第29話 ◆西尾雄輔 預かり猫の粗相
本館の全体朝礼も終わり、各フロアー長が去った後の営業事務所は比較的静かになる。
残っているのもわずかな人数だけだ。
『ほ、本館長、こちらにも目を通していただけますか?』
最近、自分をサポートする役職に就いたばかりの谷村が、緊張した様子で書類を持ってくる。
内容は見なくても分かっていた。今日中に認め印をもらって経理に提出しなければならない書類だ。経理部長のご機嫌を考えると午前中の提出が望ましいだろう。
黙って書類を受け取り、デスクの端に置く。
『あ、』
驚いた顔をするが、彼は黙ったままだ。
……すぐに欲しい書類なら、急ぐと主張しろ。
仕事はできるが、今ひとつ押しが弱い。そこが彼の欠点だと思っている。
これまでに何度かその事を指摘したのだが、改善するのは容易い事ではないようだ。
今もまた、何か言いたげに口を開くものの、言葉が発せられる気配はない。
嘆く反面、原因の半分が自分にもあると思えるからやっかいだ。
いつまでもデスクのそばに立ち尽くしているので、目線を向けてやると……
……縮み上がった。 わざとか?
『ごごごごご、午前中によろしくお願いします』
ようやくそう言って一礼し、自分のデスクに飛んで帰っていく。
……まったく。
自分が優しげな顔から程遠い事ぐらい、承知している。
しかし、そうやって怖がられてばかり居ると、それなりに傷つくのだ。私だって、常に怒っているわけではない。
しかもそれが、谷村だけでないという事が悲しい。
最近下の者に笑いかけると、なぜか極端に驚かれて、相手が不審がった。その後、意味も無く用心されるので、殊更不愉快な思いをする。
なるほど、年齢が増せば、この顔に貫禄までプラスされるのだ。
これはもう、人として正当な反応だと受けとめるべきなのだろう。
……すでに、あきらめの境地に至っていた。
仕方がないのでここ数年、無表情を通している。
……怖さが増すばかりだった。
虚しい気持ちに囚われながら、時計を確認する。すでに各フロアーの朝礼も終わる時間になっていた。あいかわらず時間が経つのが早い。
デスクに置かれた珈琲も、口をつけないまま、すっかり冷めていた。しかし、腕を伸ばして手に取ったのは、その横に置かれた書類だ。 至急で目を通さなければいけない物が、山のように積まれている。
一向に減らないその量にうんざりしてしまうが、悠長に構えてもいられない。会議や打ち合わせなどで、デスクに座れる時間が、ほんの僅かだからだ。
気合を入れなおし、ひたすら活字と数字を追いかける。
冷めた珈琲ですら、口にする時間は無さそうだった。
『失礼するよ』
聞き覚えのある声に、思わず顔を上げる。
戸口で『やあ』と右手を上げたのは、営業企画部部長である真木優介だ。
高校、大学と、ラグビー部で鍛え上げられたその体は、四十五歳を間もなく迎えようという今でも、現役感を醸し出すほど引き締まっている。
……何をどうすれば、その肉体を維持できるんだ?
腹こそ出ていないが、四十を迎えれば肉体的衰えはどうしようもない。
自分の体を見てそう思うのだが、このような例外が目の前に居ると、癇に障って仕方が無い。
……ドーピングでもしなければ無理があるだろう。
その体にどんな秘密があるのか、聞いてみたいと思った。
「おはようございます。……何か、ございましたか?」
もちろん、聞くのは仕事の話だけだが……。
『謝罪にね……』
そう言って、真木が極上のスマイルを寄越してくる。 体と違ってその顔は、ラグビーとはまったく無縁と言いたげなほど甘いマスクだ。 その笑顔に思わず、統一してくれ……と進言したくなる。
纏う空気もうんざりする程、清清しい。 「爽やか」と言う言葉は自分の為にある……そう言っても、この男なら許されるだろう。
「特に、覚えがありませんが……」
『相変らず、君は皮肉屋だね。 私の預けた猫が、初日から粗相をしたようじゃないか』
楽しそうに話している。とても謝っているようには見えない。
「それなら、ご心配いりません。新しい飼い主にお灸を据えておきましたから……」
そう、不憫なのは平居だ。
太田もそうだが、厄介な人間ばかりをこの男から押し付けられている。
その平居も、適当にあしらえばいいのに、負けず嫌いが災いし、真正面からそれを受け止めて苦労していた。
昨日も、藤井について言及したとき、ただひたすら謝ってきた。
監督不行きはあるにしても、初日から、本人の素行の悪さを指摘されても困るだろうに。
どちらかといえば、今、目の前にいるこの男が甘やかした結果だ。その責任を被る平居が哀れで仕方が無い。
そう思って、他所へ異動させてもいいぞと、助け舟を出してやると
……藤井は自分の部下です。その必要はありません。
平居は迷いもせずにそう言い切った。 その顔に覚悟が見えていたので、それ以上は何も言わなかったが、この先藤井で苦労する事は目に見えている。 ……大丈夫なのか?
過剰な心配は、平居に必要ないと分かっていても、その身を案じてしまう。
……弄ばれてるようにしか、思えないんだがな。
この男も、何がそう気に入って、平居をからかうのか不思議で仕方がない。
目障りなら、簡単に捻り潰せるようなものの、それをするわけでもない。
手の上で踊らせて、困っているのを楽しんでいる。……まあ、つまり、腹が黒いと言う事だろう。
『彼は、毛色の変わった猫を気に入ってくれたかな?』
「さあ、どうでしょう? 持て余している感じでしたが」
『それは素晴らしいね。 そう簡単に飼い主の顔をされても困るからね』
楽しげに、ウインク一つ放って寄越す。 様になるから煩わしい。
“トントン”
デスクに乗せた真木の指が、周りに聞こえない程度の軽い音を鳴らす。
“話がある” ……そういう合図だ。
エレベーターホールまで見送るために立ち上がった。
事務所を出て先を行き、下ボタンを押して待つ。
後ろに立った真木が、小さな声で囁いた。
『美奈子さん……納得してくれたのか?』
離婚調停中の自分の妻の名を聞いて、思わず顔をしかめてしまう。
「……おかげさまで、今度は判を押してくれるようです」
心配してもらっている相手に、礼を返す。
彼女の問題行動において、真木には迷惑のかけ通しであった。
私がこの人に頭が上がらない理由のひとつである。
『多々良が、なかなか手強い相手だと嘆いていたものだから、少し心配になってね』
代理人の多々良弁護士は、大学の後輩だからと真木が紹介してきた人物で、それはつまり『いい加減、嫁を何とかしろ』……というお達しだった。
実際、今のままではこの先の出世に影響が出るほど、問題が深刻化していた。真木はそれを懸念して、大変優秀な弁護士を紹介してくれたのだ。
私自身、特にこれ以上高い椅子を望んでいないのだが、真木がそれを許してくれないらしい。
「多々良さんはとても優秀な方です。大丈夫ですよ」
『そうか。 ならいいんだが……』
そう伝えてもなお、真木は心配顔だ。
『離婚は、心底疲れるからな……』
意外な言葉をもらす。
思えばこの人も、離婚経験者でバツイチだ。
再婚した奥さんとは上手くいっているようだが、前妻との離婚は、かなりの修羅場があったと聞く。彼のため息には、それこそ経験者の重みがあるのだろう。
カゴが到着して扉が開く。
閉じないように下ボタンを押したまま、上司を中へ促した。
『そう言えば、さっきの猫の件だが……』
中に入って振り返りながら、真木が思い出したように話す。
行き先階のボタンを押しながら、感情の無い視線がこちらに向けられた。
『平居君の手に、どうしても馴染まないようなら……』
その先を目だけで促してくる。 直接命じるつもりは無いらしい。
彼の欲しい言葉を瞬時に探す。
「……わかりました。 こちらで処分します」
一礼して頭を上げると、視線が再び合う。
悲しい事に、正しい選択をしたようだ。
『すべて、君に任せるよ』
真木が言い終わると同時に、エレベーターの扉が閉まる。
……その目が怖いくらいに、笑っていた。
読んでくださってありがとうございます。
これで長月①の章は終わりです。次回から長月②の章がはじまります。
※なお、今年の更新はここまでです。年末年始はお休みします。(次回更新日は未定)
今年一年ありがとうございました。m(_ _)m
それでは皆様、よいお年をお迎えくださいませ。




