第34話 ♪藤井香織 靴音は弾み、文字は歌う
<華>と言う漢字は素敵だ。
いつ見てもうっとりする。さすがに意味どおり、姿・形が華やかさに長けている文字だ。
<薔薇>……こう見えて私は、間違えずに書けた。ちょっとした自慢である。
草冠の下にある<微>は、まるで白いバラの花が、私に微笑んでいる様を想像させる。おや、花園に立っているのは王子様であろうか……?
続けて<紳士>と書く。……浮かぶ姿はもちろん決まっている。
幸せの王国に君臨する王様は、あの方しかあるまい。ああ、エクセレント!!……そう叫びたい気分だ。
……いや、あ、これはもちろん仕事ではない。
どうしてもやる事が見つからないので、事務所の片隅でレポート用紙に好きな漢字をつらつらと書き連ねていたのだ。
真っ白な紙に漢字が百以上並ぶと、かなり壮観である。
ところどころ、<退職><天狗><馬鹿><殺意>……など、好きでもない文字が並んでいるのは、心の不安が現われているという事にしておこう。
……次は何を書こうかな。
そう思案していると、遠くから聞き覚えのある靴音が聞こえてきた。
安定したヒール音が鳴っている。
そういえば、靴音にも人それぞれ特徴があるという事を、この二日間で知った。
ちなみに、出来る女のこだわりなのか、モンロー主任はやや高めなヒールで女性らしいパンプスを愛用していた。もちろんピンヒールではないけれど、やけに歩き方が不安定で、その音もなんだかぎこちなく聞こえた。
その靴でよく仕事が出来るなぁ……と感心したほどだ。
替わってミドレンジの音は、靴底を擦ったまま歩くので、全くもってだらしのない雑音に聞こえる。人間性がそのまま出ていると言ってもいいだろう。
大きなお世話だが、もう少しやる気のある音を出して欲しいもんだ。
反対にツルちゃんは、動きやすさ重視のローヒールパンプスだ。その音はとても軽やかでやる気に満ち溢れていた。新人は走りまわって一人前と言う事だろう。(売場は走っちゃだめだけどね)
ツルちゃんの靴音を聞くだけで、私も頑張らなくちゃと思える。 いや、今のトコ、頑張れる事が何ひとつないんだけど……。
まあ詰まる話、そんな風に音を聞き分けられるほど、私はヒマを持て余していたわけだ。
そして、今、私の耳に聞こえているのが福田チーフのヒール音だ。
安定したミドルヒールが、リズミカルに床を鳴らしている。
その黒いパンプスは、福田チーフの足の一部となって、その仕事を見事にサポートしていた。歩く姿がとても美しいのだ。これまでに何度その姿に見とれてしまった事か……。
残念ながら、私が履いている靴は学生の頃から愛用している黒革のローファーなので、あのヒール音を出すことはできない。けれど、せめて姿勢だけは真似したいと願い、常々福田チーフの観察を怠らないよう心がけていた。(もちろん、仕事を覚えたい気持ちの方が上だけど)
今も耳を澄まして、美しい音色に聞き惚れている。
事務所の外でピタリと音が止んだので、何気なくそちらを見た。
……目が合った。
え、ヤバイ。
どどど、どうしよう。これは視線を逸らすべきか?
額に玉の汗を掻きながら固まっていると、在ろう事か、福田チーフが目線を合わせたまま、こちらに迫ってきた。
にょぉぉぉぉ!!! 接近してくるぅぅぅ!!!
メデューサに睨まれたみたいで、まったく動けないんですけどぉぉぉ!
しかも、側までやって来た福田チーフが、漢字だらけのレポート用紙を取り上げたのだ。
……あ、 ……ぎゃああ! それはイケマセン!!
その紙には、平居の個人名こそ書いてはいないが、あまりにも物騒な文字が並んでいた。
あぁぁ……もうだめだ。 クビだ。 クビしかない。
福田チーフが睨むように、レポート用紙の漢字を見つめている。
……うぅ。おかあさん、ゴメンなさい。 しばらく仕送りはできなくなりそうです。
母に侘びを入れながら項垂れる私に、福田チーフの鉄槌が降りた。
『たしかにアナタ……字が上手ね』
はい、すみません。 遊んでいました。 漢字を書いて暇つぶしをしていました。
しかも、上司に対して悪意をぶちまけております。
いまさら遅いだろうが、反省の気持ちを込めて謝罪する。
「……申し訳ありません」
文字で表現するなら、後ろに「しゅん……」という擬音がつくぐらいに萎れた。
『どうして謝るの? 今、褒めたのよ』
は? 褒めた? え、聞いてなかった。
『アナタ、これ作り直せる?』
そう言って、チーフに手渡された紙は、破れた商品POPだった。
『お客さまのイタズラだと思うんだけど……』
うわぁ……酷い。
無残に裂かれた紙の残骸を見て、心がスッと冷たくなった。
POPに対するひたむきな気持ちを、嘲笑された気がしたからだ。
どんな小さなモノでも、魂を込めて作る。
そうやって送り出したPOPの末路がコレだとは……胸が苦しくなってくる。
あやうく泣きそうになったので、慌てて思考を戻した。
「ええっと……画用紙とペンさえあれば、できると思います」
私の技術が必要とされるなら、今でもそれに応えたい。
その気持ちはどこに居たって変わることはなかった。
それに、道具さえあればどこでだって作れる!……そういう自信も私にはあったのだ。
するとチーフが棚から箱を取り出してきて、デスクの上に無造作に置いた。
『開けてみて』
促されるままフタをあけると、中にはA4サイズのボール紙やカラフルなサインペン、ハサミ、カッターなど、そういった文具が雑多に入ってあった。
……わぁ!!
この瞬間の気分を説明すると、トロ箱を開けて、活きのよい魚を目にした時の、寿司職人の気分ではなかろうか。思わず手もみして「早く握りたい!!」……と思うカンジだ。
もちろんフレンチのシェフが、上等なトリュフと出会い、「トレビアーン」と恍惚な表情でつぶやく……というシチュエーションでもかまわない。
いや、とにかく、職人魂が刺激されたと言いたいわけだ。
気付けば、チーフの許可も取らずに箱の中を物色していた。
必要な道具をチョイスして、早速仕事に取り掛る。
と言っても、自分には10日以上のブランクがある。
プロスポーツ選手なら、競技によって致命的な場合もあるだろう。
POPライターならどうか? ……ノープロブレム! だ。
むしろ臨戦態勢と言ってもいい。
さきほどまで百を越える文字を書いていたのだ。偶然だが、この本番の為に準備体操をしていたのではないか? と自分の行いを肯定したくなる。(イヤ、しちゃダメだけど)
迷わずペンを走らせた。 気持ちがいいほどしっくり来る作業だ。
気付けば没頭していた。やっぱりPOP作りは楽しいのだ。
こうやって離れてみて、なおさらそう思う。
目の前の白い紙に、徐々に命がやどっていく。
この紙が、自分に与えられたメッセージを歌い始めるまで、もう間もなくだ。
読んでくださってありがとうございます。




