第31話 ♪藤井香織 幸せの青いハンカチーフ
売場へ異動になって三日目を迎えた。
はっきり言おう。 今の私は三日前の私と何ら変わっていない。
スキルアップはおろか、このままでは給料泥棒と言われるのではないか!……そう危ぶんでいるのだ。
今こうして、ひとりぼっちのランチタイムで、その事について頭を悩ませている。
果たして、福田チーフの厳しい指導についていけなかったのか?
……いや、決してそうではない。
鬼教官と恐れていた福田チーフだが、まったくもって鬼ではなかった。
と言っても、優しい指導者でもなかったのだ。
……端的に言えば、ずっと無視されている。
断っておくが、弟子入りそうそう何かをポカしたわけではない。
初めまして以降、一言も口をきいてくれないのだ。
どうしてこんなにも嫌われているのか? 理由がさっぱりわからない。
あの “マツゲデビュー”が原因では!! と、当初は思っていたのだけれど、パート社員である福田チーフは朝礼には参加していないらしい。(朝礼は正社員のみだと、あっちゃんがメールで教えてくれた)
では何故か? ……そうなると、やっぱり、モンロー主任のせいでは? という答えに行き着いてしまうのである。
どう見ても、福田チーフと小森主任は不仲だ。
これが個人的な事なのか、現場では当たり前の事なのかは、売場の経験値がないのでよくわからない。
どちらにしても、敵対するモンロー主任の手下(?)などと誤解されたのではないか……と推測されるが、そうだとすると、非常に迷惑な勘違いである。
かと言って、面と向かって「手下ではありません!チーフの味方です!」などと宣言するのも難しい。実際に主任は、私の監督官なのだ。命令されれば、私は背けない。
……うーん、これは思った以上にややこしい立ち位置だぞ。
こういう状況に慣れていないので、対処の術がまるでわからなかった。
それにしても、さすが、たらし天狗が統べる敵地である。
たった三日で、ミドレンジに騙され、モンロー主任に嫌われ、そして鬼チーフに無視された。しかも、社員全員に笑われるというおまけつきだ。
安息の地だとは思っていなかったが、ここまで酷い職場だとは……。
やっぱり、天狗のお山で暮らして行けると思った事自体、間違っていたのだろう。
自分の浅はかさを、ちょっとだけ後悔する。
とにかく、ランチも一人だが、売場まで一人になってしまった。
どうしよう? このままだと、ボッチすぎておかしくなってしまうぞ。
頭をフルに使って、対策を考える。
……何も浮かばない。
……くぅ……おウチに帰りたいよ!
しかし、どんなに嘆いたってPOP室は復活しないのだ。
仕方が無いので、名案を探すために携帯を取り出した。
ネットにつないで『職場の孤立』について検索してみる。
けっこうなヒット率だった。悩んでいる人が多いのだろう。
期待をこめてページを進む。
……退職願いを書きましょう。
慌てて携帯を閉じて、透明バッグに仕舞った。
心臓がバクバク言っている。
……私、売場でやってけるんだろうか。
残っていた僅かな自信まで、削ぎ落とされる。
あまりに辛いので、とりあえず現実逃避する事にした。
バッグから青いハンカチをそっと取り出す。
掲げて眺めると同時に、自動的に頬が緩みだした。
……いかん、いかん。
慌てて頬を持ち上げるが、顔の筋肉がどうにも締まらない。
頭の中に、ジェントルマンが颯爽と登場するからだ。
……いや、参ったなぁ。
そう思いながらも、気持ちが少し上を向いていくのを感じる。
時間がどんどん巻き戻された。……大好きなあの人が、笑顔を見せてくれたあの瞬間に。
異動先を知って泣いた日の翌日、貸して頂いたハンカチを返そうと、真木部長にこっそり会いに行った。綺麗に洗ってアイロンをかけたハンカチを差し出すと、ジェントルマンが笑ってその手を押し戻してきた。……思わず躊躇う。
『それは、藤井が持っていてくれないか?』
戸惑う私に、ジェントルマンが優しく言葉を添える。
『そのハンカチ、幸せを運んでくれるハンカチだから……』
手元に戻ってきた青いハンカチと、ジェントルマンの顔を交互に見てしまう。
……それは小鳥では? もしくは色が黄色かと……。
そんな野暮な事は、思うだけで、もちろん口には出さない。
実際、ジェントルマンの持ち物と言うだけで、こんなに幸せなのだから。
その瞬間から大切な宝物ができた。
笑顔と一緒に、私に預けられた『青いハンカチ』
嬉しさのあまり、いつもバッグかポッケに入れてお守りにしている。
もちろん、これで手なんか拭いたりしない。
何かある度に、いや、何もなくてもボンヤリ眺めてニンマリしていた。
……こうやって、元気をもらうために。
今もまた、ハンカチをウットリと眺め、刺繍を指でなぞってみる。
すると、ある事にふと気付く。凝った刺繍だったのでわからなかったが、これはアルファベットの飾り文字のようだった。
それは別にいい。とても綺麗で美しいその姿は、賞賛するのに値する出来だ。
問題なのは技術ではなく、その文字選択だ。
ジェントルマンは「真木優介様」なので、使う文字は「Y」と「M」だ。しかし、その飾り文字はどう見ても「F」と「H」に見える。
まわしても、裏返してもFとHにしか見えないその文字に、眉を顰めた。
……なんでだ?
5秒ほど、全身の動きを止めて考えてみた。
……ま、いっか。
出した答えである。……深く考えない。それが私の長所だ。
気付くと休憩時間も残りがわずかになっている。深いため息をひとつ吐いて、椅子から立ち上がった。売場に戻る為に食堂の出口に向うが、気が重いせいなのか、いつもより足が重い。足が重いから体まで重たく感じた。
……あぁ、地球以外の重力で、押しつぶされそうだ……。
そんな重たい全身を引き摺りながら、よろよろと売場へ向かって歩き出した。
読んでくださってありがとうございます。




