第19話 ♪藤井香織 奇跡の採用を果たす
……しかし結構、内容が濃いもんだ。
就業規則表を手にため息をついた。かなりのページ数である。
果たして今日中にこれを覚えられるのか? というか読めるのか? まったく想像がつかない。……しかもすでに2ページ目でうんざり気味になってきている。
このままでは異動初日を迎えたにもかかわらず、一日の大半を古巣の事務センターで過ごす事になりそうだ。
っていうか、こんなに沢山の規則があって、みんな全部守ってるわけ?
自分など規則の存在自体、皆無だった人間である。
考えれば4年以上もの年月を、よくもまぁ、問題を起こす事なく過ごせたものだ。逆に奇跡に近いんじゃないだろうか。……と自分の幸運具合にびっくりした始末だ。
『捗ってる?』
顔を覗かせたのは総務の花形社員“渥見清子”(またの名を総務のあっちゃん)である。
その名の示す通り、ご両親はフーテンの●さんの大ファンだそうだ。
可憐な乙女にとっては、なかなかの迷惑具合な名前である。もちろん学び舎に通い続けている間中、愛称はトラちゃんだったそうだ。……心中お察し申し上げたい限りだ。
『差し入れだよ~』
と、あっちゃんがテーブルのお向かいに座ると同時に、目の前に缶コーヒーを置いてくれた。
うひょぉぉぉぉ!!!! すっごく嬉しいぃぃぃぃ!!
そういえば、今日は早朝1杯飲んだだけで、それ以降、コーヒーを口にしていなかった。
カフェイン中毒といってもいい私には、考えられない所業である。
POP室に勤務していた時など、日がな一日コーヒー漬けだったからだ。まぁその数、軽く10杯は越えていただろう。
あっちゃんに礼をいい。ありがたくプルタブを引く。
微かに広がるコーヒーの香り……。至福の時である。
口にすると、甘ったるい味覚が今日一日の疲れを洗い流してくれた。
『カオリンはホントに幸せそうにコーヒー飲むよね……』
ええ。事実、幸せなんです……。これ以上の幸せがこの世に無いくらいに。ふふ。
うっとりしている私を、呆れた顔であっちゃんが眺めていた。
『で、いまさらどうして就業規則なの? こんなの新人の頃に習ったじゃない』
……痛い所を突いてくる。
「うん。実は知らなくてさ……」
あっちゃんに、先ほど仕出かしたレジについてのとんでもない失敗を報告する。
『ええええ!! ホントに?!! カオリン度胸あるなー。 ってそもそも、就業規則を知らないなんておかしくない? 新人研修会は全員参加が義務づけられてるじゃん』
そうなんだけども……。
「私、入社式の前日に採用が決まりまして……」
つまり新人研修会の最終日だ。
『ええ? どういう事?』
「んんん……話せば長いんだけど……」
つまりはこういう奇跡が起きたのだ。
第32期新人社員研修会が、私の知る由もない所で開催されて2日目の事。
その事件はある人物によって引き起こされた。名前は知らないのでA子さん(仮名)としておく。
すでに商品POP制作室採用として新人研修会に参加していた新卒のA子さんが、その日の朝、一本の不可解な電話と共に姿を消した。
『辞めます』
慌てた人事課のおエライ方々が連絡を取り直したが、まったくつながらない。
A子さんの両親ですらその行方が分からないまま、謎の失踪事件がここに発生したのだ。どうやらその後、警察も介入したらしく、A子さんの本採用は見送られる事に相成った。
そこで、またまた慌てたのが人事課採用部門の人々だ。
3月末で退社が決まっているPOPの社員は妊婦さんで、まさに産み月まで頑張ってもらっていた状況だ。これ以上の延長は見込めない。もともと少ない構成部員で賄っているPOP室だ。一人居なくなると途端に立ち行かなくなる。次の補充は絶対必要だったわけだが、専門職になるので代わりの人材などそうそう簡単に見つかるものでもなかった。
ここまでは、真木部長に会食の時に聞いた話である。
一度も会ったことがないA子さんだが、今頃どこで何をしているのであろう……。
その行く末が気になる所だが、話を先にすすめる。
さて、そんな総務部人事課始まって以来のてんやわんやの状況下で、颯爽と現れたのがこの私だったのだ。……といってもホントに偶然なんだけど。
卒業年のぎりぎりまで就職活動を続けていた私だったが、この特異稀な性質のせいか、箸にも棒にもかかることなく、不採用通知続きに疲れ果て、勝手にその活動に終止符を打っていた。しかし、働かなければ暮らしていけない。正社員は諦めて、アルバイトの道を突き進むわけだが、ならば自分のやりたい事を仕事にしたいと思い、別件で募集が掛かっていたPOP室のアルバイトに応募していたのだ。
そしてバイト面接にやってきたのが、事件が発生してから3日後の事。
今でもその日の事は忘れられない。
『君、今年の新卒さん?』
「はぁ。そうですけど……」
バイト面接を担当してくれたのは人事の倉田係長だ。今でもこの人には足を向けて眠れない。おおざっぱ過ぎる彼がいなければ、今の私はここにいないからだ。
倉田さんが、私の書いた履歴書を熟読したのち質問してきた。
『リクルートスーツ、持ってる?』
バイトの面接でそんな事を聞かれたのは初めてだったので戸惑った。
「え? はぁ……クローゼットにあります……けど」
『それじゃあ明日、スーツを着てもう一度面接に来てくれる?』
は? バイトでもスーツが要りますか? 今も結構、真面目なカッコですけど。
「あ、あの……」
『君さ、バイトのシフト希望が、日中フルに入ってるから、もう正社員で行きましょう』
「はぁ?」……謎の台詞にさらに戸惑う。
『ちょうどさ、美大出(美術大学出身)の新卒さんだしね。うん。今なら間に合うよ入社式』
「え? いや、あの?」
『あ、正社員はまずい?』
「いえ! とんでもないです! ただ、あの……」
『それじゃあ明日、僕じゃなくて役員面接受けてもらうから……』
「ヤクイン?!!!」
役員っていきなり??
『うん。あぁ、大丈夫。心配はいらないからね』
いや、心配しかないでしょう! っていうか意味がわかんないんですけど。
そんな理解できない流れの下、筆記試験も一次・二次の面接もふっ飛ばし、いきなり役員面接を翌日の午前中に受ける事になった。面接時間はたったの3分。聞かれたことは名前と住所と趣味だけだった。付け焼刃ではあるが、用意した志望動機などにはまったく触れられることもなく、いったい何のための面接なのだ? ……と疑問しか湧かない内容にかなり戸惑った。
面接会場を出ると、ニコニコした倉田さんがすぐさま私を小部屋へと誘った。
テーブルを挟んで対峙する。見ると机上に書類が積み上げられていた。
その一番上の紙を目の前に置いて一言。
『まず、これが内定通知です』
は? え? 内定? え、面接結果とか、関係なしですか?
ま、まぁ、あんな質問で決められても困りますけども。
『それで、この束がうちの会社の資料です。お家で読んでね』
ドーンと5センチほどの束を渡された。
その後、いくつかの提出書類を渡される。
『で、ホントは仮採用期間中に新人研修会に参加してもらうんだけど……それ、今日で終わっちゃうんだよね。ごめんね』
……ご、ごめんねって、そんな笑顔で言われても……私、どうなるんですか?
『まぁ、君、POP室採用だから受けなくても大丈夫だよ。うん、あそこね、特殊だから心配いらない』
はぁ? そんな事で大丈夫なんですか?!!!!
『はい。そしてこれが本採用通知』
ええええ??? 仮採用からまだ5分しか経ってませんけど!!
『で、これが正式な入社の手続き書類です。住所と名前、その他書かれている内容に間違いはないかな?』
差し出された紙に書かれた内容は、間違いなく履歴書に書いたままである。
「……は、はぁ。間違いはないです」
『うん。それじゃあ、一番下にサインと判子をください』
ここまできてようやく、これはマズイのではないか? と言う不安が私を立ち止まらせた。あまりにも急な流れに、今までついていけなかったのだ。
「あ、あの。ホントにこれだけで正社員になっちゃうんですか?」
『う――ん。まぁ、普通はなれないけどね。君、普通じゃないから』
ふ、普通じゃないってなんなんですか?
『まぁ、成り方は普通じゃないけど、成るのは普通の社員だから心配いらないよ』
その心配いらないといわれる度に、心配が募るんですけど。
そういう思いでいっぱいだったが、言われるままにサインと判子をついた。
『よし、これで君は晴れてうちの社員になりました。同期のみんなは午後からの手続きなので、君は一番乗りだね。おめでとう!』
倉田さんが小さな拍手を送ってくる。……意味もなく恥ずかしかった。
このようにして私は奇跡的に、バイト面接に行って新卒採用を果たすこととなった。
そしてこの日がまさに入社式前日、いわゆる新人研修会最終日だったのだ。
『ええええええ!!!! なにそれ!!!! 研修も受けずに本採用なんてずるいじゃん!!!! しかも試験も面接も受けてないし!!』
黙って聞いていたあっちゃんが、思わず怒りの声をあげた。
「わ、私に怒らないでよ。倉田さんに言って」
『まったく! どうなってんだこの会社!』
ホントに、どうなってんだろうね……。
すると、口を尖らせていたあっちゃんが、急に神妙な顔に変わった。
『ずっとね、不思議だったんだよ。 カオリン、さも最初から居ました!……みたいな顔で入社式に出てたでしょ? 同期はみんな “アイツダレだ?”状態よ。 気がついたら、知らない顔が肩を並べて座ってる……なんて気味が悪いでしょ。 もうね、キミ、七不思議扱いだったんだから。 そう、オバケ! オバケと一緒だよ』
「それはヒドイよ……」
しかし、否定はできない。私は実際、幽霊社員なのだ。
内定者が入社前に必ず行く事になっている「事前懇親会」や「新人研修会」に、全く参加していないどころか、肝心の入社式に至っては、「諸事情あって途中から参加」という、もはや取り返しのつかない状況になっていた。
もう、どこにも「訳アリですが同期です!」などと、自己紹介する時間も場所も、私には残されていなかったのだ。
こうなると、あっちゃんの言う「入社式の後半に、ちょろっと出没した座敷わらし」が、私に対する同期社員の正当な見解だと、受け入れざるを得ないだろう。
しかもその後、日陰のPOP室に在籍する事によって、益々私は居なかったコトにされてしまった。
こういった理由により、同期社員の9割が私を同期と思っていない。(残る1割はあっちゃんだ)ゆえに、その後の同期会と言う名の飲み会に、お呼びが掛かる事は一度もなかった。
……淋しいものである。
『ああ、でもすっきりした』
「え?」
あっちゃんがニッコリ笑って答える。
『ずっと言えないような理由があると思ってたから、聞くの、遠慮してたの』
……なんだ、聞いてくれればよかったのに。 水くさいよ、あっちゃん。
しかし、そう言うさり気ない気遣いの出来るあっちゃんが、私は大好きだ。
ホントに自慢の友達なのだ。
「……で、でもね。 試験はちゃんと受けたんだよ」
意味はないが、少しでも平等性をアピールしてみた。
『え? いつ?』
「その後……」
そう、その後、まさに運命の出会いが私を待っていたのだ。
読んで下さって、ありがとうございます。




