第26話 ☆平居郁人 藤井の耳に念仏
とりあえず、反省を兼ねて昨日を振り返る。
とにかく全てにおいて上手くいかない1日だった。
自分で言うのも何だが、あんなに何もかもが躓く一日は、本当に珍しい。
何がいけなかったのか……。
何となく理由は分かっている。 多分、普段しない事をしたからだ。
始まりは……そう、藤井をPOP室で待たせた事だ。普段の俺なら、絶対にあんな事しない。新入りに気をつかう事自体、おかしいからだ。……結果、土偶に出会うハメになった。
ああ、そうだ。 あれから歯車が狂い出して、すべてが後手後手になったんだった。
散々な一日が蘇ってくる。
最後は、本館長の叱責までもらった。鬼の叱りを受けたのは、いつ振りだろう?
フロアー長になってからは覚えがなかった。
身が縮まる程の怒号に、懐かしさを感じたが、喜ぶ事ではない。
それにしても、昨日の時点で藤井の失態が西尾さんの耳に入るということは、おのずと一番知られたくない相手にも情報が伝わっている……そう考えるべきだろう。
考察したのはいいけれど、やはり受け入れ難かった。
あの男が腹を抱えて笑っている姿を思うと、ハラワタが煮えくり返るからだ。
……クソ! ムカツクな!!
腹の中で毒突くが、心が晴れるはずもない。
思えば、藤井を特別扱いしたのは、真木の挑発に乗せられたからだ。
……ん? 待て待て、これこそアイツの思うツボじゃないか……。
完全に、真木のワナに嵌っている自分に愕然とする。
『平居さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど……』
落ち込む俺に、心配して声を掛けてきたのは、小森だった。
「あ、いや、大丈夫。……大丈夫」
ハンパじゃないほど凹んでいたが、引きずるわけにいかない。
曖昧ながら笑顔を向けて、用事があるのか、彼女を促した。
『それが……すみません。 藤井が……まだなんです』
は? ……えぇぇ!!
歯切れの悪い口調だが、内容は衝撃的だった。
慌てて周りを確認する。すでに大半の社員が整列を始めていた。
間もなく、フロアーの朝礼が始まるからだ。
小さい体が人だかりの影になっているのでは? ……という願い空しく、目を凝らして探してみても、コビトの姿を見つける事ができない。
……マジか。 嘘だろ。
昨日懸念していた事が、まさか現実に起きるなんて……微塵も思っていなかった。
藤井は残念な事に、自分の入社式ですら遅刻すると言う、大それたヤツだ。
どうも、社会人としての基本的モラルが一部欠損しているようである。よって、売場の朝礼も軽視しているに違いない……そう心配した俺は、昨日の帰り際、わざわざ藤井に注意を促したのだ。
それなのに……。
「絶対遅刻するなよ!」って、3回は言ったぞ。
「売場は出勤時間が違うからな!」 なんて、5回も繰り返したのに。
もう、バカでも覚えるだろうっていうあの念押しは、いったい何だったんだ?
自分の想定をここまで凌駕するとは……凄まじい馬耳東風力である。
……俺は、無駄な努力をしていたのか?
居ない相手に泣かされそうになる。
しかも藤井は、徒歩7分というファンタスティックな通勤時間だ。
目と鼻の先で遅刻だなんて……もう、俺をナメているとしか思えない。
こうなると、藤井の意識改革更生難易度は、東京スカイツリー並みと言えるだろう。もはや、人力では到達できない、日本で一番を誇る高さだ。 どうする? どうすればいい?
気がつけば、小森と二人で頭を抱えていた。
ヤバイ……俺達昨日の今日で、さっそく藤井に振り回されているじゃないか……。
凹んだ気持ちが、さらに谷底へと誘われた。
「とりあえず、朝礼が終わっても来ないようなら、総務に連絡入れて……」
『……わかりました』
直近の指示だけ出して、小森を下げさせる。
列に戻っていく小森の背中が、いつもより小さく見えた。
あぁ……また、過剰に責任を感じてるんだろうな……。
新人の教育は部下の勤めなので、普段は口を出さない俺だが、この状況ではそういうわけにもいかないだろう。
小森一人に任せるには、どうにも荷が重過ぎる。ここは俺も、藤井の行動に出来る限り目を光らせ、なるべくフォローにまわろう。
とにかくこれ以上、藤井の失敗で真木を喜ばせるわけに行かない。
……ん? 待て待て、だから、その特別扱いがヤツの思うツボなんだって……。
気づけば、またワナに片足を突っ込んでいた。
この負のスパイラル……どうやっても俺を、谷底に落とそうとする。
……あぶない。マジで恐ろしい蟻地獄だ。 くそぉ……あの男
「転職……してくんないかな」
思わず、弱気が声になって漏れていた。
『え、平居さん。転職するんですか?』
……俺じゃねーよ。
横にいた田辺の質問に、ツッコミを入れたくなる。
「なんでもない」
結局、適当にごまかした。
『あの……お時間ですけど、どうしますか?』
朝礼当番として、改めて田辺が聞いてきた。時計を見ると、開始時刻から5分も過ぎている。
「……悪い。 始めてくれ」
頷いた田辺が、3・4階の社員の前に立って朝礼の開始を告げた。
いつものように、昨日の数字報告から始まる。すでに頭の中に入っているので聞く必要はないのだが、イライラしているせいか、全く耳に入ってこない。
……ああ、マジで遅刻かよ。
いつの間にか、拳を握っている自分に気づく。
落ち着け、俺。……何か理由があるかもしれないじゃないか。
そう。普段の俺は、部下に対して頭ごなしに叱るなんてしない。まずは相手の話を聞いて、それから何がいけないのかを説明する。
怒る俺だって、エネルギーが必要なのだ。出来れば省エネで効果の高い方がいい。
深呼吸して落ち着きを取り戻す。
……とりあえず、今日は普段通りを心がけよう。 大丈夫、なんとかなるさ。
藤井だって、ちゃんと話せば理解してくれるはずだ。
微かな希望を胸に抱き、不安の闇の中を、手探りで前へ進む事にした。
すると間もなくして、小さい体をより小さくし、身を潜めながら、藤井が朝礼の一番後列の端に加わった。
……ああ、やっと来た。……よかった。
とりあえず、藤井が出勤してきた事に安堵する。しかし、怒っている事はアピールしておこう。そう思って、藤井に向けて睨みを利かした。その直後、俯いていた藤井が、タイミングよく顔を上げる。
「ブハッ!!!!」
慌てて口を押さえて俯く。
人前でこんなに吹き出したのは、生まれて初めてだった。
は? え? ……幻?
もう一度、藤井をチラ見する。
目が合ってすぐ、慌てて視線を逸らした。
???? え、マジなのか? 藤井だよな?!
顔を確認したのに、なぜか“マツゲ”しか記憶に残らなかった。
えええ! マズイぞ……それは、マズイって!
2秒も目を合わせられないアイメイクなんて……ウソだろ!!
え、マジでそれが完成形なのか? 目指す方向を間違えてないか?
いや、もはや、誰なのかさえわからないぞ!! お前、誰だ?!
余りの凄さに、俺の脳が藤井の化粧と言う事実を拒絶した。
……頼む、違うと言ってくれぇぇ。 うぅぅぅ。
しかし、このまま現実逃避していても、問題は解決しない。 腹を括って、記憶した顔を脳裏に描いて確認する。(直視は無理) 自動的に笑いが込み上げてきた。
は……まさか! みんなを笑わせて、遅刻を帳消しにするつもりなのか?
いやいや、そんな仕込みをする時間があるなら朝礼に間に合っただろう!
だいたい、ツケマツゲって、顔を可愛く見せる為のアイテムだぞ。
人間に見えなくなってどうするんだよぉぉぉ!!!!
気持ちは泣きたいのに、頭は爆笑を要望している。 とにかく笑わない為に、太ももをツネって必死に耐えた。 しかし、肩が震えてきた。 腹筋も限界に達しそうだった。
『ひ、平居さん?』
心配した田辺が、朝礼の進行を中断して声を掛けてくる。整列した社員にも、動揺が広がった。
……くそっ、これもまた、真木のワナなのか?
仕掛けてくる相手を睨み返すため、顔を上げる。さすがに苦しいので左目はつぶってしまったが、開いている右目が藤井を捕らえた。
「ぶははははは!!!」
見なきゃ良かった……。
二回目だってその顔に慣れるワケがない。もう、藤井が瞬きするだけでオモシロさが倍増するのだ。そのせいで、折角我慢した笑いを全て吐き出してしまった。
しかもマズい事に、隣にいた田辺が、俺が爆笑した原因に気付いてしまった。
『えぇ?!! あはははははは!!!って、えぇぇ?!!……う、フフハハハ』
驚きと笑いが、交互に田辺を襲っているようだ。
そうか……。 クールなお前でも、我慢できないんだな。
少しだけホッとする。……って、場合じゃない!
前にいる二人が腹を抱えて笑っているものだから、他の社員が戸惑い出している。
『き、き、……アハハハ……キミ、ダレ?』
あ、そうだった。田辺は藤井の顔を知らないんだった。初対面でその顔はキツイよな。
さらにダレだと尋ねた相手を、みんなで振り返って探すものだから、見つけた順番に笑いがアチコチから上がり始める。そのうち、連鎖反応なのか、笑ってもいいんだという空気が蔓延し、あっという間に大爆笑の渦になった。
多分、このフロアーで笑っていないのは、渦中の人物、藤井だけだろう。
『な! 何でみなさん、笑うんですか!!!!』
真っ赤になって藤井が怒り出した。 ……って、誰だって笑うわ! バカ!
というか、笑われる事が不本意という事は、マジメにそのメイクをしてきたのか?
いやふざけられても困るんだけどさ……。
もう、ここまでヒドいと、何がいけないのかを藤井に説明してやる自信がない。
藤井の脳が導き出す答えを、俺が理解できないからだ……。
一人きりになって途方に暮れたかったが、フロアー長に許される事ではない。
とにかくこの現状を、打破しなければならなかった。
「藤井! 前に出て来い!!」
笑い声に掻き消されないよう、大きな声でコビトを呼んだ。後ろの列から、真っ赤に怒った藤井が出てくる。……まさに珍獣だ。
今更、みんなに紹介しないわけにいかない。もう変顔がバレてしまったのだから。
こうなったら、逆手にとってやる。……笑いを必死に抑えながら、皆に向けて紹介した。
「婦人靴に新しく配属された藤井だ。断っておくが人間だぞ。 今は、かなりのバカだが、少しバカ……ぐらいに戻れたら売場に立ってもらう。その時はみんなでフォローしてやってくれ」
一斉にみんなが笑った。 ……よかったな。 お前、ウケてるぞ。
『ば、バカってどういう意味ですか!! バカって言う人がバカなんですよ!!』
なぜか藤井が反論してくる。……って、お前は幼稚園児か! さらにみんなに大ウケだし。 もう、装いのバカから、本物のバカに決定されてしまったじゃないか。
「……田辺、あとを頼んだ。 藤井、ちょっと来い」
朝礼を田辺に任せ、藤井の首根っこを掴みながらバックヤードに連行する。
とにかくその顔で売場に立たせるわけに行かない。
ん? 待てよ。
この台詞……昨日も同じ事を言わなかったか?
ああ……頼むよ、藤井。 ちょっとは学習してくれ……。
って……イテ、こら!! 抵抗するな!!……ったく!!
「静かにしろ! 暴れるな!!」
プンスカ!と文句を言う藤井を小突く。
……馬の方が絶対調教しやすいと思った。
読んで下さってありがとうございます。
※馬耳東風……他人の意見や注意を、聞き流すことのたとえ(馬の耳に念仏もほぼ同意)




