ッス。……はい、昨日の件は、大丈夫ッス』
ホントに、大丈夫だろうか? いろんな意味で心配が募る。とりあえず、手の空いた田辺に様子を伺った。
「平居さん、なんの電話だったんですか?」
『打ち合わせが無事に終わった報告でした。食事会まで誘われたらしいです。とてもご機嫌でしたよ』
田辺が胸をなで下ろしているのがわかる。やはり、心配していたのだろう。
『……あ、小森主任。平居さんが、明日の午後には出勤するって言ってました』
「え? 休めばいいのに……」
『僕もそう言ったんですけどね……。あの人も、仕事人間だから』
互いに苦笑する。飄々と仕事をこなすのでそうは見えないが、平居は誰よりも一番働く人なのだ。
『あ、のう……』
後方から遠慮がちに声を掛けてきたのは、またもや藤井だ。まだ、自分のテーブルに戻ってなかった事に驚く。
「え、どうしたの?」
水を向けると、藤井が立ち上がり、田辺の前で膝を折って正座しなおした。
『ご挨拶が遅くなりました。ワタクシ、藤井香織と申します。本日はお忙しい中、お越しくださいましてありがとうございました。田辺主任には大変お世話になりまして……なんとお礼を申し上げたらよいのか……。とにかく、心より感謝しております』
藤井が一息で口上を述べると、予想していたとおり、畳に額をつけて深々と礼をした。田辺がギョッとしたのは言うまでもない。
『ええ! ヤメてヤメて、頭を上げて! これじゃあ、俺が土下座させてるみたいでしょ! だいたい、お礼を言われるような事なんて、身に覚えがないし!』
『いえ! 田辺主任のおかげで、福田チーフに弟子入りが叶いました。ホントに何とお礼を申し上げればよいのか……』
藤井が一度上げた頭を、再び畳に擦り付ける。 なるほど、藤井が福田チーフと仲良くなれたのは、田辺の差し金だったのか。
『いや、だから勘弁してって! わかった! わかったから、とにかく頭を上げて!』
今度は他人事なので、田辺が困っている姿を見て楽しんだ。そんな田辺がこちらを向いて、助けを求めてくる。もうちょっと困った様子を見ていたかったが、藤井の背中を軽くたたいて身を起させた。
それにしても、田辺がこんなに慌てる事は滅多にない。ある意味、藤井は凄い人物なのかもしれない。
『おーい、藤井!』
平居と通話していたはずの太田が、なぜか藤井を呼ぶ。
『平居さんが、土産は何がいいかって、お前に聞いてるんだけど……』
……土産? そんな話で、藤井を呼ばないでよ! バレたらどうすんの?
田辺も同じ事を思ったのか、眉間にシワを寄せた。
『ええっと、名古屋でしたよね……。うーん』
藤井が真面目に考えながら、太田のそばに寄っていく。いろいろと聞きなれない商品名をあげ始めた。
……どうしよう。止めたほうがいいだろうか?
『んん? なんだそれ? ああ! メンドクサイから、直接言え!』
太田が藤井に携帯を渡す。
……ええええ!! って、コラァ!
『あ、藤井です。名古屋のお土産ですよね……』
通話を始めてしまった藤井をその場において、太田の首ねっこをつかんで、こちらに連れてきた。
「ちょっと!! 藤井に携帯渡して、どういうつもりなの!」
『え? いや、平居さんが……って、うわあ! ……い、いや、まあ、大丈夫ッスよ。 いくら藤井でも、自分でハブった上司に「ハブりましたよ」なんて、さすがに言わないッスよ……』
『いや、早く止めさせたほうがいい。太田君、携帯を取り上げてきて!』
田辺が藤井を指さし、英断する。驚いた太田が、渋々藤井の元に戻った。
身振り手振りで携帯を返せと伝えるが……。
『……いえ、しるこサンドです。 ……違います。 し・る・こ! サンドです。 ……は? パンじゃないです。……お菓子です。 え? ……違います。 ……コンビニで売っているそうです』
会話に夢中だ。必死で『しるこサンド』と繰り返している。
太田が悲しげな顔で、回収不能な事をこちらに伝えてくる。
『……はい? 違います。 しるこ!です。 お菓子です!』
……まだ、言ってる。どんだけ、しるこサンドが食べたいんだよ。
とりあえず、この調子なら大丈夫だろうと思った瞬間、上座で一際高い歓声が上がった。
……マズイ。平居に聞こえたかも?
そう思ったが、遅かった。
『……はい? 違います。 歓迎会!です。 私のです!』
それは『しるこサンド』と同じ調子で告げられていた。
太田は青ざめ、私は頭を抱え、田辺は天を仰いでいる。
『はい? 聞いてない? ……そりゃ、伝えてないからでしょう』
気付けば、一番最悪な状況になっていた。 三人揃って、その場にうなだれる。
『あのう……小森主任』
呼ばれて顔をあげると、そばに藤井が立っていた。携帯を差し出してくる。
「あ、それ、私のじゃない。田辺さんの携帯だから……」
持ち主が違う事を伝える。
『い、いえ。……小森主任と電話をかわってくれって』
通話中と言うことに驚愕した。携帯をもう一度差し出されて、後ずさりしてしまう。
「い、いないって言って……」
『いや、あの、なぜかもの凄く怒ってるんです。……どうにかしてください』
……自分のせいだろう!!
諸悪の根源が、いとも簡単にこちらに厄災を振ってくる事に憤りを覚えた。
しかし、拒んでいても事態は解決しないので、覚悟を決めて携帯を受け取る。
「……もしもし。お電話変わりました。小森です」
(話は明日聞く。朝イチで戻るから、三人で言い訳を考えておけ)
……処刑通告のようだ。
(あと、土産を買う時間が無くなった。)
「そ、そんな事はお気になさらず……」
(だよな……俺も気遣ってもらえてないみたいだしな!)
そう言ったきり、通話が切れた。……イヤミまで濃い。
ため息をつきながら、携帯を田辺に返す。
「明日、三人で呼び出しがあります。今夜の事を報告しなければいけません」
『だぁぁぁ!! マジッスか?! ……って、オマエ!! ふざけんなよ!』
太田が怒りを藤井にぶつけた。
藤井がびっくりして、小さくなる。いや、もともと小さい……。
その小さな藤井に詰め寄ろうとした太田を、田辺が止めた。
『太田君! 藤井さんは何も悪くないよ……』
『ええ!! だってコイツ!!』
『彼女は自分の希望を言っただけだ。叶えたこちらに問題があるんだよ』
さすがに田辺は冷静である。
藤井は、少し破天荒な希望を言っただけで、この場を準備したわけではない。責められるは、片手落ちなこの会を開いた幹事のはずだ。
それを理解した太田も、藤井を睨みつつも溜飲を下げた。
『あ、あの……私の希望で、平居さんは怒ったんですか?』
「気にしなくていいから……」
小さくなった藤井に、心配しないよう告げる。
『で、でも、……申し訳ありません』
それでも、自分に非があると思ったのか、藤井が頭を下げてくる。
『あんなに平居さんが怒るなんて、考えもしませんでした。…………ごめんなさい』
たぶん藤井は、自分が平居に惚れられているなんて、微塵も思っていないのだろう。人の好き嫌いばかりは、押し付けられない。
それでも、もう少し優しくしてあげて欲しいと思う。恋愛に関して平居は、可哀想な人なのだ。
「まあ、もうちょっと、その場の空気を読めるようになってほしい……かな?」
藤井にとって難題だとわかっていたが、あえて助言する。
「は、はい。……努力します」
「マジでわかってんのかよ……。オマエ、平居さんを怒らせてばっかじゃん……」
「な、だって! ……うぅ」
反省しているのに、反論はいけないと思ったのだろう。藤井が言いたいことを飲み込んだ。 ……なのに、怒りが収まらない太田が、それを挑発する。
「なんだよ……言えよ!!」
「だって! しるこサンドであんなに怒るなんて、思わないじゃないですか!!」
……え? ……えええ!!
「 ソコじゃないから!!! 」
三人同時にツッコんだのは、言うまでもない。
藤井のあんぽんたんな回答に、誰もが頭を抱える。
この場の会話も読めない藤井に、これ以上何を話しても無駄だと悟った。
◆-◆―◆
「なんで俺の知らない間に、藤井の歓迎会が開かれてるんだって聞いてんだよ!」
痺れを切らした平居が、デスクを叩きながら声を荒げる。やはり、藤井が関係する事は、どんな事でも冷静で居られないらしい。
昨日を振り返ってみたが、名案など浮かぶはずがない。ところが突然、太田が口を開いた。
「いやぁ、仕方なかったんッスよ。藤井が平居さんの事キラ……」
「うわぁぁぁぁぁ!!」
大声を上げて太田の台詞を遮り、慌ててその口を塞いだ。
……それはダメ! 絶対に言っちゃダメ!!
太田の目玉に、直接目ヂカラで訴える。口を塞がれた太田が、涙目で大きく頷いた。
『ええっと!! ……たまたま、藤井さんと平居さんのスケジュールが合わなかったのでは……』
その間に、田辺がいささか苦しい言い訳を試みてくれていた。しかし、それが逆に平居の癇に障ったらしい。
『ほーう。他人に仕事を押し付けてまで宴会に参加した部外者が、俺のスケジュール管理を責めますか? 』
平居のイヤミに拍車がかかる。
田辺は言葉を飲み込むしかなかった。
……普段、こんな事、絶対言わない人なのにな。
どれだけ気持ちがささくれているかがよくわかる。平居の気持ちを量っていると、事態が思わぬ方向へ急変した。
『あ、あのう……。田辺さんは藤井に呼ばれて行っただけッス。 ホント、全然悪くないッス』
太田は田辺を助けたつもりだろうが、その一言がすべてを地獄に変えた。
『な、なんだと! お、お前ぇ……いつの間に藤井とそんな仲に……!! 殺ス! 絶対殺ス!!』
立ち上がった平居が、田辺の胸倉をつかんでいる。すでに我を失っている状態だ。
『な! なんの話ですか! 知りません! 誤解です!!』
『ひ、平居さん! 何してんスか!! ダメッス!! やめてぇぇ!!』
男三人が、もみくちゃになって喚いている。まるで子供が喧嘩しているような有様だった。
この状況に、私もその場でオロオロしてしまう。
『何をしてるんですか!!』
その強い言葉に、全員がピタリと動きを止めた。振り返るとそこに、福田チーフが立っていた。
「……太田リーダー。昨日のクレームのお客様が受付にいらしてます」
「……え、なんで!! ウソ!?」
……やっぱりダメだったのか! その場の誰もが思った。
「昨日の対応に喜ばれて、直接来られたそうです。ご挨拶してきてください」
「……ま、マジッスか!? 行きます! 急いで行きます!」
その言葉通り、太田は一礼すると事務所から飛んで出て行った。それを確認してすぐ、福田チーフが田辺をまっすぐ見る。
「カナダへ移住された柴田様。田辺さんの特別顧客ですよね」
「……え? あ、はい。そうですが……」
「さきほど、パンプスのメンテナンスについて問い合わせがあったようです。……もしかして、帰国されているのではないですか? 情報、入っていますか?」
『ええ! すみません、まだです。急いで調べます』
田辺が慌ててデスクに戻り、ファイルを取り出す。その背中に、すぐに指示がとんだ。
「田辺! 先に2階の坂下主任を捕まえろ! 彼女はそのあたりのツテが太い。帰国が確認できたら、外商の岩前と三人で対応するんだ。連絡は俺が入れてやる」
すでに仕事モードに切り替わっている平居が、適格な人材をチョイスし、チームを組ませる。
「あ、はい。わかりました。ちょっと、行ってきます」
田辺もまた、風の速さで事務所から居なくなった。
替わるように、福田チーフが平居の前に陣取る。平居の通話が終わるのを待ち、口を開いた。
『藤井さんの歓迎会を準備したのは私です。……不手際がありましたので謝罪に来ました』
いきなり頭を下げる福田チーフに、私も平居も驚く。
『……でしたら伺いますが、今回、どうして私に何の知らせもなかったんですか?』
いったん仕事モードに入ったせいか、平居は先程と違って随分落ち着いていた。淡々とした口調で状況確認を行う。……なのに。
『それが、藤井さんの希望だったからです』
……うそでしょう。
なんの悪ぶれもなく、福田チーフがそう告げる。平居が目を見開いて驚いていた。
『ど、どういう意味ですか……?』
声が震えている平居に、私の気持ちも同調する。
……お願い! 福田チーフ! それ以上、言わないで。
『それは……』
願い虚しく福田チーフが再び口を開く。
『3階と4階を兼務している平居マネージャーの多忙な毎日に、藤井さんが気を使ったんです。たった一人の歓迎会の為に、平居さんの貴重な時間を割いてもらうのは忍びないと言っていました』
……え。……うそ。
もともと凄い人だと思っていたが、その口の上手さに感服する。ものは言いようとは、まさにこの事だろう。私でさえ、何が本当かわからなくなりそうだった。
平居を見ると、すでに頬をうっすら染めていた。藤井に心配されたと知って、嬉しくないはずがない。
『で、ですが、私は責任者です。すべてを把握しておく義務があります。出席の有無は別にしても、連絡ぐらいは……』
なのに、最後の悪あがきをする。よっぽど藤井と食事をしたかったのだろう。
『はい。仰るとおりです。私も、お伝えするべきだと考えました。ですが、今回の平居さんの出張が、とても重要なお仕事だと聞いて躊躇してしまったんです。……これは、私の判断ミスです。申し訳ありませんでした』
……う、うまい。
最初から謝罪に来たと言っていた福田チーフを、これ以上問い詰めるのは無粋というものだ。
反省している相手を追いつめる……それは、平居が一番嫌っている「できない上司」の典型だからだ。
『……事情はわかりました。結構です。仕事に戻って下さい』
案の定、ため息とともに平居が話を切り上げる。そんな平居の前に、福田チーフが二つ折りの紙を差し出した。
『え、これは?』
『藤井さんから伝言を預かってきました。今日彼女、お休みなので……』
平居が受け取った事を確認すると、一礼して福田チーフが事務所から出て行く。
紙を広げ、平居が読み終えた途端、その顔を真っ赤にさせた。
「どうしました?」
あまりの急変に、驚いた私は思わず声を掛けてしまう。
『なななな、なんでもない。や、こ、小森も、もういいから! う、売場に戻って!』
あからさまな異変に心配になった。
しかし、何を聞いても平居は「なんでもない」としか答えない。
仕方がないのでその場を辞して、福田チーフを追いかけた。エレベーターホールで追いついて声を掛ける。
『あら、小森主任……。どうしました?』
「さっきの紙なんですが…… 何が書いてあったんですか?」
『え? あ、それは言えません。ただ……』
福田チーフが隅に寄り、手招きする。そばに寄ると、小声で続きを話し始めた。
『これは内緒ですが、昨夜の歓迎会で、田辺さんの他にもう一人、藤井さんの為にご招待していた方がいるんです。名前は言えませんが、部長職の方です。』
部長という言葉に驚く。ただ、昨日の場に該当する人物は見当たらなかった。
しかし、4階の歓迎会で考えられる部長は、第一営業部の統括者「花岡部長」ぐらいだろう。
『……ですが、仕事の都合でどうしても来られなかったんです』
なるほど、予想は当たっていたようだ。花岡部長は、たかが下っ端の歓迎会などに出席するような人ではない。つまり、体よく断られたということだ。まあ、当然の流れだろうと思っていたら、チーフの次のセリフに驚愕した。
『実は、あの手紙はその方宛てに、藤井さんに書いてもらったものなんです』
「えええ!!」
……そ、そんな横流しな事をして、大丈夫ですか?
『フフ……大丈夫ですよ。そこは上手に調整していますから』
私の表情を読み取ったチーフが、笑顔で答える。
しかし、営業部長宛てに、藤井がどんなおべんちゃらを書いたのか……いまひとつ想像ができない。
……平居があんな焦るような事って、いったい何だ?
『小森主任』
考え込んでいると、不意にチーフに名を呼ばれた。慌てて返事を返す。
『今の藤井さんは、平居さんに見捨てられたら行き場がありません。本人にその自覚がないのが困りものなんですけど……。とにかく、平居さんに気に入ってもらわなければ、藤井さんの未来は無いんです。これからも、いろんな手で藤井さんを売り込んで行くつもりです』
……え、福田さん。その必要は皆無ですよ。 今のあの人なら、言い値で買いますから。
『とりあえず、今回はアメとムチ作戦で行きました。効果があればいいんですけど……』
……効果がテキ面過ぎて、困ってますって!!
福田チーフは、藤井の気持ちを知っていても、平居の気持ちは知らないらしい。
あくまで平居のプライベートな事なので、チーフに伝えるべきか悩んでしまう。
『もちろん、指導もちゃんとしますので……小森主任も、ご協力よろしくお願いします』
最近、こんな風に福田チーフに頭を下げられてばかりだ。これまでと態度が180度違うので、いろいろと戸惑ってしまう。
それでも、福田チーフに頼ってもらえるなんて、一生ない事だと思っていた。
それだけに、この状況は素直に嬉しかった。
「……わ、わかりました。 こちらこそお願いします」
私も、誠意をこめて頭を下げる。
エレベーターに乗る福田チーフを見送り、誰もいないホールで一人、今の状況を整理した。
……なんだろう。 とてつもない事に、巻き込まれているような気がする。
その暗い予感に背筋が寒くなったが、気のせいだと自分に言い聞かせ、気合いをいれた。
とりあえず、受付で太田の状況を確認するため、1階に向けて足を踏み出す。
その自分の足元で、すでに大きな渦がうねり始めている事など、もちろん知る由もなかった。
読んでくださってありがとうございます。
長くなってすみません。




